山下由美子の山森(やまもり)ばなし

「山森掲示板」を作りました

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2010年12月28日
 「今年もあとわずか」
 2010年が暮れようとしています。みなさまにとって、どんな一年だったでしょうか。
 我が家では娘のパン活が終了し、あとは新生活の巣立ちを静かに準備する生活が続きました。ほとんど、毎日、大学やバイトで遅くなる娘はきのう、久しぶりに夕食を共にしました。かなりのハードな生活をしている娘は若さゆえ、風邪もひかず、元気です。ツオップに研修に通う土曜日は朝4時に起きて、朝風呂に入り6時前に出かけていきます。夕方は7時過ぎに美味しいパンと共に帰ってきます。来年4月まで私たちは自分でパンを買うことがないみたいです。うちの子どもは2人とも朝方です。朝の早いのは全然つらくないようです。だからパン屋さんは適していると思います。これは私たち親から受け継いだものでしょう。

 さて、来年が明けると、新規書類作りや宣伝チラシなど、待ったなしの仕事に突入します。今は今年の塾帳簿を整理中です。一つ一つクリアして春を穏やかに迎えたいです。

 とりとめもありませんが、みなさま良いお年をお迎え下さい。

2010年12月18日
 「透きとおった味」
 
 この水曜日で塾の通常授業は終了、明日の日曜からちょっと一息つきます。源泉につかり、骨休めします。来年の受験、新規募集、確定申告、実績報告のことをしばし、忘れて休養です。その後は年末年始なくフル稼働します。
 
 そんなタイミングで今年も忘年会がやってきます。「親の会」という名前で。そのために、毎年恒例の「アキレスの牛すじおでん」を煮込みながら、パソコンを開いています。今日のテーマは「透きとおった味」です。下に材料をご紹介。
これがアキレスの牛すじをゆでこぼして、カットしたところ。 昨夜、カットして面取りをしてゆがいた大根。 ただいまストーブで昆布から出しとり中。すじは歯にやさしくなるまで最低4時間はかかります。
 おいしいものは透きとおっています。アキレスしかり、大根しかり。
 コーヒーも逸品は翌日も液が濁りません。そんなコーヒーは胃にもやさしく、薫り高いです。
 
 人間もかくありたいです。

2010年12月12日
 「チューリップの植え付け、暖冬異変?」
 今日はお天気の良い日曜日。
 
 昨日2学期のパーソナルクラスが終了し、一息ついているところです。フクシマは寝ている間に捻挫をしたとかで、きのうから足を引きずっています。(実際はあり得ないことですが、若い頃から、彼によく起きる現象です)
 
 朝からリュックを洗濯したり、冷凍庫を整理したり、荷物や郵便を送ったり、いろいろ雑用をこなし、午後からは庭(狭い)いじりをしようと思っていました。買い物に行ったついでに「チューリップの球根」とパンジーの苗を買おうとしましたら、球根が一切ありません。0フラワーパークで「チューリップの球根もう終わりましたか?」と尋ねると「もうありません。今年はあたたかいので庭いじりをする人が多く、あっという間に球根がなくなりました。」とのこと。いつもは10月末に買っておいて、シソを刈り取って整理してから、植え付けるのです。今年はあたたかいので、まだまだ大丈夫と買いそびれていました。個人の花屋2軒を回りましたが、ありません。最後にHピックに行って、「チューリップの球根ありますか?」と尋ねました。なんと、ワゴンに見切り品として3つ100円でピンクだけ残っていました。私の欲しいのもピンク。「わっ、良かった」といって5パック全部買いました。上石神井界隈で2010年で一番最後にチューリップの球根を買った人になりました。Hピックの店員さん曰く、「今年は出足が早かったですね。植え付けは12月でも充分咲きますが、来年は売り切れる前にとりあえず購入しておいて下さい。」。
 下に滑り込みで買った球根や5月まで楽しませてもらうパンジーをお見せしましょう。ずぼらな人は是非、チューリップとパンジーを一緒に植えてみて下さい。長く楽しめますよ。おっと、もう球根は完売だったですね。みなさんの街ではどうですか?
球根15個。ピンクのチューリップを植えるのは、もう20年になる習慣。 2011年の春を彩る色。今から植え付けます。12月から5月までが、パンジーの担当、そのあとはシソ。 私が管理できるのはせいぜいこのスペース。毎日見るので、虫を撃退。右はメダカの火鉢。

2010年12月9日
 「木守り」
 この季節になると、30数年前、私がまだ大学生だったころの1日を思い出します。
 クラスメートである西尾氏の自宅にお邪魔したとき、まだお父様がお元気で、私たちに茶碗や柿の話をして下さったことがありました。彼は茶道に非常に造詣の深い方で、茶道具のコレクターでもありました。

 ちょうど、この時期で、西尾家の庭にぽつんと残った柿を見ながら、その話は始まりました。

 『あれは、木守りといってね。
・・・・・千利休は弟子に好きな茶碗を取らせたところ、赤の茶碗だけが残りました。だれにも選ばれずに残った茶碗に「木守り」という名をつけ、大切にしたという話です。それはこんな風に毎年、柿の実を一つ枝に残し、来年もおいしい柿が実りますようにと願いをこめて置いておく習慣と同じでね、利休はその赤い残ったお茶碗を大切にし、その後、残された弟子たちも大切にしたそうです・・・・・。』

 その時のお父様の発音が「木守り」なのか、「火守り」なのか、あいまいだったので、両方で記憶に残りました。お茶碗は火を使って焼きます。お茶のお手前も炭をおこして火の傍で行われます。だから、利休の茶碗なら「火守り」がピッタリだし、柿の場合はもちろん「木守り」。当時私は両方の言葉が存在すると理解していました。

 室町時代から柿を残す習慣があったなら、柿になぞらえて利休が命名したものでしょう。そうではなく、その習慣とは別に「火を守る」という意味合いで独自に命名し、「一つで守る」繋がりで、融合していったのか・・・・。私は後者だと理解していました。実際のところ、よくわかりません。それでもかまわないと、思っています。願わくば、その赤の茶碗を一目見てみたい、見たらどっちか、分かるような気がします。

 柿の実が一つぽつんと残る季節になると、利休の「木守り」茶碗のことを思い出します。

 今朝の我が家の「木守り柿」を下に紹介しましょう。鳥さんに奮発してたくさん残しています。

2010年12月2日
 「師走」
 先生も走る時期になりました。みなさま、風邪などひかれてませんか?

 今年の秋は素晴らしい紅葉を、回数多く見ることができました。東京ではまだ、鮮やかな木々を目にすることができますね。山はもう雪の季節が到来したので、これからは大人しく平地にいることにします。
 我が家の柿の葉は2日前に急に落葉しました。その後にはたくさんの実をつけた枝が残されました。この柿は鳥さん用となります。

 柿のデザートを一つご紹介。
 柿の熟す手前くらいのをカットしてプレーンヨーグルトにつけます。1日くらい置いておくのがいいでしょう。甘みが欲しい人はハチミツやお砂糖を少々。柿の甘みもたっぷり出てきます。我が家はこれがいつも冷蔵庫に眠っています。もちろん種も多い、我が家産の柿です。会津の見知らず柿もいただいてあるので、上手に年末まで持たせられないかと思っています。ジュクジュクになったのは、扱いにくいですが、その手前、ほどよく柔らかい柿でぜひ自家製ヨーグルトを作ってみて下さい。リンゴをカットして入れてもいいですね。

 もうすぐコラム10周年です。2001年1月24日からこのコラムは始まっています。早いものですね。
 記念に期間限定の掲示板を作りました。たくさんの方から「山森ばなし、読んでるよ」と声をかけて頂いています。嬉しい限りです。このBBSにも何か残して言って下さると有り難いです。

 上のタイトル下方をご覧下さい。↑

2010年11月23日
 「おいしい1日」
 昨日まで清里のキープ自然学校という体験型の宿舎に行っていました。春合宿の下見です。その報告はたぶん「塾ブログ」でのりとくんが鮮やかにやってくれると思います。そちらをお楽しみに。

 さて、今日は珍しくまったり家で過ごしていました。私がまったりする時は推理小説と録画のサスペンスです。その両方三昧の1日でした。フクシマは『パ』のつく遊興施設に出かけました。そうお察しの通り、パチンコです。

 今日、皆さんにご紹介したい食材があります。それは「ツラミ」と呼ばれる牛肉の部位です。たぶんツラというくらいだから「顔」だと思うのですが、小さい時から「ツラミ」と呼んで食べていました。行商のおばあさんが売りに来た「ツラミ」もあり、お店に並んでいるものもあり、主に、「ホルモン」的な少量を商うタイプのものだったようです。当時は日本中の誰もが同じように食べてると思っていました。
 
 私の亡くなった両親は「ツラミ」500グラム、大根の大一本を一緒に料理して、食べ切っていました。「ほんまにおいしいでぇ、2人でお代わりしたら、みんな食べてもたでぇ」といっていたことを懐かしく思い出します。両親の食べ方は大根を斜めについて(そういう木製の器械があります)、甘辛く炒めた「ツラミ」に加えて炊くのです。炒めていたはずですが、大根から汁が出て結果的に炊くことになるのです。関西ではこんな場合、煮るとはいわず、炊くと表現していたようなのです。だから、私も今もフクシマに「ツラミと大根炊こうか」と提案します。「今夜大根とツラミ炊くから、大根買ってきて」といって彼を送り出しました。

 「ツラミ」の説明はこのくらいにして、おいしい1日の夕方はフクシマを待つ私の様子から説明しましょう。昼過ぎ「パ」のつく遊興施設に行って、なしのつぶてのフクシマにメールしたのが、5時30分。「大根買えましたか?何時ごろ帰りますか?」答は「いまでているのであとさんじゅふん」でした。『今パチンコが出ているのであと30分かかる』という意味です。
 私はゆっくり協力する意味で、「もう大根買いましたか?まだのようだったら、白菜で代用しますが、どうですか?」と返しました。フクシマの返事は「了解しました」。ははっ?、了解の内容が分かりません。出玉の勢いに我を忘れているのでしょう。再びしつこくメール、「大根買ったのですか、買わないで白菜で代用して欲しいのですか?どっちですか」と。答えは「ハクサイデオネガイシマス」。・・・・なんでカタカナ半角なのか・・・。
 かくして我が家の夕食は「ツラミ大根」ならぬ「ツラミ白菜」。これがうまかった。

 フクシマにメールする30分前、5時ごろバイト研修の娘から「ツオップ(カフェ部門)でグリーンカレーもらった。持って帰る。」私のツラミ大根炊くけど、カレーに変えようか?の提案に、娘は「ツラミ大根も食べたいし、ツラミのグリーンカレーも両方食べたい」でした。かくして、今夜の我が家の食卓にはカレーと白菜をまとった「ツラミ」が2つ登場することに。これがどえらく、うまい。あまりの両方のうまさにコラムを書いています。

 グリーンカレーはプロが作った流石の味。漉して滑らかな異国の味は関西の「ツラミ」と初のコラボ。甘く辛いカレーのすきまにツラミのこくが入り込みます。白菜をまとったツラミも「あまから醤油+ショウガ味」で、安心を伴うおいしさ。

 補足*ツラミは田舎の妹に牛すじ(アキレス)と共に年に2〜3回、送ってもらっています。冬場の贅沢です。ツラミが特に稀少になったとかで、関西でも食べている人は少数らしいです。柔らかい牛肉が上等の代名詞ですが、これはすじあり、固さありで、やはり庶民の味です。ただ味が濃いのです。そしてほどよい歯ごたえ。汁に旨味がまわって、翌日も楽しめる逸品となります。牛肉は脂ではなく、味の濃さと歯ごたえと決めてます。
3人で食べ終わったツラミ白菜。明日はちょっと味を濃くして、卵を落としてまた絶品に。液が澄んでいるのがうまい証拠。 関西とインドのコラボ。ツラミはカレーにもよく合って、昔から定番でした。こんな本格派相手は初めて。 左はフクシマが「パ」の結果、プレゼントしてくれたもの。右は西尾氏の外国土産(こっちはダブル)。期せずして同じ銘柄。

2010年11月18日
 『子育て卒業論文D・・・・・子育ての総量』
 調子に乗ってまた書いてます。
 私たちの子育てを振り返って、世間の皆様と同じと思っていても、後でリサーチすると変わっていると言われることが多々あります。その一つが「テレビとゲーム機を遠ざける」ということです。
 これは私たちが当時、夜は塾の授業でテレビを見る習慣がなかったことから始まります。テレビを見始めたのは「おかあさんといっしょ」からです。歌のお兄さんやお姉さんを知り、子どもの歌が我が家の歌となっていきました。見ているテレビはそれ一つでした。だからNHKの影響が強い毎日でした。体操や歌が始まるとテレビが子どもを遊んでくれることに気付きました。大変、助かります。ほとんどは一緒に見て歌ったり、動いたりしていましたが、ちょっと洗い物をするくらいの芸当が出来ることが大発見でした。うちの息子は幼少期は多動で、じっとすることがありませんでした。息子が起きている時はずっと気が抜けない親でした。そこへテレビの登場。親に「オレをかまえ!」とリクエストしてこない時間ができたのです。
 このテレビという便利マシーンに気がついた私たちは話し合いました。「やっぱり、こんな便利なものは危ない。見るものを限ろう。」これが2人の結論でした。
 保育園になってからは番組は1日2つ、というルールで息子と娘に決めさせました。2つと限定するといいものを選びます。2人に選ばれたものはそれなりの理由がありました。その選んだものが終わったら、テレビはおしまい。その後の寝るまでの時間は親とトランプやオセロなどをして遊びました。何度か『テレビを自由にしたら、楽なのにな・・・』と思いましたが、決めたことでしたので小学校になっても続きました。
 我が家の子どもは親と同じで早寝早起きタイプなのです。息子は小学一年生の時、学童から5時に帰宅した後は「この1時間はオレの時間」と言って、友人の家に遊びに行って6時ぴったりに帰ってきました。それから、夕ご飯を食べ、お風呂に入ってたら、8時には寝ていました。学校に慣れるまでは7時30分に寝ていたこともありました。テレビを見ている時間はあまりありませんでした。その当時宿題を出されると大変困りました。思いあまって「小学一年生に家の宿題はやめて下さい。勉強は学校で完結して下さい。」と父母会で担任に直訴して、担任は「その生活ではそうですね」と理解を示してくれましたが、周りのお母さんに総スカンを食らった記憶があります。口々に「宿題出して下さい。おおいに助かります。今から家庭学習の習慣をつけて下さるのは大変有り難い」という趣旨でした。私は「じゃ、うちはそれは希望しませんと」強気で言い返していましたので、息子が私が学校に行くのを嫌うわけです。話はそれました。
 夜は子どもとテレビなしで過ごす・・・・・。夕食を食べ、寝るまで父か母がどちらかが夜の時間を一緒にすごす。これを「子ども当番」と呼びました。フクシマが当番だった時代は娘が生まれる前の2年間でした。その後、平日の当番は私に固定しました。塾の授業のないときは子どもたちは迷わず、「お父さん」を選びました。だから、母は時々は友人との夜の会にも参加することができました。ただ、親なしで夜を過ごすということは娘が高校に入るまでは皆無でした。(今も私はきちんと夕方帰って家を守っていますが、ただ、娘が早く帰ってこないだけの話です・・・。)いつもどちらかが、「当番」と称して夕方には家にいて子どもと過ごしていた時代が懐かしいです。

 息子が小学6年生の秋に父親から言い渡されました。「明日からおまえは大人として、自分の時間を自分で考えて使いなさい。何時に寝ようとテレビを何時間みようと自由だ」と。中学校から自由化されると思っていた息子は飛び上がって喜びました。娘は予定通り中学校から解禁でした。
 寝る時間やテレビの時間が自由になってからも、それまでの生活と変化ありませんでした。あいかわらず、早寝早起きの生活は続き、親は子どもの時間を管理しなくてよい自由を手に入れて、本当に楽になりました。うちは早いうちから1人1台、目覚まし時計を持って生活していましたので、子どもを朝起こすという習慣も皆無でした。フクシマは「起こして」と言われると断っていました。「自信がないなら、時計を2つにしろ」と。今でも大学生の娘は家で一番早く起きて、親が起きる前に研究室に出かけています。

 振り返ると、「夕方からの時間」を子どもと過ごすことを重要と考え、時間をかけていたことに気がつきます。保育園時代、小学校時代、中学校時代それぞれ過ごす内容は違いますが、どちらかが夕食を一緒に食べて寝るまで一緒に過ごしました。『小さい時に手をかけておけば、あとが楽。小さい時に手を抜くと大きくなって、その分の大きなツケが回ってくる。子育ての総量はいつも変わらない。』これは昔の塾のおかあさんの言葉。当時は共感して聞いていました。

 私たちの子育ては最初に山を持ってきて、どんどん引いていくやり方だったんだ・・・と気づきます。一つ一つ子どもの裁量を増やしていき、親はどんどん楽になり、子どもの中にコントロール機能が育つことを中心にやって来たんだなと思います。手をかけている時は永遠にこの作業が続くのかとうんざりしたこともありましたが、今となっては懐かしい、楽しい日々です。

 今朝、フクシマに「何で私たちテレビやゲーム機を遠ざけたのかな・・・」と聞きました。答は「子どもを見ていて、どんどん受け身になっていく姿がいやだったんじゃないかな・・・・」でした。本人たちもよく覚えてないのですが、遠ざけたことは事実です。
 
 「ゲーム機」についてはまた、後日。
 

2010年11月14日
 『子育て卒業論文C・・・・ほめること』
 今から30数年前、丹誠塾を始めた頃のことです。本郷の太朗次郎社の場所を借りて「私塾の会」という会を開いておりました。フクシマが世話人をしていた関係で丹誠塾の講師もよく会合に参加しておりました。その比較的歴史の浅い頃、宮城教育大の元校長先生に講師として来て頂いたことがありました。その時の話です。
 元校長先生曰く(すみません、お名前が全然思い出せません、おっしゃった言葉は鮮明に記憶しているのですが)、「私は先生を評価するときに自分の受け持ちの生徒全員の良いところを書いて提出させるのです。たくさん良いところが書ける先生を高く評価することにしています。良いところといってもウソはいけません。自分が実感しているその子どもの良いところをたくさん書いてもらいます。これはいわば、先生の通信簿です。1学期、受け持ちの生徒の半数くらいしか、良いところが書けなかった先生には、2学期には頑張ってもっと多くの子どもの良いところを見つけなさいと伝えるのです。」
 そのころは塾を始めて日が浅く、生意気盛りの山下でした。公教育に失望し、学校だけには就職すまいと頑なに思っていた時期ですが、「こんな校長の元でなら、学校の先生になってもいいかな」と少し思いました。

 負けず嫌いの私はそれから1学期終わる毎に家庭に通信簿みたいに報告をおくりました。授業の記録とその子について私が思う所を書いた通信簿です。これは実際には私の通信簿でした。大学の友人が私が下書きもなく、何人もの子どもの家庭への通信を書いている姿をみて驚いていた記憶があります。「よくいろいろ書けるな・・」と。
 私はそうやって公教育の先生に張り合っていたのかもしれません。このことが私を大変鍛えてくれました。

 子を授かってから、私がしたことは「ほめること」でした。それもウソはいけません。私の実感に基づいて「ほめること」を毎日やりました。そのためにはよく見ていなくてはいけません。それから、あいまいな言葉はいけません。息子の絵にはよく、「素晴らしい」という言葉を使いました。だって素晴らしいから・・・・。自分の子どもをほめるのに気兼ねは入りませんよね。娘の絵はちょっと次元が違っていて、ほめる前に、彼女の絵に圧倒されました。娘の苦しさが絵に表れていてその迫力のすごさに驚き、母の胸は痛々しさにざわつきました。「お母さんにはこんな絵は描けないよ。すごいよ。でも、すごい絵が描けるときはあなたは苦しいでしょ。本当は平凡な絵でいい、あなたが幸せに生きている方をお母さんは望んでいるよ。この絵はすごい・・・。」実際。娘の絵はすごいのです。
 話はそれました。私たちにとって、子どもを評価するのに誰の遠慮もいらないと信じてきました。こうやってわたしたちはどんどんほめて2人の子どもを高い木に登らせて育てました。そして子どもたちは無限の可能性を感じて就学していきました。
 当然のことながら、小学校から中学校に進み、公教育の場では学校座標の評価を徹底的に教育してくれたので、2人の子どもたちはその後は私たちが「素晴らしい」とか「すごい」とかいうと、「ははっ、親だからね、親ばかね、学校の先生はそれほど評価してないよ」という言葉で切り返して来るように成長しました。それでもめげずに親はほめ続けました。

 ある情景をいつも懐かしく思い出します。息子が保育園の最終クラスの時に私に尋ねたことがあります。「お母さん、僕のクラスの中で誰が一番好き?ああっ、もちろん、僕が一番なのは分かっているから、僕をのぞいて誰が好き?」と。息子は自分の親友のY君の名前を挙げて欲しいという気持ちなのは分かりました。私がなんと答えたかは忘れてしまいましたが、その時の私の気持ちは覚えています。「ああっ、私たちの子育てのメインテーマは達成されているな。自分が一番だとこんなに疑いもなく、この子は育ったんだ・・・」という感動でした。

 子どもが長じるとほめるのは難しいです。社会人になった息子をほめる機会はあまりありません。娘はこれから厳しい社会の荒波に船出するので、せいぜいほめてパワーを注入したいと思います。ただ、敵もてごわい、正当な評価かどうか吟味してくるので・・・。
 
 自分の子どもをほめるのに誰の気兼ねもいりませんよね。

2010年11月11日
 「手前味噌」
 今年度で学校というものと縁が切れます。息子が小学校に入学したのが、今から18年半ほど前。それからずっと、学校という場所と付き合っています。保育園と違い、建前が幅をきかす場所でした。特にセレモニーにそれが顕著に現れ、母として申し訳ないと思いながらも入学式も卒業式も好きになれませんでした。高校・大学で親が式と無縁になれたのは本当に嬉しいことです。
 そして最後の卒業式。娘は皆さんと同様、袴姿で式に参加するようです。私の大学卒業時はもう丹誠塾を始めていたこともあり、袴姿など考えたこともなく、あれは女子大のお嬢様がする格好だと思っていました。実際、卒業式にもでていません。卒業アルバムも購入してないので、たぶん写ってないと思います。「私の娘が袴をはいて卒業式に出るんだ・・・。」と感慨深く思ったのは予約金を財布からだしていた時でした。皆さんと同じことを一通りやる娘なのです。
 東京農大の学園祭は農産物や加工品の販売で有名です。今までに2度ほど行ったことがあります。その中でも味噌は早朝よりすごい行列ができるので、チャレンジしたことはありません。しかし今年の学祭は台風と重なったため、客足が悪く、味噌が残っているとのこと。早速、娘に注文して買ってきてもらいました。もうこれで来年はないと思うとたくさん仕入れました。色とりどりのグラデーションになっています。これでこれから一年くらい、料理を楽しもうかと思っています。来春からは夫婦二人の食卓になり、消費も少なくなるとは思いますが、娘の出身校縁(ゆかり)の味噌で、美味しい生活を楽しもうかと思います。毎日、この味噌は旨いなと褒めながら・・・。
東京農大味噌のラインナップ

2010年11月3日
 「小谷と館山」
 台風の直後の小谷に行ってきました。東京ではあまり感じることのなかった台風14号の風も、小谷では強烈なものがあったようです。雨飾山荘からの道は強風で倒された木々で通行が困難かと思われました。ハイエースの屋根や側面を枝でぎりぎり、こすられながらも前に進みました。乙見峠への道は閉鎖です。
 今年のキノコは最高。ナメコ、ナラタケ、ブナハリタケ、キナメツムタケ、クリタケがたくさん私たちを待っていてくれました。保冷庫に積み込み、東京についてすぐ冷蔵庫にいれ、翌日早朝より下処理をして仕事に出かけました。これで一年、楽しんでキノコライフが送れます。冷凍庫を購入してからは、周りの方に野生のキノコをお裾分けすることがなくなりました。
寒波の後の落葉。雪が降ると足もとがツルツル滑る 小谷の紅葉は今年も最高 志納で入れる露天風呂。これぞ源泉掛け流し 名誉の負傷。タラノ木を握ったとき切ったらしい ナメコは洗って、小分けして、隙間をとって冷凍 ナラタケは出汁ごと冷凍。約12回分の夕食用となる
 
 そして、昨日火曜日。台風後の2〜3日がチャンスとばかり房総の浜へ繰り出しました。布良海岸も白浜も波が高かったです。波の間に海鳥が集まっている場所が遠くに見えます。フクシマ曰く、あそこに魚が群れてるんじゃないかな・・・・。強風に釣り人もほとんど見かけないのでもったいないなと思ってボーと見ていました。波をずっと見ていると不思議な感じがします。『波は休まなくてもいいんだなぁ。ずっと同じ動きを強弱を作って繰り返している・・・。私が浜から去って波のことを忘れて生活している間も、波はずっと寄せては返しを繰り返しているんだな・・・・。』ボーとこんなことを考えていました。フクシマは布良海岸を早く歩きたくて、さっさと出発しましたが、私は小一時間ボーと波を見ていました。
 白浜の海岸も波が高く、貝殻を探している時も波しぶきで頭から濡れることが数回ありました。浜の時間は駆け足です。あっという間に午後半ばになったので、早々に帰宅して、「おどや」で買ってきた珍しい魚を料理しました。
 画像で紹介するのは「やがら」。トゲウオ目ヤガラ科の魚という分類。ほとんどが口としっぽで、身は三分の一くらいかな。パックには鍋用と書いてあるけど、具だくさんで火をいれると骨などが鍋を汚すのでは・・・・と考えて、勝手にお吸い物と塩焼きに変更。
 実際のお味は・・・・。美味そのもの。ハモのような鯛のような・・・。上品な白身の魚でハモの小骨が皆無。くちばし付近は身の外れもよく、カマを食べてすっぽり身が外れた時の快感が味わえます。昼間は波を見てまったりし、貝殻を拾ってあるき、夕食で珍味に舌鼓を打つという極上に幸せな1日を過ごしました。
 
 山森ばなしならぬ、海森ばなしをお届けしました。
海鳥が舞っているのがわかりますか?無理かな? 台風のあとはいつもと違った貝殻があがる。今回はイモガイ やがらの頭の部分。ずいぶん口が長いでしょう あっさりお吸い物に。これが美味。 淡泊な味は塩焼きが一番。ハッキリ旨味が分かる ほらね、小骨がないでしょう。

2010年10月27日
 「岩茸」
 どうですか?この寒さ・・・。きのうは初秋から急に冬本番になってしまいましたね。
 
 私たちはこの気象の変化を山梨のとある山中で感じていました。10月、11月はイベントも目白押しですが、キノコツアーも次々と続きます。山梨の知人が「たくさんキノコが出ているよ」と誘って下さったので、さっそく行ってきました。今年のキノコは登場は遅いものの出来は良いようです。
 まずは知人宅の周りの雑木林を歩いて見ました。チャナメツムタケ、ハナイグチ、ムキタケ、クリタケ・・・。晩秋のキノコも登場していました。そして、午後からは「岩茸」を採りに出かけました。切り立った崖に命がけでとるのがこの「岩茸」。キノコの仲間というより、地衣類と呼ばれる仲間だそうです。15年以上前に前コラムの豆腐料理の店で食べたのを思い出します。知人は命がけではない場所なので、行ってみないかと誘ってくれます。私たちはもちろんお願いしました。

 場所はちょっとふせておきます。知人のためにも、「岩茸」のためにも・・・。
 今年、初の紅葉を楽しみながら、目的地に到着しました。足場を慎重に確保しながら、登りますが、土や落ち葉がふかふかしている雑木の林です。すこし傾斜がありますが、滑落する危険はありません。10分ほど行くと大きな花崗岩の巨岩の表面に絨毯のように「岩茸」が張り付いています。私たちは思い思いの場所でずり落ちながらも、採る作業に入りました。10年かかってこの大きさになると聞いて、大切にしなければと思いました。
 夕べは帰り着いて、キノコの処理を終えた後は梅干しのザルに干した「岩茸」をどう料理するかネットで勉強しました。酢の物、天ぷらなどがいいようです。試しに5つほど、マリネの液に一緒に浸して寝ました。今朝、食べるといけます。酢と相性がいいようです。食感はのりのようで、不思議な感じです。以前の味は忘れていて、初めての食材のようです。これから乾燥させ、保存する予定です。
 珍しいので下に紹介します。
沢にあった鹿の足跡 可愛いクリタケ 山は紅葉の盛り 裏は黒く石突あり 表面が緑のものも 今、乾燥中

2010年10月21日
 「パワースポット」
 今流行の言葉のようです。力をもらえる場所という意味でしょうか。でも、テレビで紹介される場合は神懸かりな要素も感じます。

 先日、ついで仕事がたくさんあって、奥多摩に行ってきました。もちろんその一つは息子に料理を届けることも入っています。青梅の市街地を過ぎると谷が深くなり、空気が澄んで来ます。車の窓を開けて深呼吸をしながら、息子は毎日この空気を吸っているのか・・・と思い、羨ましくなります。また料理を投げ入れてアパートの前をみると柚がたくさんなっています。あとでメールで知りましたが、大家さんから柚をいただいたことがあるそうです。「いいなあ、秋も春もいいな・・・。」

 そして、久しぶりに沢井から御岳までの川沿いの道を歩いてみました。昔はよく電車で訪れた水辺の遊歩道です。20才台から、いろんなことに悩んだときは必ず訪れました。そして結婚し子どもを授かってから一番よく遊びに来たのもこの場所。娘の首が据わってすぐやってきた時の写真があります。そのベンチも健在でした。いろんな人を誘って沢井から御岳のこの遊歩道を歩きました。亡くなった母とも歩きました。たくさんの卒業生や塾生のファミリーとも歩きました。澤ノ井のプロムナードに豆腐料理のお店があったころです。そうそう、のりとくんのイタリアの友人Mッシモ君も案内しました。彼は酒蔵にはあまり興味を示さないで、河原の大きな岩で静かに景色を眺めていました。私の友達とも春に河原にやって来て、クレソンを摘んだこともありました。彼女たちは身近な山菜に興奮していました。
 
 歩きながら、たくさんの記憶が甦ってきて、よく通った場所なんだな・・・・ここが私の元気の源かな・・・と思いました。豆腐料理が「わっぱ飯」の店に変わったのをきっかけに、また春合宿が御岳で行われなくなったことも足が遠のく理由になりました。息子が青梅に縁があるまではほとんど訪れることがありませんでした。(今は「わっぱ飯」が閉店し、「豆らく」という豆腐料理の店が開店しましたが、昔の店とは少し違います。)

 再び歩いてみて、やっぱり水辺の遊歩道はいいなと実感しました。距離が凄く短いので往復しても知れています。こんどはもう少し奥の場所を長く歩いてみようという話をし、季節限定の地酒を買って帰ってきました。

 みなさん、何か落ち込んだり、迷ったりしたら、水辺を歩きながら考えることをお勧めします。水辺は人に安心と勇気を与えるようです。整理して決断をしなければならない時、喧噪の中で考えることは避け、私は流れる水のそばで考えることにしています。

 きのうも関公園の池の周りを一周して仕事に向かいました。ここが私の日常の水辺なのです。
←ノブドウの実


  クレソンも健在→
     水辺を歩く→

2010年10月13日
 「ちょっと一息」
 10月、11月の日曜日は、ほとんどスケジュールが満杯で、12月まで一気に駆け抜ける季節です。紅葉が完全に終了したころ、ちょっとゆとりが生まれて冬期講習に突入します。そんな10月のキノコツアーの後1日が恒例の私たちの一息いれるタイミングです。月曜日にキノコツアーが終了したあとは、いつも野沢温泉に1泊して翌日帰ってきていました。今年は小布施まで足を伸ばしました。私たちは新潟から長野に抜けるのです。

 キノコツアーが終了したのが月曜日のお昼。山荘を片づけて出発。(キノコツアーの報告はのりとくんのブログにお任せ)
 まず、長野に抜けて向かったのが馬曲(まぐせ)温泉、望郷の湯。見晴らしの良い露天風呂です。ただ、循環併用で塩素ぷんぷんのお湯に長居は無用・・・と内湯はパスして次に向かいました。やはり野沢温泉にはかないません。小布施に着いて「六次産業センター」へ行き、焼き栗を食べたりして過ごしました。今流行の「一次産業」+「二次産業」+「三次産業」=六次産業という言葉です。農業が食料品の原料のみ提供する1次産業にとどまることなく、食品加工(2次産業)や、販売・情報・観光(3次産業)へも積極的に乗り出し、付加価値と雇用の場を創り出す創業産業を目指した6次産業センター・・・という意義付けらしいです。信州中野の「オランチェ」と比べ、おしゃれな感じです。
 4時過ぎには「おぶせの風」というユースホステルに到着。夕食を予約した時間まで、しばし部屋で仮眠をとりました。

 いよいよ本日のメインイベント。「蔵部」の夜の部に予約した時間がやって来ました。昼間の喧噪がうそのように北斎館辺りは閑散として、人の出入りがあるのは「蔵部」のみ。6時30分にカウンター席を予約して、楽しみにやって来ました。ここは酒蔵が経営するお店。地酒3種、氷頭なます、山芋の揚げ出し、各種炭火焼き(鶏肉、野菜、きのこ)、川海老、真菰竹のてんぷらや炭火焼き、竃炊きのおにぎり、おしんこ、ロールケーキ(まだありましたが、思い出せません)。満足して「蔵部」を後にして少し遠回りして宿舎に帰りました。
 翌日は簡単な朝食の後、一路「オランチェ」へ。8時45分に着いたら、もう行列が出来ていたので並びました。9時に開店して、私たちは目当てのものを籠にいれたら、即レジへ。だってレジの列に並ぶことになったら、あとの予定が押せ押せになるからです。多分レジを通過したのは10番以内だったと思います。9時10分に「オランチェ」を出発した後は野尻湖へ。

 野尻湖は地味な静かな湖でした。黒姫山の崩落から端を発した湖だと知りました。「ナウマン象博物館」に1時間ほどいました。フクシマは8000円近く資料を買っていましたので、学芸員の女性は「来年、3月からまた発掘が始まります。どんどん参加者が減少しています、友の会に入会されて是非発掘に入らして下さい」と送り出してくれました。

 次に向かったのは妙高の燕温泉「花文」。湯花漂う、強烈な硫黄泉です。以前立ち寄った時、あまりの温泉の良さに驚きました。今回は部屋着きの日帰り入浴を予約してきました。11時から3時30分まで、蕎麦を食べたり、温泉に入ったり、昼寝したり、本当にゆっくり過ごしました。温泉から上がって布団でグーグー寝るのが最高なのです。こうしておくと帰路に睡魔に襲われることがありません。これからも「日帰り入浴、デイステイ」と呼ばれる逗留の仕方を広めてもらいたいです。

 宿を3時40分過ぎに出発して、2度ほど休憩して、自宅に帰り着いたのは7時50分。渋滞ゼロの高速はあっという間に練馬でした。フクシマは途中横川SAで「かまめし」を買って夕食にしていました。「よく研究してして旨い」という感想。

 これで充電。師走まで頑張ります。
山荘で食べたお祭りのリンゴアメ。(渡辺家持参)懐かしい。でもリンゴは紅玉じゃなかった。残念。 M村さんお土産の天然まいたけ。その他たくさんの天然きのこで鍋を作りました。鶏からあげも好評。 ここからが信州の記録。田んぼのわらの干し方も個性あり。むこうの円柱形は珍しい。 「蔵部」のカウンターより厨房を撮影。若い男性のかけ声ときびきびした動き。空間の演出は秀逸。 8時45分で長蛇の列。信州中野「オランチェ」。農産物の100円均一。後ろの人と話すフクシマ。 黒姫山と野尻湖。一度訪れてみたいと思っていました。周遊の道は本当に狭い。

2010年10月2日
 「娘の就職活動終了」
 5月になって、娘が宣言しました。
 「今日から私の就活は第二弾に突入しま〜す。」
 何のことかと尋ねると、今まで大きな会社に説明会→エントリー→面接→結果待ちを繰り返してきたが、もう大手食品会社じゃなく、街のパン屋を軒並みに訪ねて食べてみて、新卒の採用がないか聞いてみる・・・・」
 ほおー、大きな変化です。大手の反応が思った以上に冷たいことと「本当にやりたいこと」をじっくり考えた結果のようです。

 春先にフクシマが早朝、松戸のツオップという行列のパン屋に朝食を食べに連れて行ったのを最後に親からのメーセージは終了しました。その時、父は娘に「選ばれるばかりじゃなく、おまえから選べ!就職活動はお互いに選び選ばれる関係だ」と伝えたようです。その言葉が2〜3ヶ月を経て、娘の中に実感として落ちたようです。
 財務担当の私は予算をつけました。1ヶ月1万円。それ以上は自前。
 5月から9月まで娘のパン活(娘は自分の就活をこう呼ぶ)は続きました。いろんな情報を得て、評判のパン屋のパンを片っ端から食べていきました。毎日、我が家の食卓には都内各所の名パンが並びます。食べきれない分はカットして記録紙を入れて封をして、冷凍。解凍する時に店名が確認できるようにです。これが割とめんどくさい作業。娘は買ってきて試食するだけで、後の冷凍処理はほとんど私がしました。
 結果わかったことは東京にはおいしいパン屋が多い。特に世田谷区、渋谷区が侮れません。身近では吉祥寺。ただ、有名というだけでピンとこない場合もあります。私はカンパーニュやバケットを希望して買ってきてもらいます。一番味が分かるので。この半年、本当に美味しいパンを食べて暮らしていました。たまに職場(介護事務所)に持参して、みんなに披露したこともありました。

 こんなパン活の中、夏休みには5日間、那須のベルフルールで実際に働かせてもらいました。厳しい職場だったようです。シェフからは「厳しさを覚悟なら4月から来てもいい」といっていただきました。しかし、娘はあこがれのキルシュを焼くパン屋ではありますが、迷っている様子でした。9月には「那須で修行することはないな」という言葉をぽつりと言っていました。そして、それからもまだパン活の日々は続きました。

 そして昨日、一番修行したいなと思っていたらしいパン屋から採用しますとの通知をもらいました。ここにも2度、実際に働きに行っています。一緒に働く仲間のエネルギーを感じて帰ってきたようです。縁を感じます。父が最後のメッセージを伝えた、あの松戸のツオップでした。
 
 かくしてパン活から解放された娘に今朝、フクシマが『東京のおいしいパン屋さん』という雑誌を渡していました。「なあ、お父さんお勧めのあの西荻のパン屋には一度行った方がいいよ」と父。「うん、行ってみる」と娘。
 
 彼女の強気が就職活動にも現れました。大学受験の時、過去問題を解いても一度も合格点に達したことない時期に「大学に入ったら何サークルに入ろうかな?」と言っていた娘です。それを聞いた母は尊敬すら覚えました。今回の就職活動第二弾は見事に娘の強気の勝利。私たち親は結局どこを選ぼうと、『自分で決めた』、『自分が勝ち取った』という事実だけを求めて応援していたように思えます。
 今朝、ケーキでお祝いをして、「お母さん、娘の就活ってコラムに書いていい?」と尋ねたら、「いいよ」との返事。
 
                                                              長い長い旅が終わりました。

嬉しいことがあるとケーキを買う。
 そうすると、嬉しさが増殖する。
  あと何回ケーキが買えるか。
   それを考えても嬉しさがやってくる。

2010年9月30日
 「苦手なこと」
 最近の私のテレビ利用法。
 録画して見る・・・・。今やっている番組も録画して、少し後追いしながら見ています。理由はコマーシャルをカットするためです。
 何が苦手って、保険のCMが一番苦手です。番組の合間、合間に「40歳女性で○○円」とか、「私は安いのに弱いのよ」と恥ずかしげもなく告白する女性の声・・・とか、「最先端医療をつけるとたったの○○円の加算」とか・・・・。人の弱みにつけ込んで商売しているみたいです。
 私たちは安定しない仕事をしているので、子どもたちが大学を卒業するまでは慎重に生活設計をしようと、相談して2人とも入院保険や生命保険に入っています。それも掛け捨て。貯蓄をしながらなんて考えもしませんでした。親として22歳くらいまでは子どもの人生のスタートを応援できるようにしたいと思っていました。そして、それまでに不幸にもどちらかが働けなくなったら、その保険で助けてもらおうと思っていました。幸いそういうケースにならなかったら、他の不幸に見舞われた家族の人たちにその掛け金が回っていくのもいいなと思っていました。互助会的な意味での保険でした。何もないのがもちろんいいので、欠け捨てても損したとは思いません。
 がん保険も入っています。自動車保険と同じように、フクシマの友人の世話でいろいろ検討して加入しました。保険については一つの結論を出したつもりですが、無神経に毎日、テレビから「おまえの保険はこれでいいのか?損してないのか?最新の保険はこうだぞ!」とやられたら、小心者の私は不安になり、嫌気がさしてしまうのです。死に方なんで分からないのに、「損するぞ!」と「困るぞ!」とメッセージされるのがいやなのです。宣伝でタバコをすう画像が禁止されるように、人の不安につけ込むCMも規制して欲しいと切に望みます。
 かくしてCMをカットして、テレビは見たい番組のみ見て楽しんでいるこの頃です。
 うちのマシンは親切で、録画を忘れても、ちゃんと撮っていてくれるのです。もちろんお笑い番組です。録画の『アメトーク』や『芸人報道』をゴールデンタイムに見るのが大きな楽しみです。

 皆さん、CM気になりませんか?

2010年9月16日
 「清里に出会う」
 猛暑の勢いがまだまだ納まらない9月中旬。週に一度は歩くことに決めてあるので、ちょっと足を伸ばして八ヶ岳を見に行くことにしました。八ヶ岳を歩くわけではありません。その麓のちょっとしたアップダウンのある渓谷を歩く・・・・・と漠然と想像して出かけました。平日の早朝です。
 まず向かったのは一度行ったことのある「まきば公園」。北に八ヶ岳、南東に富士山、東に秩父方面の山並みが眺望できる牧場横の公園です。今年の春、げんごろうさんに連れて行ってもらった絶景の地です。私たちのもくろみではその近くの沢を少し歩くつもりでした。
 ところが長坂ICを降りてから「まきば公園」までに迷ってしまったのです。2人とも、うる覚えで「たしかこの辺・・・」と進めていくとドンドン佐久の方面に行きそうになり、引き返したのです。困って八ヶ岳を目指して北上しますと、初めての通りに出ました。牧場が広がるなだらかな南傾斜のストリート沿いにたくさんのロッジ風の建物が点在しています。看板が「清泉寮」と何回も出てきます。なんだろう?蕎麦屋かな?保養所かな?・・・・・と思っていると、大型バスがどんどんやってくる駐車場がありました。八ヶ岳自然ふれあいセンターでした。当日は休みでしたが、そこの駐車場は大型バスで満員です。大勢の大学生がゼミ合宿らしく、チェックアウトしてバスに向かっています。中学生のオリエンテーリングもスタートしています。そのエリアは清里でした。はは〜ん、これが人気の清里!
 それからは私たちは乗りかかった舟・・・とばかり、清里のこのエリアを探索しました。パン屋で天然野菜酵母の食パン、カンパーニュを買い、土産物屋で珍しい舶来ものの封筒や輪ゴムを買いました。そして、土産物屋の入口の地図で近くに「川俣渓谷遊歩道」という道があることを知り、そこを目指すことになりました。

 その道は八ヶ岳に源を発する川俣川東沢をめぐる自然歩道で、川の水によって削られてできたロックガーデンを歩きます。80〜100mの高度差を持つ切り立ったV字の渓谷です。Cトレイルと呼ばれるキープ自然歩道の一つになっていました。ここでキープという名前が出てきました。清泉寮とは蕎麦屋ではなく、そのキープ協会の宿泊施設だということも分かってきました。フクシマが「キープ?聞いたことがあるな・・・。パンフレットをもらおう」と土産物屋近くの建物へ車を向けました。その時私は「早く渓谷の自然歩道に向かえばいいのに・・・、でも案内書をもらっておくのもいいかな・・・」と考えて車内で待っていました。フクシマはキープの宿泊施設のパンフレットをもらって出てきました。
 その後、清泉寮の裏から始まるキープ自然歩道〜Cトレイル〜「川俣渓谷遊歩道」を2時間ほど楽しみました。感想は「涼しい」そして「水量が豊富」そして「素晴らしい」。遊歩道は手すりや赤い道しるべ、鎖場など・・・、よく管理されていました。最後にまた清泉寮の裏に出てきました。清泉寮辺りは大きな観光地。アイスクリームに行列する中学生。清泉寮を背景に写真を撮るおばさま達。みんな清里の高原の風景の中、はしゃいでいます。私たちも牧草を渡ってくる風を楽しみ、しばし休憩し、次の目的地は「まきば公園」としました。そのころにはたくさん地図をみたこともあり、「まきば公園」との位置関係も理解できていました。ほんの近いところに大きな公園はありました。
 
 「まきば公園」で360度の眺望を楽しみながら、キープの宿泊施設のパンフを2人でじっくり見ました。そこで、大きな発見。宿泊施設は老舗のホテルのみならず、団体用の自然学校、キャンプ場などリーズナブルなプランもあることが分かりました。フクシマが「春合宿にどうだ?」と言い出すので、思ってもいなかった球だったので、頭を切り換えてじっくり考えました。フクシマは続けます。「ここは何だか、明るい。」、「やることがたくさん見つかりそうな場所だな」。
 私はただ歩くだけに来ていたのですが、そういわれると春合宿・・・、もう一度千倉をと簡単に考えていましたが、この八ヶ岳の麓の地は明るく、開放的です。富士の朝霧に匹敵する眺望です。宿探しか、いっちょ仕事をしてみようか・・・、と思います。
 
 その後、2人の行動は再び、キープの事務所に引き返し、4月の予約の埋まり具合、規模、内容などを話し、実際に宿舎(自然学校)を見せてもらうことにしました。食堂の説明で「せっかく作ったものを残さないようリーダーさんに工夫してもらって、盛りつけをお願いしている」という話の時には『私たちと食時に関して同じスタンスの宿があった』と満足しました。
 丹誠塾では食事の前の説明に「お返しコーナー」の話をします。食べ物はみんなの身体に入って力になるために育ってきたので、決して簡単にゴミ箱に捨ててはいけないこと、食べられないものは予め「お返しコーナー」に返して「お代わりコーナー」として他の人に食べてもらおうと進めています。残食はほとんどでません。このキープ自然学校の食堂もその方式です。
 150名収容ですので貸切とは行きませんが、もと病院設計のこの宿舎は共同スペースが広く、非常に使いやすそうです。次はスタッフでここを一度経験して、食事を食べてみて、周りの探検をしてから、決定したいと思います。仮に予約を入れて帰路につきました。

 休日に沢を歩くことも実現し、かつ春合宿候補も下見し・・・と、盛り沢山の1日は終わりました。

 あのとき、まっすぐ「まきば公園」に行けていたら・・・・、あのポールラッシュ通りとは出会わなかったと思います。不思議な縁。
肉厚なマスタケ。味はイマイチなので撮影のみ。 奥入瀬渓谷を彷彿させる清流。八ヶ岳を源流とする沢。 イヌセンボンタケ。小さく群生するのが特徴。食には不向き。 この看板が有り難い。ゆっくりなら幼児でも歩ける小径。 この手すりは磨いてあるのか、ささくれない。 滝の供給が切れたので沢と孤立した溜まり。一匹イワナが。

2010年9月4日
 「2学期スタート」
 本日より塾の2学期がスタートです。まずはパーソナルクラスから・・。夏の暑さで思考がバラバラですが、残暑の中、気を引き締めてやっていこうと思っています。新学期の生徒募集も明日、新聞に折り込まれる予定。巻頭は若手の文章。裏面はこのコラム「子育て卒論」から、のりとくんが編集して掲載しています。お目に触れた方、どうぞ、ご一読下さい。
 
 さて、昨日まで、やっと夏休みとしてフクシマと東北(宮城、山形)へ行ってきました。「峩々温泉」で2泊し、昨夜おそく帰還しました。5月の連休は行けなかったので、久々の東北です。

 1日は二本松ICで高速を降り、「岳(だけ)温泉」でひとっ風呂。続いて遠刈田(とおがった)温泉の「神の湯」で汗を流しました。ランチは峩々温泉系列の「ベルツ」で取りました。軽くと思っていたけど、結構重たいランチとなってしまいました。宿にチェックインしてからは、温泉、読書、ウトウト、風で涼み・・・・、の繰り返しでした。

 2日は宮城蔵王のお釜に行きました。その手前のコマクサ平の展望台で珍しいブロッケン現象を見ました。ブロッケン現象とは太陽などの光が背後からさしこみ、影の側にある雲粒や霧粒によって光りが散乱され、見る人の影の周りに、虹と似た光の輪となって現われる大気光学現象(ウィキペディア)・・・・・、だそうです。下に画像を紹介します。後光が差すとはこのこと。

 お釜を見たあとは懐かしい山形蔵王まで足を伸ばしました。20台のほとんど、9年続けてスキーをした場所です。その頃から、今の私たちがやっているように、友人を集めて大勢でツアーをしていました。友人たちが就職して、メンツが変わりながらも10数名のツアーは9年続きました。常宿は「喜らく」。毎晩、鍋料理で私たちの身体を温めてくれました。寄せ鍋、豚鍋、水炊き、すき焼きの4日間で一巡り。だいたいは5〜6泊ほどの長期滞在で、スキーを楽しんでいました。就職した友人たちは前後に2〜3泊と参加してくるケースも増え、私たち塾メンバーがコーディネートしていました。喜らくの女将さんが一度も樹氷を見たことがないと知った時の驚きは今も覚えています。当時は大変活況を呈していた山形蔵王でした。リフト待ちが40分に及ぶ時代でした。私たちは混むゲレンデを嫌い、早朝からロープーウエイに乗っていました。喜らくの女将さんは早朝出発する私たちに、おいなりさんや巻きずしを作って準備しておいてくれました。ツアーが途絶えたのは出産がきっかけだったように記憶しています。1990年代の山荘建設も蔵王のツアーの思い出が牽引力になっていたのかもしれません。
 
 懐かしの温泉街、喜らく、ゲレンデは健在でした。温泉街の共同湯「川原湯」は底からコンコンと湯が湧き出る最高のお湯でした。若い時代は本当の温泉の価値が分からないで入っていたみたいです。寿司屋「喜らく」でランチをし、車でゲレンデまで行きました。車を置いて、遊歩道を歩きながら、昔のゲレンデを想像するのは楽しい作業でした。パラダイス、ユートピア、中央ゲレンデ・・・・、全部覚えています。そして、あこがれの三五郎小屋。当時は宿泊するのは夢のまた夢でした。おしゃれな1杯のホットワインで寒さを吹っ飛ばしていました。その小屋が当時と同じ風貌でそこにありました。ちょっと圧巻でした。ただ、薄いカルピスが530円と高額で、車で上ってくる人たちは小屋の存在に見向きもしません。涼を求めて、ドッコ沼の辺に、てんでにシートを広げています。三五郎小屋のアルプスを演出するエクステリアや音楽がむなしく空回りしている感じがあります。変わらない喜びと変われない悲しさが同時にやってきました。30年前の斬新なコンセプトは今は色あせていました。

 蔵王の高原はアサギマダラが舞っていました。フクシマが手で捕獲しましたが、車に油性ペンがあるので、マーキングは断念してリリースしました。暑さで南下が遅れていることは確かなようでした。例年なら8月末には裏磐梯、9月には群馬県に降りてくるはずでした。

 3日には鶴岡のコフィアでコーヒーを2杯いただき、3時には帰路につきました。途中、郡山で夕食のため高速を降り、充分休憩して、再びかっとんで帰ってきました。猛暑の東京に着いたのは10時30分。

 宿でご一緒した方が「秘湯を守る会」の作家さんだったのには驚きでした。男風呂で温泉談義になり、ずいぶん詳しい人がいると思ったら、プロだったとフクシマが話していました。ラウンジでも一緒になり、色々な情報を交換して楽しかったです。
 下に厳選の6枚をご紹介します。
チェックインのお茶も朝食後のコーヒーも全て玄関ラウンジでいただく峩々温泉 厳選した画像とは言い難いですが、一応証拠写真。この霧の下をのぞくと・・・・・。 ブロッケン現象。うまく見えますか?中心は私の影。手を振れば、影も手を振る。 蔵王温泉「川原湯」。下から熱い硫黄泉がコンコンと湧く。熱い湯好きの人向き。 峩々温泉の露天風呂。溢れたお湯が河原に向かってドバドバ捨てられている。 あこがれの三五郎小屋健在。アルプス民族音楽が大音量で・・・。

2010年8月22日
「トホホな顛末」
 今日は重要な書類(消防署への届け出書と固定資産税の減免申請)を仕上げて、気分良く1日がスタートしました。
この勢いで庭のバジルやシソを収穫して加工しようか、そして靴を買って・・・、とフットワークよく猛暑へ出かけていきました。
 靴は思ったものが近くで見つかり、食材の買い物もついでにすませ、庭の収穫作業に移りました。
 
 狭い庭ながら、猛烈な蚊の攻撃なので、身体を覆って、蚊取り線香をたきながら行いました。大きく成長したバシルやシソの葉っぱは数百枚、いや千枚くらいあるかもしれません。蚊を牽制しながら、一枚一枚丁寧に収穫しました。そして冷やしておいたリビングへ飛び込み、やっと涼しい部屋での作業になりました。ざっと洗った後、ペーパータオルや布タオルを使って、葉の水気を取り、シソは使ったペーパータオルにくるんで冷蔵庫に入れ、出番を待ちます。

 さあ、バジルの加工です。昨年のソースはもう最後の1回を使い切り、新しいジェノベーゼソースを作り、小分けして冷凍しようという計画です。買ってきた松の実、皮をむいて冷凍してあるニンニク、オリーブオイルなどをフードプロセッサーに入れて、ガガーとやって終わり・・・・、のはずでした。ガガーの前半、フープロの中を見ると、どうもあるはずのない色彩があります。ブルーの何者かがあるのです。緑、黄色、白はあってもブルーのものは無いはず・・・。よくみるとガガ〜ン、『エイジレス・・・』という文字の一部が読み取れます。『あっちゃ、やっちまった〜』
 松の実の袋にあった脱酸素剤に気が付かず、ガガーと一緒に砕いたようです。頭が一瞬真っ白に・・・・・。「何が起こった!エイジレス?無毒?でも包装のブルーの袋はプラ・・・。ここまで作ったのに。一年分のバジルのなに・・・・・。」同時進行でいろんな判断がやってきます。このまま使おう、いや廃棄しよう。いったん冷凍して後で考えよう・・・・。

 1分後、私の下した結論は「廃棄」でした。・・・・いや〜もったいない〜・・・・・・。
葉っぱだけにして洗ったバジル シソはその何倍もの枚数 ラスト1回分の去年産ジェノベーゼソース オリーブオイルもたっぷりと使って・・・ 1分半後、かき氷の容器に入れて廃棄 フープロは早く洗って忘れようとしてます

2010年8月16日
「猛暑を歩く」
 昨年はサマースクールのあと、風邪で倒れ、長く咳が残り往生しました。今年は力80%を肝に銘じ、山荘で食事当番をしていました。おかげさまでサマースクール終了後も仕事に支障を来すこともなく、猛暑を暮らしておりました。

 我が家のお盆休みの過ごし方は「渋滞情報を聞きながら、家にいること」です。ただ、ここのところのあまりの暑さに涼しいところに、しかも渋滞の無いところ・・・・・と考えて、以前1人で歩いた「都民の森」が候補に挙がりました。フクシマも涼しい中で歩きたいというので、土曜日の朝、お弁当を持って出かけました。しかし、が〜ん、五日市の市街から人出がすごいのです。いつもの水生昆虫の沢戸橋まで車はノロノロの進行。秋川はいつもと様子が違い、湘南海岸のようにどこも賑わっていました。「へえ〜、お盆休みにバーベキューと考える人が多いのか・・・」と驚きました。
 さて、標高12000あたりの都民の森は・・・・・、残念「満車」「満車」の看板で中に入ることもできません。しかたないので、少し奥多摩湖の方に進み、見晴らしのいい駐車場でお弁当を食べることにしました。涼しいところでお弁当を食べることができましたが、歩くまでには行きません。涼しい空気をしばし楽しんで、帰路につきました。当初の予定では少し散歩をして夕方の6時ごろ、息子の所に寄って「南蛮漬け」を置いていくはずでしたが、急遽2時ごろに料理を投げ込んで帰りました。前日あまり、いいアジがあったので、少し多めに買い、早朝よりお弁当とともに「南蛮漬け」、これは息子の大好きな料理、を作りました。

 さて、翌日15日の日曜日には歩き足りないフクシマが提案しました。「西武線で玉川上水まで行き、そこから歩いて帰ってこよう」。なんと斬新な提案。これなら、車も使わずかつ涼しい上水沿いを歩けます。わたしもこの提案に乗り、おにぎりとペットボトルを持って出かけました。玉川上水駅は5年ほど前のイベントで「玉川上水を遡る」で途中断念した場所です。境の浄水場から羽村の堰まで2数キロを歩こうという企画でした。2度目の企画で、初回は20年ちょっと前で、その時は全員完走(完歩)しました。5年前は途中リタイアが多く、全員玉川上水の駅で引き返した記憶があります。
 その玉川上水から逆に我が家に帰ろうというのです。出発は8時5分。
 歩き始めの上水沿いは木々の木陰の涼しいこと。川の流れは見た目も清涼感を演出してくれます。歩いたり走ったりしている人の多いのもびっくりです。7〜8キロはスイスイで休みも、熱中症予防のために義務的に取っていたくらいで、いつまでも歩けそうなくらい快適な散歩でした。色々な橋が架かっていて、地図で進行を確かめながら、どんどん我が家に近づいて行きました。

 小平市、西東京市と進み上水は五日市街道と並行するようになりました。こうなると車の気配が邪魔で、足下も固い砂利道となります。それでも木々の陰は涼しく、なんとか進んでいけました。10キロを超える辺りから、木々の陰がどんどん減って行きました。そしてラスト3キロが地獄でした。玉川上水は西東京の端から千川上水となって、我が家近くに続いています。そこからが道路が大きくなり、所々アスファルトの照りが待っているのでした。ここで非常にばてました。2人で「バスに乗ろうか、いやいい路線がないから、すこしずつ歩こう」と話しました。
 アスファルトの照り返しの中、木々の陰もない場所を歩き通し、ヘロヘロで自宅に着いたのは午後3時。17キロを歩きました。フクシマはペットボトルを4.5本、私は3本消費しました。逆にオニギリは一つしかお腹に入りませんでした。

 帰ってシャワーを浴びてエアコンの部屋で憩っていると不思議な充実感に満たされているのに気がつきました。

 2人で「今度は西武立川から歩いて、鷹の台で電車に乗ろう。いいとこ取りで歩こう」と話がまとまりました。さあ、再チャレンジはあるのか!「猛暑」の中でさえ、身体を絞りたい2人でした。
「玉川上水駅」から旅がスタート こんな感じの涼しい小径がずっと続く 清流復活の先駆け「甦る水100選」 蝉の抜け殻が至る所に。死骸もたくさん。 蝉の穴。もちろん頭上は蝉の合唱。 ガサガサのフィールドも健在。

2010年7月26日
 「梅を干す。」
 風邪などで胃腸を壊した時に「ほっとする」食材ってありますね。私のところは「おかゆと梅干し」。
 健康な時は忘れているけど、弱った時にそっと存在していてくれる・・・・大人しい親友のような有り難さです。胃腸の頑丈な我が家の構成員は日常的に梅干しのお世話になることはありませんが、年に何度か、その存在を新鮮に感じています。
 今年は梅や柿の「表の年」のようで、我が家の狭い庭にも梅の実がなりました。日ごとにぽたぽた落下するので、滑り込みで収穫してジュースは断念して梅干しにした話は先日、報告しました。今日は土用の丑の日、その前日に干した「梅干し」の話。

 2年前に購入し、袋をかぶせて保存した「梅干し専用ざる、それも日よけ付き・・・」。すごいこんな優れものがあるのです。袋をはずすとき、黴が生えていたら・・・、躊躇無く廃棄しようと思いながら、風呂場で2年ぶりのご対面。しかし、ピンクの薄い色づきがあるものの、きれいな保存状態。まず、ここで驚き・・・。これは洗う必要もないかと思いつつ、風呂場で形式的に洗い、猛暑日のベランデでざっと干して、日光消毒をしました。どこまで清潔指向かと我ながら驚きつつ。

 そして、土用の丑の日に先駆けた7月25日に梅を並べることになりました。理由は明日からはそう家に居られないから・・・。26日から干したのでは遅すぎる。雨にも対応できないし・・・。

 25日は干しに干しました。その結果・・・・・実に美しい。その一言でした。梅を干すのは実に美しい。

 この画像で伝わるでしょうか?その予想以上の美しさが。
 
 梅が美しいのか、干す行為が美しいのか・・・。

2010年7月25日
 「猛暑は森林で」
 この猛暑・・・・。どうお過ごしですか?
 先日、涼を求めて五日市の「都民の森」に行ってきました。熱帯夜で早朝、目が覚め、「こんなことなら、えいっ」と起きてしまい、時刻表をパソコンで調べ、電車に乗って出かけました。1人でパスモと飲み物を持って・・・・。武蔵五日市の駅前もまだまだ暑くて、やっと一息ついたのは標高1000メートルの終点に着いた頃でした。猛暑から逃れたしばし天国の場所でした。
 たくさんの散策の道から比較的楽なルートを選び、途中途中、山歩きのグループの方と話しながら、いい汗をかきました。じっとりかく家の汗と違って、すがすがしい汗でした。「苗場もきっとこんな空気だろうな」と考えながら、歩いていました。そう、今はサマースクールの真っ最中。受験生と5日間、勉強三昧の日々をフクシマたちはおくっています。

 歩いたあとは休憩所で一休み。あまり涼しくて畳の休憩所で昼寝をしてしまいました。木材がふんだんに使われた建物は風がよく通って、思わず時間を過ごしてしまいました。幼いころ、おばあちゃんの家で昼寝したことを思い出しました。昭和30年台後半、田んぼを渡って来る風は天然のクーラーで冷やされて快適でした。あんな風はもうないだろうと思います。

 急ぐ旅でもないので、昼寝を終えた後は再び都民の森を散策。わさび田にいったら、虫に食われ、レース状になったわさびを見つけました。足を沢の流水に浸すと思ったより冷たく、すぐにやめました。夕方、下界に降りて、再びゲンナリする空気の中に舞い戻りました。でも、あの清涼な空間を想像するだけで、身体の何%は森林に飛んでいくような気がしました。
標高1200メートルから東京湾方面を望む

2010年7月11日
 「夏休み直前}
 あっというまに夏休み直前となりました。
 先週の日曜日は涼しい秋川の河原で水生昆虫の観察をしました。助成金をもらっている「子どもゆめ基金」の職員さんも参加して半日冷たい水に足をつけて過ごしていました。やはり奥深い河原は涼しいですね。水の落ちる近くはマイナスイオンのおかげか、聖域です。武蔵五日市の奥の自然を見直す機会にもなりました。これからのフィールドに加えるといろいろ活動が広がりそうです。

 そして先週1週間はずっと検査週間でした。大腸、胃と最新機器で覗かれて、一部をチョッキンとつままれて、検査結果待ちです。年を重ねると身体のメンテナンスが増えます。時間も費用も半端なくかかります。検査の前後は食事制限がつきもの。1週間のノンアルコール生活でデザートの習慣が出来ました。ソルダムをヨーグルトにつけたのがほんのり甘くて気に入りました。
 5月にちょっと頑張って文章を書いたので、軽い文章しか書けなくなりました。しばらく、こんな感じでお付き合い下さい。

 下に水生昆虫の観察会の様子や最近のハーブなどをご紹介。
涼し〜い・・・ プラナリアの実験 カジカを捕まえた カニ。親子かな。 大収穫のシソとバジル 梅干し良い感じ

2010年6月19日
 「6月の仕事・・・山椒と梅」
 税金や保険料などの支払いが6月にどっとやって来ますね。毎年のことですが、6月は出費の月です。それに加え、家事でも待ったなしの仕事が押し寄せる月でもあります。
 その中でもビッグ2が山椒と梅です。

 6月10日は実山椒が到着した日でした。去年より2週間ほど遅いです。収穫場所は丹波篠山だそうです。クール便でやってきた青々した実山椒を洗って、小枝をはずし、塩ゆでするのに約10時間を要しました。その後1週間の書類仕事と相まって、軽く腰痛が・・・。これがぎっくり腰の引き金にならないように養生しました。おかげで『ぎっくりイブ』は本番を迎えることなく終息しました。

 次に梅。本日、フクシマと娘が午前中、庭の梅をもぎました。たくさん落下して、ほとんど残らないタイミングでしたが、約2キロの収穫をみました。色をみると黄色が多いのでジュースはあきらめ、梅干し用に塩漬けにしました。

 他に6月にやった家の仕事は、柿の枝はらい、シソの芽の定植・間引き・収穫、水に指したハーブ(ローズマリー、セイジ)のじか植え、観葉植物の鉢替えなどなど・・・。階段下の小さな花壇でも毎日見ていると楽しいものです。

 この木曜日に都庁報告、遊学会会員への報告、助成金の概算払い申請を終え、一息ついているヤマシタです。梅雨の時期に心を和ませてくれたアジサイとクチナシはもうありません。隣家と運命を共にしました。移植する場所とその心の余裕が無かったのが残念。でも、シソは健在。今年も食卓を楽しませてくれます。希望の方、苗を差し上げますよ。
実山椒。小枝を取る作業が大変。1,5キロで1年分。佃煮を作り、残りは冷凍庫へ。 父娘で収穫した梅。遅かったので完熟してしまった。本当はジュースにしたかった。 2年ぶりの梅干し漬け。ネット情報で『重し』に水の袋を利用。これは便利。 蒔きもしないのに毎年発芽するシソ。何にもしないのがいいのかも。 今年3度目の収穫。醤油づけに。おにぎりに巻きます。 コップの中で根をだしたハーブ。元気です。

2010年6月5日
  「ある日の磯」
それはいつになく潮の引いた磯でした。 ナマコを→ ひっくり返したり、
貝殻をたくさんくっつけたイソギンチャクをつついたり、 ひなたぼっこする磯の生き物を眺めて、まったりしていました。
と、その時カニとヤドカリの闘いが始まりました。
 カニは瀕死の状態。(下がヤドカリ)
やっとヤドカリが勝ったところで、イソスジエビが横取りにやってきました。(右がエビ) カニはエビにモシャモシャ食べられ始めました。
すると、ハゼが2匹登場。砂煙をあげてカニを食いちぎります。エビは隅っこに追いやられました。 なんと無情 撮影者→

2010年5月31日
 卒業論文はしばし休憩

 きのう多摩川の河原で化石採りをしてきました。曇りながらも雨がふってくることはなく、昨年のピーカンの苦しさもなく、快適に過ごすことができました。ただ、この時期、寒さ対策をするという珍しい現象がありました。
 子どもたちはフタッフのお兄さんたちに「もとだし」をしてもらった母岩をコツコツ割って数種類の貝化石を掘り出していました。いつになく水量があり、流れも速いので、流れの中での発掘をやめ、小学生用に河原の乾いた所に母岩を運んで、そこで発掘作業をしました。運ぶ方はびしょぬれになりながら、重い岩を運んでいました。ヤマシタは靴を濡らした子どもの世話をしながら、隅っこで少々掘り出しました。アサリ、ヒメシラトリガイ、キサゴ、アラムシロガイ、カガミガイ、チゴバカガイ・・・・などです。
下に画像を紹介。
モノレールと多摩川がクロスする場所がフィールド 大きな母岩をみんなでよいしょ! 穴をあけられたヒメシラトリガイ(大昔もツメタガイは穴をあけていたことが分かる)

2010年5月15日
 『子育て卒業論文B・・・成長の指標は実感』
 たまに、フクシマが困って言う言葉があります。「あの子は心が育ってない」と。
 これは決していい状況ではありません。知識を学習する能力より大切なこと・・・。心が育つというのは数値で測ることはできません。子どもと長い時間を過ごしてきたフクシマの主観的な言葉ですが、何となく私には伝わる言葉です。心が育つとはどういうことなのでしょうか?

 まず、自分のことを肯定的に受け止めること。これがスタート。親が育てる中で「あなたはそのままで素晴らしい」と伝えた量が少ないとなかなかこの自己肯定感は育ちません。失敗しても「ばかねぇ・・」と笑いながら見守る親のまなざしの中で子どもは育ちます。
 そして、その次のステップは、実感を伴った言葉を伝えられて育ち、全ての言葉に感覚の裏付けががあることを知ること。コミュニケーションの大前提です。今日は後者について記します。

 私たちの子育てのテーマを一言でいうと「実感」を育てることでした。私たち自身が、聞いたようなことをいう、その場の雰囲気で言葉を発する、何かの権威、お墨付きの言葉を発することを戒め、自らの「感覚」で言葉を発することを目標にしていました。

 一番、分かりやすい例からいきましょう。如実に表れるのは『味』です。
 
 私はあまり、世間的に良い嫁とは言えず、姑と意見を違えることも多く、その都度お互いにかなりのストレスを感じて付き合ってきました。姑は私にたくさんのリクエストを伝えましたが、いつも申し訳なく、意に沿うことは少なかったです。
 しかし、そんな姑もほめてくれることがありました。それは、我が息子や娘が必ず料理の評を伝えることです。当時(1990年台)は私も夜の授業を持っていたので、週に一度は夕食を隣の母に頼んでいました。大変有り難いことで、母も張り切って孫たちとの夕食を準備してくれていました。「あなたはいい教育をしている。これはいいことよ。私の孫は食べた後、必ず、料理の評を口にして、最後には美味しかったといってくれるよ。黙ってるということがない。うまく育てたね。」と。この言葉を聞いて、思ってもないアングルでほめられたので、びっくりでした。それは意識していたことではなかったからです。「ちょっと、辛かったけど、おいしかった」「前のやりかたの方がオレは好き」「私は牛肉にあまり甘い味付けをするのは好きじゃないけど、これは美味しかった」とか、普段にそんなやりとりがあったのでしょう。意識もしてない日常を、姑にほめられて、すごく嬉しかったです。
 姑は孫たちに味見をさせるのが好きでした。加齢のため、だんだん味覚に自信がなくなってきたと彼女はいいます。(そんなことはなく、倒れるまで、とびきり鋭い料理人でした)だから、仕上げの前に2人に小皿で味見をさせ、「どう?」と尋ねている当時の姿が目に浮かびます。もしかしたら、味覚の世界で、2人を育てたのは彼女だったのかもしれません。

 広い意味で「実感」を育てることは遊びの世界で実現します。動機はすべて「おもしろい」から、「すごくひかれるから」、または「きれいだから」・・・・。こういう実感に裏打ちされて次の行動が出てきます。例えば、海岸にタカラガイを拾いに行くとき、人に何故いくのか聞かれたとします。答えは一つ「おもしろいから」「拾ってみたいから」「タカラガイがきれいだから」です。化石発掘をするとき、黒曜石をとりに行くとき、砂金をとりに行くとき、動機は「鉱物を観察して岩石の生成の過程を知る」なんてウソで、「おもしろそうだから」「やってみたいから」です。やってみて、「おもしろさ」に裏切られなかったら、動機づけがもっとしっかりしてきます。塾にはこんな方向をもってフィールドにやってくる子どもがたくさんいます。小さいながら、頼もしいと思います。彼らの中には「実感」があるのです。それを自分で意識したり、表現したりするのはずっと先のことでしょう。

 私は塾を始めた当初より「面白がるのは一番の才能だ」と感じてきました。そうじゃない子どもたちをたくさん見てきたからです。点数は取れるけど、面白がれない・・・・。大人の作った「為になる」風モチベーションではなく、自らの感覚で「面白いからやる」という動機で動けるのは、実はすごい才能なんだと今も思います。若い頃は淡い着想でしたが、今は結構、太い信念になっています。子どもにとって、感覚が育つことが成長すること、その感覚を肯定的に受け入れることが道を切り開いていく力につながります。それを学力と私は定義したいです。
 6年前、大学受験の息子を前に受験生にとって、一番大切なことは「動機づけ」だと考えて、父親といろいろな場所を見せて回りました。彼の実感の形成のためです。個人の感覚には口を出しませんが、親として最後の奉公をさせてもらいました。

 教育の目的は自分発の感覚をはぐくみ、それを肯定して、それを武器にして生きていくこと。
最近の宝物、黒曜石 欠けたものはナイフと同じ。産地の縄文人は加工して、物々交換に出かけたそうです 新聞紙2〜3枚は軽く、切れます

2010年5月6日
 『子育て卒業論文A・・・育児は保守的なもの』
 我が子を初めて抱いたのが今から、約25年前でした。いつも腕の中にいるその存在は小さくて大きなものでした。我が子の瞳を見ながらの生活です。瞳の中に私の顔が映ります。そんな時、「あ〜これこれ、この感じ。私も自分の姿を映しながら、過ごしていた時代があったな、。場所はもちろん母の瞳の中。」と、面白いようにどんどん記憶が蘇ってきました。その記憶の中では、ある日、母の瞳の中に自分以外のものが映るようになって、なぜだか寂しい風が吹いてきた時代も戻ってきました。妹の出現です。なんとなく、現実と折り合いをつけながら、認識よりはムードという感じで生きていた時代の記憶です。(この話はどこかで書きました。どこだったかな?)
 毎日、毎日、母の瞳の中で育っていった記憶・・・・。すごいことですね。乳児の記憶はずっと30年間私のどこかに眠っていたのです。我が子を抱いてその記憶が解凍されたように蘇り、その乳児のムードが戻ってきたときは面食らいました。「私の子育てはここだ、母の瞳の中に自分を見ていた頃が原点だ・・。」と実感した日々でした。そして、子を授かって良かった・・・・と心から思いました。なぜかというと、我が子によって古い記憶が呼び覚まされたわけで、一生眠り続ける可能性もあったからです。その時、浮かんだ着想です。「子を授かってやっと、人生という映画のオープニング部分を見て、完全に見たことになる。」ということです。説明すると、自分の記憶というのはどうしてもハッキリしているのは3歳くらいからで、それ以前は霧の向こうに隠れています。映画館で遅れて入って、途中から見始め、エンディングを過ぎ、またオープニングを見て、やっと映画の流れが全部つかむことができます。子育てもそれも同じで人生の途中から見ているわけで、子を授かってやっとオープニングを目撃できるわけです。わかりにくい表現ですが、当時の私はそのことを日々強く感じていました。
 田舎の母の孫のあやし方・・・・「だれが、だれが・・・・・」と泣いている子どもに同情を寄せたようにアプローチする様子、後ろからダッコして孫の身体を抱え、孫の両手に自分の両手をあてがい、孫の手の動きをコントロールしながら、「カイグリカイグリ、トットのメ・・・・」と遊ぶやり方。田舎の母の存在は誰よりも安心な「私の子育てシェルター」でした。
 子育て中はたくさんの育児書も出版されていました。病気の時は心配で「はじめて出会う小児科の本(山田真著)」を何度も読み返していました。ただ、今から考えると、子どもの扱いで迷ったら、いつも古いやり方を取っていたように思います。食べ物しかり、オモチャしかり・・・。迷ったら、新しいものの導入を避ける。地味な消費者でした。(お金がなかったこともありますが。)
 だから、ベビーフードの経験は皆無で、オモチャも積み木、レゴくらいでした。幼児になると、なぜだかテレビ・ゲームを意識的に避けていました。昔から実証されたもの、シンプルなものが選択の基準で、どうも私の子育ては「自分の育てられ方」をなぞっていく道のりだったような気がします。子育ては保守的なものだと振り返ります。

 「だから、それが何か・・・」と聞かれても困ります。今回の卒論のテーマは「子を授かった時に既に身体の中に子育ての原型がプログラムされている」という驚きです。あとはパートナーとの化学反応の問題で、同じ育てられ方をしたパートナーとの共同作業は楽、その逆は困難を伴うと思います。ただ、それを乗り越えて見事にコラボしているカップルはすごいと思います。私の場合はもちろん、前者で、今まで楽させて頂いたと感謝しています。

 お口直しにゴールデンウィークに作った木の芽味噌を紹介。色が悪くなったのは、実や柔らかい軸まで入れたせいかな?香りを楽しむ一番の料理。年に一度は作りたいですね。材料は群馬の「食の駅」で入手。たっぷり一袋で220円也。香りがいいので、先日苗を購入。これで3度目。いつも枯れてしまうのです。自家製の木の芽を採取して木の芽和えを作るのがライフワークになるかも。
 今年はタケノコではなく、アスパラとイカを和えました。
木の芽味噌作り。洗って水を切ったところ。 擦って緑のペースト状にする。 味噌、砂糖などの調味料を加える。

2010年5月3日
 「連休中閑あり・・・」
 性格の悪さなのか、フクシマと2人でテレビの渋滞情報を見るのが最近の楽しみとなっています。
 
 連休の最中、みなさまいかがお過ごしですか?私たちはどこにも出かける予定を立てませんでした。昨年の連休序盤、移動の高速道路で逆サイドの超混み混み状態を尻目に東京に帰ってきた経験から、連休のど真ん中に移動することは一生避けようと思ったからです。そして今年の連休のカレンダーは渋滞を作る一番の並びです。
 我が家は2日にお客さんをしてスペアリブを焼いた他はイベントらしいイベントは皆無です。フクシマは塾の累積のゴミを毎日セッセと片づけています。隣の解体が終わったら、今度は塾の整理です。身体が痛いと言って起きています。ヤマシタは最近新しくした携帯電話の住所録を作ることに没頭しています。

 さて、こんなにゆっくり家にいることも珍しいので、コラムの更新と思ってパソコンを開きました。いままで残そうと思っていたことをぼつぼつ書いていこうかと思います。題して『子育て卒業論文』。

 『子育て卒業論文@・・・親は油断するな』
 振り返ると子育てにはツボと思われる瞬間があるようです。子どもの毎日の成長を見ていると、等速で成長していくときと何か地下で進行していたものが、急に外に溢れるときがあるようです。また、外部のアクシデントで急な対応を余儀なくされるときもやって来ます。そんな時、夫婦2人して子どもをどこまで応援できるか・・・がツボのようです。親の本当の姿が子どもの前で浮き彫りになる瞬間です。
 我が家に起きた出来事です。今から約9年前、息子が中学校3年の時です。2学期の通信簿をもらって帰ってきた日の出来事。昼頃に帰ってきた息子は浮かない顔です。いつもなら夕方にならないといない母もなぜだか在宅していて、息子のいつになく沈み込んだ様子が気になりました。通信簿を見せられてその日が終業式だったかと気が付きました。中学3年生の息子は都立高校の推薦入試を受ける予定でしたので、内申点が気になるらしく、そのせいで浮かないのか・・・結果が良くなかったのかなと思っていました。
 息子が重い口を開きます。「○○と比べても、テストの点数や授業中の態度を考えてもおかしい・・・・。△△も◎◎も3だったし・・・」とどうも様子がおかしいので、通信簿を開くと英語の評価が「2」となっています。あれっ、と思って「英語が2っておかしいね」という母に息子は「いろいろ友達に聞き回ったけど、オレのテストの点数で絶対2なんてあり得ないよ。」と沈み込んでいうのです。もらったときからずっと疑問に思っていたようです。担任にぶつけることもできず、悶々としながら帰宅したようです。それからが大変。息子の集めた情報、テストの点数と通信簿の評価の関係などを参考にして『これは絶対間違い』という結論に2人で達しました。
 それからが急な展開となりました。早くしないと成績会議が終了すれば訂正の余地がなくなるからです。すぐ、学校に電話し、担任をつかまえました。戸惑う担任に、通信簿の評価がおかしい、1学期、2学期の英語の点数(どれも80,90点台)であり、いままで「2」の評価をもらったことがないこと、納得がいかないので、数字を示して息子に評価の根拠を示して欲しい、もし何かのミスなら速やかに訂正を求める旨を伝えました。
 結局1学期の英語の点数82点を2点と転記ミスしていたことが発覚しました。(修正液で消したまま、記入を忘れたようです。だから82点が2点と記録されました。)そういえば、1学期にそういうことがありました。その1学期の転記ミスをまだ正式に訂正してなかったのです。1学期にミスを息子から指摘された産休代替の先生から本来の英語の担当者へミスの訂正が徹底されてなかったのです。で1学期間違った点数がそのまま残ってしまったようです。ミスして転記することもあり得ないけど、その後引き継ぎもなく、ミスのまま内申点をはじき出した本来の英語教師や通信簿に最終的に記載した担任・・・・・どこかで検証する機会がなかったものか、本当にお粗末な顛末に開いた口がふさがりませんでした。もっとビックリしたことはその夜、学年主任、学級担任、英語教師が揃って我が家に謝りにきましたが、学年主任は丁寧な口調で謝罪を口にするのは当たり前ですが、英語教師が全く自分のミスと思っていない様子だったようで、本当にあきれてしまったとフクシマは後に語っていました。(その夜の対応はヤマシタが不在でフクシマがしました)
 内申点は訂正されると確信をもっていた母の態度に安心したのか息子の態度は落ち着いていきました。結局、3人の教師が謝罪に来たときなどは、不在の母に替わって父が温厚に対応することを喜んだほどでした。「お母さん、夜出かけてくれてよかった。何言うか分からないから・・。」と亡き田舎の母に言っていたようです。戦う時は母と共に、戦いを終結するときは父を・・・・という使い分けを望んだ息子でした。かくして、我が家の一大事は内申点の訂正ということで幕となりました。その結果、総合点で一ランクアップとなり、息子は推薦入試の合格圏内に入りました。だから、「2」を「3」にするだけで事足りました。本当の評価は「4」だったかもしれませんが、そのへんは父が大人の対応をしたと思います。「2」を「3」にするには1人の生徒が内申点を下げ、「2」を「4」にするには2人の生徒の内申点を下げる作業が必要となる時代の話です。今では絶対評価のもと「4」を乱発している中学校も少なくありませんが、「4」の数が決まっている時代の出来事でした。
 口数の少ない息子と久々に小学時代のように話をした1日でもありました。でも、解決したら、また無口な息子に、戻りました。

2010年4月22日
 「13年目の文章」
 先日発行の塾通信はお手元に届いたでしょうか?
 いつになくしんみり西尾氏の文章がありました。それは5歳半ばで逝った愛娘のことを綴った文章で、臨床心理士としての道も娘のことがないとなかったであろうと書いています。当時、塾の授業をしながら、心理の勉強を始めた彼が現実の厳しい壁(途中で大学院に進み心理の専門家になる道)に突き当たり、心理の教授に「あなたにとって、なくなったお子さんでなく、今生きているお子さんを立派に育てることが一番の任務です。小児ガンの子どもへの告知という重たいテーマに拘らなくてもいいのでは・・・」と言われ、彼の依頼を断わられたことを聞かされ、切なく思ったことを記憶しています。それでも彼は淡々と勉強し、今のポジションを得ました。

 その過程で私に語ったことがあります。多分愛娘を亡くして勉強を初めて2〜3年目だったように思います。「ヤマシタ、もう、モモミのことは外には言わないようにしている・・・・」という言葉でした。たぶん長年、私塾をやって来た者が若い人に交じって心理の勉強をする動機を訊かれて、「我が子を・・・・」という説明をしなくなったという意味だと思います。それを聞いたとき、彼のこれからの覚悟を感じました。
 
 さて、この塾通信で、ももちゃんのことを知らないたくさんの塾関係者に「自分の事情」を公開しているのを読んで、13回忌だからかな・・・と思いました。時間がいろんな拘りをなくし、ものの見方をシンプルにしてくれたのかなと思いました。

 13回忌の法要にはパーソナルの初日で参列できなかったので、福島と2人、先日平林寺に行ってきました。毎年、育てている薄いピンクの八重のチューリップを持って・・。
石に彫られた字は梵字の「あ」。全ての基本という意味らしい。西尾家の庭にあった石らしい。

2010年4月15日
「ちょっと押しできますか」
 
 先日新しいCDプレイヤーを購入しました。ケンウッドのコンポは息子が新居に持って行き、もう一つあったDENONはCDが聴けなくなってしまったので、書類仕事をしながら、「CDだけの小さいプレイヤーを買いたいな」と秋ごろから思っていました。そして、ある日のりとくんに「持ち運びの出来るCD聴けるの選んで」と頼みました。彼は「小さいながら音がいいのがあったなぁ・・・・・」と名前を思い出そうとしますが、でてきません。今度見つけたら、教えるよと話は終わりました。それから1〜2ヶ月くらいたったころ、「吉祥寺にいったら、例の音のいいやつ見つけた」とメールをもらいました。その名前はマランツCR101・・・・。聞いたこともない名前ですが、とにかくのりとくんの推奨だったので、さっそくヨドバシで聴いてみようと出かけましたが、取り扱っていませんでした。はてどうしようかと迷いましたが、結局ネットで購入することにしました。

 やってきた小さいCDプレイヤーは優れものでした。おまけにスタイリッシュ。すっかり娘と気に入って、仕事中もずっといい時間を過ごしていました。ところが我が家にそのプレイヤーがやって来た夜から異変が・・・。
 夜中の12時になると、消えていたはずなのにFMのスイッチが入り、「ザーザー」と音が鳴り出すので、飛んでいって電源をOFFにして寝る生活が続きました。いっそのことコードを抜こうかと思いましたが、時計あわせも面倒なので、そのままにして忘れて生活していました。先週の土曜日、のりとくんにその話をすると、怪奇現象なんかじゃなく、タイマーがセットされていて12時にFMの電源が入っているんだよ、と言われました。「な〜んだ、そうか」と家に帰ってマニュアルを読み「目覚ましタイマーを解除する」のページを探り当てました。それから、何度も解除に挑戦しましたが、いっこう♪マークが消えないのです。マニュアル通りに操作してますが、全然、思い通りにならないので、イライラしながら、その夜は寝ました。不思議なことにそのあと2日ほどは何事もなかったので、「私の思いが機械に通じたか」と思っていました。

 しかし、昨夜再び12時に音がして福島が切ったという話を聞いて、もう、放置できないと思いました。本日マランツのお客様相談センターに電話しました。電話に出た男性は親切にマニュアル通りのことを再度教えてくれます。「だから、そのボタン押しても♪マークが消えないちゅうの・・・・」と言おうとしたら、「あれれれれ・・・・・・・」♪マークが消えてる・・・・・何で・・・・・自分でやったときは全然いうことを効かなかったのに・・・・あれれれれれ・・・・。小さい声で男性に御礼を言ってそそくさと電話を切りました。
 原因は解除操作のボタンを「ちょっと押すこと」だったのです。私の押し方は長押しで、それだと正しく操作できないそうです。電話の男性は上手に「ちょっと押します」と言って誘導してくれたので、私の長押しが矯正されて、やっと「タイマー解除」を機械に指示できたのです。
 ねえ、ねえ、私と同じくらい機械に親和性のない方、「ちょっと押し」できますか?私同様、普通にやると長押しになっていませんか?
左の上から3つめのボタンがそれ スタイリッシュでしょ 普段は小さいリモコンだけで操作

2010年4月6日
 「強風の春合宿」
 4月の1日〜3日、房総で春合宿を行いました。
 初日は雨にたたられ、ビーチコーミングがほとんどできませんでした。その夜の「タカラガイの同定」の時間も変更。フクセンとのりとくんが進行役を務め、「ノット、リアル子ども相談室」を開催しました。子どもの疑問にスタッフが答え、良い答えを出した人が勝者となって、抜けていくというルールです。ベテラン2人のテンポの良い仕切りに会場は笑いで満たされました。
 2日目はもっと天候が悪化。雨混じりの強風です。午前中と午後はカメラ班と紙飛行機班(室内)に分かれて、活動します。午前中のカメラ班に浜へついて行ったヤマシタは強風の中、ビデオやデジカメを撮っていましたが、この私が風に飛ばされそうになり、撮影どころではありませんでした。午後になると少しは穏やかな風にはなりましたが、時々雨がポツポツ落ちてきます。そんな中、こども達は順番にデジカメで「浜、牛、線路、植物、動物、人物、その他・・・・」いろいろなものを撮りまくりました。自分のベストショットをスタッフに伝え、スタッフがファイルナンバーと特徴を記録し、メモリカードと一緒にブーさんに最終的に渡します。そして、そこからがブーさんと野路さん(今回、指導をお願いした動物カメラマンさん)の仕事がスタート。計1000枚のこども達の画像を2人で深夜3時までかかって整理し、発表の準備をしました。そして野路さん、ブーさん、ななこ(卒業生のカメラマンの卵)、のりとくんの4人が「子ども本人が選ばなかった」画像群からベスト10を選びました。のりとくんだけ、自分の作品1つを加えて11ショットでした。1000枚から10枚を選ぶ作業は大変だったようです。
 2日目の夜のお楽しみ会はこども達の出し物(ルービックキューブや体操)、スタッフのコント、フウカとタイガのそれぞれのギターと歌。コントはあとの感想文でいろいろ評価は分かれていましたが、ギターと歌はとても良かったようです。2人の度胸の良さには感心です。とくにタイガのオリジナル「矢原荘の夕日」は歌詞が未完成ながら、引き込まれました。のりとくん曰く、「かっこいいと思う瞬間があった」そうです。フウカの「はじめてチュー♪」を聴きながら、身近に音を聞く「初めての体験」をかみしめている中学生がいました。
 最終日はドキドキの作品発表。野路さんが1人1人コメントをつけてくれました。写真だけで、よく子どもの人物像が分かるものだとプロの眼を感じました。撮ったものに人が現れるそうです。

 半日かけて、本日貸し出しビデオを作りました。長々3時間にも渡るDVDになりました。ご家庭のみなさま、希望順に家庭を回ります。1枚で3時間全部をいれたものが1枚、半分ずつ2枚組にしたものが二組あります。DVDには子どもたちが自分のベストショットとして選んだもの、4人のおとなが選んでだベスト10など、全部、撮影してあります。すごい写真が多すぎてびっくりですよ。
 
 ホンモノの画像は何かの形にして、塾や家庭で楽しめるよう、担当者が考え中です。

2010年3月30日
 「再び、長い縁」
 吉祥寺で新居を構えた卒業生を訪ねてきました。福島と一緒に。
 話の中で彼女が31歳になっていることを知りびっくり!私のイメージでは、まだまだ20代で社会に適応するのに必死の、幼い女性像が濃かったのですが・・。毎年秋には、職場で仕入れ先に選んだ山形県高畠のリンゴを送ってくれていた彼女は「食」にこだわる管理栄養士です。いろいろな事情で私が彼女に先生として付き合ったのはたったの1年でした。その後は私の「トライアングル」のスタッフとして、一緒に子どもたちを見てくれた人でした。同じくスタッフとして手伝ってくれたHさんがこの世を去ったときも一緒に涙した仲間でした。バザーをして20数万円を稼いで、塾に陶芸の窯を購入したのは、彼女と一緒に出したエネルギーが源となっていました。彼女とやきものを焼きたかったからです。たくさんの作品を一緒に焼きました。吉祥寺の新居にもその時の作品が並んでいて、思わず顔がゆるみました。
 今、我が家で、特にフクシマが気に入っている器に「渡辺均矢」氏の作品があります。清潔感あふれ、ユーモラスな形で、かつ使い勝手のとびっきりいい器を、結婚記念に贈ることに決めたのは1月の中旬。購入してずっと出番を待っていました。不思議と骨董市の趣味の押しつけは今回は思い浮かばなかったのです。
 その我が家とお揃いの器を本日手渡して帰ってきました。きっと彼女は気に入るはず・・・と信念を持って持参したのは、一緒に土をこね、釉薬を作り、焼き上げた歴史が、そうさせていたようです。予想はあたり、新居の流しに包装をといたまま、彼女は器を放置して、一緒に私たちとマンションを出て、私たちを見送ってくれ、その後どこかに出かけたようです。きっと、今夜あたりは食器棚の引っ越しをして、納まる場所を作るつもりかな・・・・とうれしく想像してしまいました。それくらい、やきもの仲間としての彼女との付き合いは深かったのを感じました。同じ器を使いつつ、これから日常を重ねていく彼女を考えて、これも深い縁だな・・・と感じています。

2010年3月19日
 「長い縁」
 昨日は午前中にお墓参りをしました。
 ひばりヶ丘霊園と小平霊園をはしごします。小平にはフクシマ家の墓があります。ひばりヶ丘には卒業生が眠っています。お彼岸、お盆、年末とお墓を守ることがフクシマが母から託された仕事です。田舎では新宅でお墓について疎い私と違い、フクシマは早くから父親を亡くしている関係からも、年中行事の中心に小平霊園がありました。結婚当初から墓参りが私たちの歳時記の中にありました。
 ひばりヶ丘霊園で眠る卒業生は節目節目を共に過ごした縁の深い人でした。1993年7月、当時まだ、5歳8歳の子どもを連れて、専門学校生の彼と2人で山荘建設業者から引き渡しを受けました。車の運転は私でした。早朝出かけて10時から設備の説明、水抜きの方法などを一緒に聞きました。翌日からの「森の教室」に間に合わせるために必死で山荘の試運転を始めた1日でした。彼が設備関係を中心にきっちり聞いてくれました。翌日、大型バスでフクシマや西尾氏がこども達を伴って山荘に到着して、第一回「森の教室」は始まりました。
 翌年からも彼は中心となって山荘のメンテナンスをやってくれました。屋外の水道布設は毎年の仕事でした。大手の食品会社に就職してからも、必ず、大きなイベントにはやって来てくれ、夏、冬に必ず彼の姿がありました。今、彼の事を覚えているのは、大学生のスタッフくらいでしょうか?霊園でフクシマと「早いね、もう5年だね・・・」と話しました。「森のプレイパーク」の帰路で高速走行中でバーストしたワゴン車を、ほんの15分程で回復させ、みんなの待つサービスエリアに追いついた彼の活躍は素晴らしく、子どもたちを解散させてから、労を労う間もなく、彼は仕事のため早めに帰っていきました。それが彼との最後になろうとは・・・。いきなり居なくなって、死亡が確認されて、お別れ会を開いても、実感がなく、「何故だろう・・・」という思いがずっと胸に渦巻いていました。この数年間、霊園をはしごをしながら、やっと彼がいないことをじっくり心が受け入れたようです。今思う事は「忘れないようしよう・・・」という事です。日々に追われながら、どんどんいろんな事を忘れていきます。彼のことはどこかで思い出す機会を持とう・・・と昨日ひばりヶ丘霊園を後にしながら考えていました。

2010年3月10日
 「男と女」
 親しい友人が「孫がとうとうスカートはきたいと言い出した・・・」というので、「えっ、今頃?」と尋ねると「違うよ、下の2歳の男の子よ・・・」という答。上のお姉ちゃんの話ではなく、男の孫がスカートはきたいと言い出して困っているという。
 
 これはだれでも経験するジェンダーの問題。
 身体や生物学的な男女の差をセックスというのに対して、社会的文化的な男女の差をジェンダーと呼んでいるようです。たとえば、男は仕事、女は家庭。料理するのは女。こんな風に私の子ども時代はきっちり男女の役割が決まっていました。女の幸せは「結婚」と信じて、婚期の遅れている女性を陰で「行き遅れ」とか「行かず後家」とか悪口を言っているのを聞いた事がありました。「結婚」まで女性は仕事は『腰掛け』と呼ばれる「いっときの社会体験の時期」と会社も本人も認めていました。だから、お茶を入れたり、コピーを取ったりする女の子は若いのがいい・・・・・と年を重ねていく女性会社員の退職を勧めるため、いびる姿もあったようです。昭和の当たり前の光景でした。

 ところが、この20年、私の子育て時代は事情が変わってきました。息子の小学校低学年時代、先生からの「料理を作るのはお母さんですか?」という質問に息子を入れて数人の子が「お父さんもつくる」と答えたそうです。家事をするお父さんがポツポツ現れてきました。男女が同じように家事負担をして、同じように社会的な仕事を持つ・・・・ことが当たり前になりつつあった頃の話です。(もっとも、今は男女が同じように料理を全然しない現象もありますが・・・)

 そして、昨今。結婚してもすぐ仕事を辞めないで、しばらくは共稼ぎをしてもらうことを結婚の条件にしている男性が多いということを親戚から聞きました。子育てに突入するまでぎりぎりまで働いてもらうことを前提にしているそうです。

 時代も変わったな・・・、と思います。
 あの男の子は果たしてスカートをはかせてもらうのか・・・・?リベラルな彼女はどう結論をだすのか・・・。

2010年2月27日
 「気になる言葉、煽(あお)る言葉・・・」

 オリンピックとなるといろいろな言葉が気になります。

 昔は、笑顔がいいですね。出ました○○スマイル!・・・・・に閉口しました。だれでも仏頂面より笑顔がいいに決まっているし、○○スマイルと名前をつける必要があるのか・・・・と一人、苦々しく思って聞いていました。今も可愛くないですが、当時はもっと可愛くないヤマシタでした。
 最近は「お家芸」「真骨頂」という言葉が気になります。主にジャンプやノルディックに登場した言葉。日本のお家芸○○ジャンプ!、○○の真骨頂は距離・・・とか聞くと何だかイヤになります。あおっていることが丸わかりの言葉だからです。ジャンプ予選が終わって日本はただいま○○位!・・・・という表現に、期待すると後で小さい声で「あと10人は決勝から飛びます・・・」と説明が・・・。番組を一人でも多くの人に見てもらうために、いかにもメダルがとれそうな雰囲気を演出します。あおってあおって、いざ本番になると「肩すかし」が待っています。選手は悔しくて残念なのに、良い結果が出なかったことに観衆がガッカリ。おかど違いです。あおられているから残念感がつのるのです。民放にとって高いテレビ放映権を買っているからには視聴率を稼がないと割にあわないという事情はわかります。でも、NHKでさえ、視聴率を気にしているのでしょうか?
 
 それから、選手は国を背負う必要はないと思います。国の代表といっても他国のように国の威信をかけて、お金をかけてオリンピックに送り出されたわけでなく、大したお金も出さずに「国」「国」と言われるのは選手には気の毒なことと思います。選手は本人の努力でそこまで行ったわけで、国に育てられたわけではないし、国の威信のために競技するのでもなく、自分の生き方の中で最高のパーフォマンスをしようと自分のために競技をしています。。もちろん同じ日本人として応援する気持ちはありますが、結果だけ聞いても足りる気がします。「選手の努力が実って良かったね。おめでとう」という話です。まして、メダルがとれなかったといって責めるのは言語道断。一番悔しいのは本人なのだから、これ以上やいのやいの言わずにそっと次回へのエネルギーが湧くようにしてあげるのが大人というものでしょう。
 運良く、メダルが取れても、おいたちや競技の履歴をどのチャンネルも競って放映します。連続して各局に出演する選手も気の毒。

 こんなオリンピック騒動の中、我が家にはDVD録画という有り難いものがありました。もっぱらオリンピック期間中はこれで撮り貯めたものを見て過ごしていました。同じ映像を見せられるのはつらいですよね。

2010年2月16日
 「娘の就活」
 寒い日が続きます。寒い雨がミゾレ混じりになる時は本当に冷えますね。
 こんな朝、早朝より娘が大学に出かけました。研究室の掃除当番の日だから、いつもより1時間早く行くよ、と言って6時半ごろ出かけました。娘はただいま就活、奮闘中。
 自己アピールから始まり、果てはその会社への新規開発商品の提案・・・。こんな素人にどんなアイデアを求めているか・・・・、と思いますが、素人だからこそ「思わぬ拾いもの」があるのでしょうか?ううっ?それって、提案されたアイデアは採用で、就活に来た人物は不採用ってあるかも・・・。そんなことを娘と話しながら、夕食を食べていました。娘はコツコツ、毎晩エントリーシートを埋めて、研究室と就活の生活を頑張っています。きちんと家で夕食をとる生活が戻ってきました。

 33年前はなぜ、私たちはあんなに就職活動をさけたのかな?と、娘の就活を契機に考える事があります。息子は2年続けて公務員試験を受け、娘は食品関連の民間を大学の同級生同様に回っています。公務員、民間の差はあるものの、我が子は人並みに21〜22歳の試練を受けることを拒否しませんでした。
 私たちは就職より、起業を選びました。「自分たちで塾を開き、将来を開きたい・・・」いうのは簡単ですが、経営的には極々、零細な一民間の事業体。私が今収集している極小貝以上の小ささです。生徒が増えた割に収入が伸びない・・・、学年に人数の偏りが激しく、団塊の学年が卒業するとガクッと収入が低下する・・・、大手の出現に存在を脅かされる・・・、人材確保が急務になる・・・、どんどんいろんな局面で頭を抱えることが出てきました。この33年よくやって来たなと思います。この極々、零細な事業体で2人の子どもを育て上げるという快挙をもう少しで達成しそうです。

 就活を本格的にスタートする前の娘に、父は簡単に言いました。「就職したくなければ、起業すればいいよ。」と。

 私はすかさず、「起業して食べていく労力はサラリーマンの数倍だよ。人に雇われるストレスと事業を続けるストレスは別物。」

 かくして、娘は世間の方と同じように、職を探す旅に出ています。長い旅になると思います。どちらかというと、彼女の希望は大手よりも中小、東京よりも地方という傾向があるようです。そうすると、一緒に夕食を囲む回数は300回を切っているかも知れません。

2010年1月30日
 「脳の疲れは指先の作業で・・・」

 夜な夜なやっていることは極小貝の仕分けや整理です。
 
 先日、寒い中、館山の浜へ行き、タカラガイや極小貝を拾ってきました。それを夜な夜なウイスキーを片手に眺めて、分類したりケースにつめたりして楽しんでいます。小さいものは1o以下のものがあり、それがまた欠けずに完全な形で存在していることに感銘を受け、この作業がやみつきになってしまいました。レアなタカラガイに出会うのも嬉しいですが、小さい小さい世界にも大きな魅力を感じます。下にほんの一部を紹介します。

 どうでしょう?魅力的でしょう・・・。
3年ぶりにビーチグラスも採集し始めました。ランプにします。 一番好きなシラタマ その次がザクロガイ ハクシャウズもこのサイズ 彩りが一番バイガイ ホタルも可愛い

2010年1月17日
 「新規書類作成中」
 ただいま、2010年度の新規書類を作成中です。今までの塾の授業などを振り返ってもらい、来期も継続して通塾をしてもらうために2010年度の年間予定、募集要項をお渡しするのです。そして募集要項などの変更点を紙面で説明して、ご家庭で確認して、契約を更新してもらうのです。塾が一年で一番ナーバスになる時です。
 新設クラスもあるので、今回は比較的早めに準備がスタートしました。最初に現塾生の規模を固めて、外部に向けて2月中旬から募集します。新しい家庭との出会い前の段階です。有り難いことに、欠員待ちのクラスが多いので、来期募集は若干名というクラスがほとんどです。その場合、外部募集した時に、問い合わせの順番が重要な意味を持つので、不公平のないように本日一覧表を作成するつもりです。一覧表を思いついたのは昨日、入塾を希望のご家庭からの電話で、すでにそんな状態がスタートしていることが実感されたからです。
 
 塾との出会いはまず、保護者からです。でも通うのは子ども。契約更新作業が子どもの気持ちを中心に進められる事を願いつつ、書類原稿を作っています。
 新設クラスは開けてのお楽しみということにしておきます。配布は1月25日からで、更新〆切は2月5日とさせてもらっています。いつもながら、ヤマシタの誕生日とかぶります。

2010年1月6日
「割れやすい商品と子ども」 
 珍しく吉祥寺にでかけました。買い物で各所を廻り、ロンロンで肉を買ったあと、端っこにある生活雑貨の店をのぞいたときの話。
 
 5歳前後の妹兄が器の陳列棚に手を入れて小さなボールを転がして遊んでいました。一人が投げて一人が受けるキャッチボールをしていたのです。器の間の小さな隙間や長い皿の上がボールのコース。いまにも薄い磁気にぶつかり、カシャンと乾いた音がしそうな感じ・・・。その器の棚はガラスがはってなく、素通しでお客が手にとって見ることができるようになっています。小皿でも1,000円ほどで結構高額な器が入っています。しばらく見ていましたが、もう限界と思い、『こんなところでボール転がしたら大変なことになるよ、やめなさい』と声をかけると、2人は可愛くうなづいて、棚から手を引きました。私の声は周りの人には聞こえていたはずなので、彼らの近くにお母さんでもいれば、すぐ飛んでくるはずですが、結局誰も来ませんでした。2人は出口や通路をうろうろするだけで、保護者らしき人はいませんでした。私も自分の興味でいろいろ器を見ていたので、彼らのことはすっかり忘れていました。
 ちょうど私が帰るころ、出口付近で両親を迎える妹兄の姿がありました。ここでびっくり、両親で買い物に来ていたこと、高額の器のある店に5歳前後の子ども2人だけを置いて父母は用を足していたこと・・・。
 そういれば、今日の買い物の店でも陶磁器の器やガラスの商品のところに子どもがあふれていたな・・・。ちょっと手を触れても簡単に壊れる商品ばかりのところに、手も引かないで幼児を放置しているケースを2〜3見かけました。もし、子どもが誤って割ってしまったら、どうするのかな?店のマニュアルでは弁償させるのかな?それとも「いいですよ」と無罪放免するのかな?その被害分も価格に上乗せされているのかな?バスに乗りながらいろいろ考えてしまいました。

2010年1月2日
「2010年」
 あけましておめでとうございます。今年もよろしくお願いします。

 久々に隣の掃除を気にしない年末を過ごしました。30日に大掃除。フクシマはカーテンのはずし、装着に参加したのみ。娘は例年通り窓ふきを担当。私は換気扇から始まりキッチン全般。トイレ。洗面所・・・・・。
 そして大晦日は朝からおせちの準備です。フクシマは喫煙パイプを買いに新宿へブラブラ。
 私は無手勝流で伝統的なお重からはほど遠い「お重」を作りました。干ししいたけダシの煮物各種、かまぼこ、数の子、紅白なます、たたき牛蒡、酢ハス、海老はふわふわのエビマヨ、雑煮用で余った鶏モモでカラアゲ、彩りに固くゆでたブロッコリー・・・、庭の南天を使って仕上げにしました。

 実は隣を解体したことで分かったことがありました。私たちの水道は母屋の練馬区の水道管から引いていること、ゆくゆくは本来の私たちの家の前の私道から引いた方がよいこと・・・でした。そこで業者さんに工事を依頼したら、この私道の水道管は古くて細いことが判明。これ以上の増設は無理でもっと太い新しい水道管を布設してもらった方がいいという結論なりました。さあ、それからが大変。12月の初めから、ご近所の16名の方に説明して陳情の署名を集めることがスタートしました。日頃顔を合わす方は和やかに話が進みますが、新しい方や引っ越してここに住んでない方もいます。いろいろな方がいらっしゃる中、仕事の合間、話し込んで一人一人ハンコをもらっていくフクシマの姿がありました。本当に相手のタイミングを考え、話を持って行くことは大変な作業で、その労苦を考え、大掃除もおせちの準備もパスさせていたのは、私の心からの慰労の気持ちでした。
 ご近所への挨拶文や陳情書はヤマシタが作成しましたが、やはり訪問するのは小さい頃から知っているフクシマが適任・・・・と2人で相談した結果でしたが、とても気骨の折れる仕事だったと思います。

 昨日の夕方とうとう最後の1人の方が承諾書や署名を郵送して下さいました。たぶん年内に投函して下さり、到着が昨日になったものと思われます。元旦早々大きな肩の荷を降ろした気分の2人でした。

 本日は駅伝のテレビも見たかったのですが、かねてよりフクシマが希望していた「土偶展」に行ってきました。山手線も上野も久しぶりで、人の出もまずますでした。三内丸山遺跡の土偶や群馬のハート型の土偶もあります。私が一番惹きつけられて何度もその前にたったのは土器の表面に貼り付けられた「踊る女性」の造形でした。口をポカンと開け、力のぬけた動きがすごい存在感を持っていました。早く入場したので割と自由に見ることができましたが、会場を2〜3度ぐるぐる回って好きな土偶を見ていたら、11時ごろからドッと人が入ってきて、こりゃ大変と退散することにしました。平日にじっくり見るのが一番と思います。東京国立博物館、2月21日までやってます。私たち2人はすごく満足して帰ってきました。お勧めです。昨年のアシュラは混雑に敬遠してしまいましたが、土偶展は意を決して行って良かったと思います。
☆年末年始山荘に滞在した西尾氏より雪情報がきました。→
フクシマの母が倒れてから初めて使うお祝いグッズ。作法はあまり分からないがお正月演出は抜群。 無手勝流お重。来年は伝統的なものも加えたいです。 イチオシの土器の壁面。「踊る女性」の造形。(図録より自宅で撮影) 一晩で車が埋もれる。脱出に1時間30分。玄関前のブリッジ。  一晩でベランダの  手すりが埋もれる。 リビングより外を撮 影。

このコラムは2001年1月から続いています。過去の保存版を読みたい方はきのこをクリックして下さい。
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