山下由美子の山森(やまもり)ばなし



掲示板の保存場所


▲ブラウザの「戻る」ボタンをクリックして、戻って下さい。

2011年12月30日
 「2011年を思う」

 娘の旅立ちの年でした。
 そのタイミングで震災、原発事故と心配100パーセントの船出でした。今になって思うと、なんと娘はエネルギッシュに適応していったことか。実家に帰るのは髪をカットしたり、コンタクトレンズを購入するとき。早朝5時から夕方までの仕事も慣れてくると平気らしいです。

 また、フクセンがピンチの年でもありました。急に浮腫みが激しくなり、検査したら、だだ漏れ状態の腎臓で、即入院。53日間の病院生活を終えて、今月初め退院してからは、自宅療養が続いています。野菜スープ(ミネストローネ風)をたくさん作り、冷蔵庫に保存。1食分ずつ小鍋に取り、加熱して食べています。ヤマシタは醤油などは計量スプーンで計って入れる癖がつきました。お肉や魚を見ただけで、だいたい蛋白質量がわかるようにもなりました。

 2012年はどんな年になるのでしょう?何事も小さなサイズで生活していくかな、と思います。ハイエースからラウムに愛車が変身したように。そうです。7年ぶりにヤマシタもドライバーに復帰して、フクセンの退院や外来通院をサポートしています。大丈夫、安全運転ですから。

 そして最後に、息子に初めてゴチになった年でした。「お父さんが退院したら、ふぐを食べよう」と彼が提案したので、先日たっぷりごちそうになりました。天然のふぐの天ぷらがおいしかったです。てっちりやてっさは田舎で食べたことはありますが、天ぷらは初めてでした。しめの雑炊は塩を加減してもらって、心ゆくまでマイルドなふぐの味を楽しみました。
 みなさま、この一年おつきあい下さいまして、ありがとうございました。よいお年をお迎え下さい。
 また、来年も、よろしくお願いします。 

2011年12月18日
 「さざんか、あなどれません」
 
 どんぐりから始まった染めへの熱は桜、モミジと続いて、最近はさざんかへ。介助事務所のある花小金井駅周辺もさざんかが多く、20分拾うだけで、袋いっぱいになります。香りも花びらのいい香り。仕事中は冷蔵庫に入れて、家に帰ってクエン酸の液に漬けます。加熱もなく、媒染もなく、シンプルにただ漬けるだけです。驚いたことは最初の色が脱水している間に、そして日光にあてて乾かしている間にどんどん青みを増していくことです。最初の色はまさしく「花びら」と同じ濃いピンク。それが最終的に青紫で完成。初めてのことなので、成り行きに任せていましたが、次回はなるべく青を阻止したいとたくらんでいます。

 ご心配をおかけしましたフクシマは自宅療養も2週間近くなり、明日は初めての外来です。たくさんの検査をやってもらい、先生に退院後の通信簿をもらいます。食事はほぼ病院と同じ制限食を実行したつもりですが、素人なので、どうでしょう?彼の食べたいものをほとんど、制限内で作ってみました。とんかつ、コロッケ、餃子、おでん、てんぷら・・・。「腹いっぱい食べたい」が口癖になるほど、強い飢餓感を連れて退院してきました。食べるのがゆっくりの本来の彼の食事スタイルが退院直後はがつがつ短時間で終了していましたが、最近やっと戻ってきました。人間の中心には「食」があるのがわかります。
 今夜はオムライス。味付けで塩を使わず、生姜、スパイス、マーガリン、ケチャップで作った大きなオムライスに満足していました。「昔のデパートのオムライスの味がする!」ほめ言葉だそうです。塩分と蛋白質をにらみながら、作っています。

 夕べは「ゲームとおでん」パーティーでした。私はおでんをセットしてからは、風邪の初期っぽかったので、失礼してしましました。今朝は回復していましたので、鍋やタッパーを回収に塾に早朝行って来ました。スタッフのみなさんがお鍋を綺麗に片づけてくれていたので、助かりました。のりとくん、若者スタッフのみなさん、ありがとう。
これがさざんかの花びら。近所にも結構あることがわかりました。 クエン酸の液に3日間漬けてから、花びらを除いて布を漬け込みました。 水洗いして脱水して干しましたら、どんどん青みが増していきました。 箸入れを作りました。この青紫がさざんかの最終的に落ち着いた色。 大根(卒業生栽培)、人参、卵はフクセンが下ごしらえしてくれました。 夕方にむけて早朝より、我が家でおでん作成。(冷めてから、車移動)

2011年12月11日
 「桜染め その後」
 寒くなると赤く落葉する率が高まります。やっと赤くなったと思ったころは貯めておいた液がたくさんあるので、色の出具合を調べる段階に入り、もう拾っている余裕がなくなりました。そこへ、フクセンの退院となったので、桜染めのために葉っぱを集めることは11月末で卒業。

 友人は色見本を作成して、先日のビーチで披露していました。それを見たUちゃんのお母さんも興味を持っていました。シルク、綿、化繊、毛糸でも染まり具合が違います。それに材料、媒染のバリエーションで色具合、風合いも千差万別です。友人はサンプル作りに夢中、私はいち早く日常品作りへ。
 
 お約束通り、染めた布や作品に仕立てている途中をご紹介。
ステンレスの大鍋がないのでル・クルーゼを使用 思ったようなピンクはまだまだ出ません 先週、骨董市へ正絹の反物を探しに行きました 見よう見まねでパッチワーク風にしてみました 友人からたのまれた、カトラリー袋 さよなら、ハイエース。7年で16万キロ走りました

2011年12月6日
 「フクセン退院」
 皆様にたくさん、ごやっかいをかけましたフクセンの入院も本日でピリオドを打ちました。今後は自宅療養というメニューが待っています。ですから、すぐ復帰というわけにはいかないようなのです。もうしばらく、お時間をいただきたいと、お願いします。
 フクセンは腎臓という場所を痛めたので、食事制限が大切という毎日でした。塩分、それから蛋白質が制限される食事でした。つらい腎生検という検査もしました。尿から蛋白質がもれ出てしまうときは、食事で蛋白質をとってはいけなのですね。毎日、塩分6グラム、蛋白質50グラムの食事を53日続けました。そのおかげで尿からの蛋白質のもれも軽減して、おまけに体重も14キロ減量して、本日、退院ということになりました。

 ここではあまり、詳しくかけませんが、腎炎の原因が非常に厳しいものだったので、今後もきつい薬を使ってコントロールすることになりました。だから、「盲腸を取りました、もう大丈夫」という風な退院ではありませんが、確実にフクセンは元気になって、退院しました。

 人間には「身体と心」という2つの面があります。何よりもこの2つのバランスが大切のようです。

 フクセンは厳しい身体の試練を一連の絵で乗り越えました。絵が「心」を支えたようで、病室に絵を飾って、毎日、眺めて暮らしました。早朝、誰もいない場所で体操をして(感染症を嫌い人混みをさけたので)、日中は絵をながめ、本を読んで暮らしました。そのSOSを救ったのは娘の絵でした。入院して、「心」が悲鳴を上げそうになったとき、彼女に「あなたの絵のコピーを持ってきて」とメールしたようです。彼女は指示に従い、コピーを持って見舞いにやってきました。娘は小学校からずっと、絵を描いていました。とくに小学校の時に書いた絵は娘の苦しさが現れ、母として複雑に思った話は前にコラムに書きました。中学、高校、大学と書いていたようですが、その途中で絵を見せてもらった時はたまげました。理由は訳がわからないほど衝撃だったからです。でも、ずっと「親ばか」だろうと思って、それに娘も望まないので、あえて評価したり、他人にみせたりということは考えたこともありませんでした。
 でも、フクセンは「心」がつらいとき、すぐ娘の絵をみたくなったのです。毎日、絵をとっかえひっかえ、飾っていました。673号室はいつしか、知る人ぞ知る、小さな美術館になっていました。
 それが、いつのまにか武蔵野NSの病院内で話題となったのか、フクセンが病院のスタッフと絵について話する機会が増えていったそうです。特にお掃除の方にファンができたようで、意識的にみんなが絵を見に来るようになったそうです。看護師さんたちは忙しい合間に「あれっ」と絵を見ていくことも多かったようです。若い人ほど反応したようで、反応に2タイプあり、「気になって仕方ない」と惹きつけられるタイプと「だめ、気持ちが騒ぐから」というタイプ。

 武蔵野NS病院に小さな「絵画空間」をつくったフクセンの入院生活も終了しました。

 画像は本日、退院の帰り「とんかつ」の食材を買ったKストアー前で。今夜は低塩、低蛋白な、とんかつ定食をヤマシタが作りました。

2011年11月21日
「桜染め」
 休日には友人と練馬杉並界隈の桜の木の下に出没しています。20分〜40分拾うとスーパーの袋一杯になり引き上げます。友人と「お金のかからない遊びだ」と話しています。
 拾った赤い桜の葉っぱは瓶に寝かせるグループとすぐ煮出すグループに分けます。そして先日、後者を染めてみました。液を煮出しながら、桜餅の薫りに満たされ、視覚的にはワインレッドの液に未了されました。五感で楽しむ遊びです。
 ただ、液の色がそのまま布に染まるとは思っていません。少しでもあの可愛いピンクに近くなることを目指してサンプル作成をしている最中です。二人ともドップリ文系。化学的知識ほとんど、小学生状態。きっとDIGの二人がやれば、もっと最短距離で桜色が出せるとは思いますが、そこは文系のやり方で試行錯誤を楽しむことにしています。
 画像はミョウバンで媒染した、最初の作品。煮出す課程から、ご紹介しましょう。

 フクシマはお陰様で、だんだんタンパク尿も改善されてきています。もうしばらく、皆様にはごやっかいかけます。
この色が出せるか? どんどんワインレッドに近くなっていきます。薫りは桜餅。 煮ています。できあがりは後日公開。

2011年11月12日
 「草木染め」
 先日のどんぐり企画では、せっせとどんぐりを集めた甲斐あって、アートなどんぐり染めが成功しました。島田さんによる媒染液におうところが大きいと思います。ノウハウはほとんど日江井さんです。
 ヤマシタの友人も手伝ってくれて、クラフト用のどんぐりや秋の葉っぱを当日持参してくれました。その色で子どもたちの創作意欲が大いにかき立てられました。
 
 最初に絞ったり、割り箸で挟んだりして、布に模様をつける作業をしました。その後、染色過程に入ります。鍋にどんぐりを投入し、煮だし作業をスタートさせてからは、各自のどんぐりアートに専念。思い思いのクラフトを親子で愉しんだ1日でした。画像を紹介。
クヌギの帽子をたくさん入れましょう。色がでるそうです。 模様を想像しながら、しぼって挟んでシワをつくります。 煮だし汁も濃くできました。これから、布を煮ていきます。 幼児のどんぐりアート。これはオバケだそうです。 小枝とどんぐりでつくったロボット? こんな風に染め上がりました。大成功。
 
 友人と2人で「草木染めにはまりそうだね」と話しています。準備段階で調べたところ、秋に落ちるサクラの葉っぱでも染まることを知りました。赤く紅葉したサクラの葉っぱです。他の葉っぱを混じらせないで、単品で染めるとピンクっぽい透明感のある色がでるそうです。明日2人で近所の公園を回ってサクラの落葉状態をリサーチに行く予定です。この熱が高まるにつれ、編みぐるみへの熱が下がり、昨日、妹たちへの注文を発送したのを最後に終焉を迎えました。
神戸の妹のリクエスト「キノコの軸をもっと小さくして、その方が可愛いから」。希望どおりに作りました。 針で綴じているところ。赤に白のコンビが一番人気があります。てっぺんにヒモを通してストラップに。 ただいま勉強中。低塩、低たんぱくの食事が日常になる予定。きっちり測って調理するのは初かも。

2011年10月31日
 「1人暮らし考」
 フクシマが入院して2週間が過ぎました。
 緊急入院だったので、いきなり1人暮らしになったヤマシタです。毎日、夕方病室のフクシマと話してバス電車で自宅に帰ります。だいたい、8時〜9時になります。それから料理を一からするのはシンドイので、何か冷蔵庫などにスタンバッているよう、予め2〜3食用の料理を作っておくようにしています。みそ汁だと1杯目は普通に飲んで、あとは1杯づつタッパに入れ、冷蔵庫へ。キュウリと若芽の酢の物などは2回分作って、残りは冷蔵庫。全ての食事を2〜3回分と考えて作ります。
 これって初めてのことです。今まではだいたい食べきるか、残っていても、家族が冷蔵庫のものをかたづける可能性が高いので、夕食作りはいつもリセット状態です。ところが冷蔵庫の中身、増減すべて自分の管理下なので、すごく計画的なのです。リンゴも半分。カボスも4分の1。
 そういえば、無くなった母も晩年は1人暮らしでした。彼女はまめに料理を作る人だったようです。自分用の料理のサイクルを持っていて、1人天ぷら、1人八宝菜、1人酢豚など日常でした。

 部屋の汚れ状態も全部自分の管理下なので、楽です。基本それほど汚れません。新聞の折り目もキレイにストック場所に片づきます。放置して、片づけるタイミングが、マイペースなので、すごく快適です。

 最近気づいたことがあります。
 家事というのはエンドレスな営みだということです。食事を例にとると・・・。使って汚して洗って片づける。また、使って汚して洗って片づける。この営みの中に日常があります。この日常を当たり前と感じて生きていますが、急な1人暮らしに「また、使って汚して洗って片づけてるな・・・。」と気づく自分がいます。大学時代以来の1人暮らしにいろいろなアングルが見えてきます。

 フクシマとの源泉巡りができないので、物足りなく感じていたら、友人が明日、お風呂の王様に連れて行ってくれるというので、有り難くお願いすることにしました。近隣ながら未湯のスパ銭です。

 下の画像は最近の日常です。柿を1人で高枝切りでカットして、落ちてきたものをキャッチ・・・・とスゴイ離れ業をして収穫しました。2種類の柿のうち、ちょっと渋に逆戻り気味のものを、焼酎で渋ぬきしています。
食べ頃となりました。1人柿とりを敢行したあとは野鳥に提供。 ただいま渋抜き中。 唐辛子も干しています。でも、昨日放置して雨にやられました。

2011年10月21日
 「フクシマ ダウン」
 先日のコラムで鎖場を上る姿を披露したフクシマがダウンしました。
 尿タンパク数値が激しく、入院となり、ただいま治療中です。ヤマシタは洗濯物や本などを届けに病院へ行き、毎日、画像を残しています。彼は「次の日曜は水晶イベントで疲れているから、病院には来なくていいよ」と言いますが、画像記録が途切れることが残念なので、どうしようか考えています。
 事務所の帰りに電車とバスを乗り継いで病室に通う生活を1週間送ってみて、人間の順応性に驚きます。病院への道が近く感じるのです。一日一万歩は確実に歩きます。フクシマも慣れてきて、1階のローソンには人気のない早朝に新聞を買いにいっているようです。治療中の関係で感染症を警戒し、人混みはさけているのです。高校以来の入院生活に「食事がね・・・」という感想です。通常、おはぎを3〜4個ペろっと食べる彼は「ビスコが甘くておいしかった、味のないエビせんがでたよ」と話してくれます。

 塾スタッフには大変、協力してもらって、感謝しています。みんなで協力してフクシマの欠けた塾を運営しています。

 このところ、のりとくんが頼もしく見えてきました。

2011年10月13日
 「最近の憂鬱」

 文部科学省がセシウムの沈着量を空から調べて、都道府県毎に順次、発表しています。以前コラムに飯舘(いいたて)村のことを書きました。今度は積もり積もって放射性物質がどこに溜まっているかという数字です。千葉が多いです。特に娘の居住地が・・・。これが憂鬱の原因。何故千葉なの?と思ってしまいます。高い山もなく、あれだけ遠方なのに・・・・と。娘の住む団地の近くには公園がたくさんあります。池や桜が自慢の地域です。その環境の良さが災いしているのでしょうか?
 千葉と同時に群馬の線量も気になります。前回コラムの沼田、川場村などは谷川連峰にあたって、戻ってきた放射性物質を含む風が溜まったのでしょうか?素人考えです。今日は新潟の発表がありました。谷川連峰を超えて、うっすら湯沢方面にも蓄積していることが分かります。やっぱり・・・・という感じはあります。

 先日、砂金採りの指導をして下さったげんごろうさんが線量計を持参して多摩川の線量を測って、活動していた姿を見て、私も同じものをアマゾンで購入しました。この線量計を持って、9日からの「きのこツアー」に行きました。群馬県の汚染地図を気にしつつ、フィールドに出るのがイヤだったのです。ロシア製の22,000円。げんごろうさんと同じ機種です。彼曰く、「精度は期待できません。ただ相対的な数値はでます。」

 そして測りました。苗場の山荘は、線量は室内0.10マイクロシーベルト、室外は0.16マイクロシーベルト。外の落ち葉や雨だれのあたりは0.2を超えることもありました。これなら、塾とそう変わりません。この数値が絶対的に正しいかはわかりませんが、苗場と塾がそんなに変わらないという参考にはなります。

 原発事故前には戻れません。悔しく、残念に思うのは、このコラムの名前の「山森」が汚染されていることです。「山森」の除染はできるのでしょうか?「きのこ」も汚染されていることと思います。憂鬱のタネが増えそうです。

 線量計をみながら、こんな数値とは桁違いの場所で暮らしている人たちのことを考えます。いわき市のNPOが作った災害マニュアルに「3マイクロシーベルトを超えたら避難しよう」とありました。ちょっと滞在する場所ではなく、ずっと暮らしていく場所の数値は根本的に持つ意味が違います。それと成長期の子どもと大人の意味も違います。独り立ちした娘のことで、こんなに心配するのに、幼い幼児や成長期の子どもを持つ親たちの憂鬱は計り知れないものがあると思います。「口に入るもの」を確実に検証したい・・・・、多くの親たちが、ジリジリ思っているはず。息子の幼児期、遙か外国のチェルノブイリ事故の時の憂鬱が甦ります。放射能が地球を回っているイメージに苛まれました。親とはそういう生き物なのです。今後の原発の舵取りも、子を持つ親たちの力が日本を動かすものと思っています。この親たちの憂鬱がエネルギーに変わることを祈っています。

2011年10月5日
 「紫水晶」

 フクシマが来年度の企画のために沼田のフィールドを下見ようと、夏から言っていました。猛暑中ではつらいので、後々回しになっていましたが、昨日、そのフィールドへ行ってきました。

 目的地は沼田の戸神山。いつも山荘に行くとき、月夜野インター前に「ドクターモリ」の看板があります。関越道を挟んでその看板の反対側にある山です。(今は看板はありませんが、卒業生にはこれで充分通じると思います)
 その山は三角おにぎりのような形で地元の人には「三角山」とか「おにぎり山」とか言われているようです。昨日も沼田から独りで登ってきた男性と川場村から(反対側から)登ってきたリンゴ農家の若夫婦と知り合いました。地元の人から「ちょっと運動」と出かける存在のようで、頂上には無料の望遠鏡が置かれていて、カバーをとったり、付けたりは利用者に任されて、上手に皆さん管理しています。地元の彼らは「富士山が見えるのですよ、もうガスってしまいましたが・・・」と残念がります。どこに行っても富士山は人気です。

 さて、登山道は2つに分かれていて、「林道コース」と直で登る「鉱山跡コース」。もちろん「鉱山跡コース」を選んで登り始めます。途中、石垣の積んであるガレ場に出くわします。フクシマはリュックにお弁当やハンマー、タガネを2人分入れているので、動きが重いです。所々で白っぽい石をコンコン割りますが、極少の水晶の結晶が見られる程度です。鉱山跡を過ぎて頂上を目指すと、ここからが直登りです。道ではなく、岩の連続なのです。両手を空けて、足と手で登ります。鎖場もあり、ロッククライミングっぽいことをしている自分に驚きます。時々デジカメを出してシャッターを切り、下を見ると足がすくみます。「登れても降りられないな、帰りは林道コースしかない」と考えていました。

 頂上は360度のパノラマ。快晴で100平方b位の頂上部分は、石灯籠がたくさんと、山の案内、望遠鏡があり、アゲハ蝶が乱舞していました。そこでりんご農家の若夫婦と出会い、いろいろお話をして、帰りにりんごをいただきました。
 下り途中のお地蔵さん付近でフクシマが声をあげます。「あった〜」。紫色の脈の入った白い石を振って喜んでいます。偶然ながら、希望のものを手に入れて、足取りも軽く「林道コース」を下山することができました。

 帰りはお医者さんの経営する温泉「クワイテルメ」に浸かりました。おかげで今朝は足がつることなく起床しているフクシマです。今回のフィールドはガレ場でコンコンやることや、岩場を登ることを想像して、小学生のフィールドにはちょっと無理かなと早々に2人で結論していましたが、本当に身体を使った一日でした。
 
実際に見ると、もっと三角で、登ってみたくなる山です。 こういう石がゴロゴロ。割るのは技術が必要。ヤマシタの得意科目です。 高度がどんどん上がり、関越がよく見えます。子持山と赤城山がよく見えます。 鎖場を登るフクシマ。こんな岩場でも彼はコンコン。 「赤城」というりんごをいただきました。下山して駐車場で食べました。最高でした。 紫のスジがわかりますか?

2011年10月3日
 「金の動き・・・・その風格」
 昨日は多摩川で「砂金採り」を楽しみました。今年で3回、げんごろうさんにお世話になりました。3回目にして、やっと「金の識別」ができるようになったヤマシタです。得意になって、ちょっと紹介しましょう。

 まず、パンニング皿に「金を含む可能性のある土」を乗せます。それを水辺に持っていって、揺すって、揺すって、上部に出てきたジャリを斜めにして捨てていきます。これを10回以上繰り返します。
 たまには手で大きな石ころを取り除いたりして、最後にはうっすら、砂鉄の層が残ります。

 ここからが、熟練を要する段階です。水を少し入れて、砂鉄の層を少しずつ、薄皮を剥ぐように、回して移動させていきます。一番最後の層に金が座っています。露わになった金は動きません。金は一番重いので一番下層で動かないのです。水の移動にあわせて、移動するのは光っていても金ではありません。・・・・このことを3年かけて、やっと体感したヤマシタでした。

 子どもはすごいです。1年目でマスターする姿があります。こういう言葉にして表現することはありませんが、げんごろうさんのやり方をみて、これらのことを子どもたちは瞬間に体得するのです。

 家に帰って、蒸し鍋を食べながら、フクセンと「やっぱ、フィールドは楽しいね・・・。」と話しました。しかし、彼はその後、足がつって、早々に就寝しました。
草の根本に金はあるのです。こうやって、金を含む可能性のある土を取り出します。 これがパンニング。多摩川は沢登りもしないし、崖もなく、安全。 おまけ*今年は失敗しませんでしたよ。ジェノベーゼソース。冷凍庫に眠ってます。

2011年9月23日
 「情」の育つ瞬間

 台風のあとの浜へ行ってきました。なかなか、こんなタイミングで行けません。今世紀最大のチャンスか・・・・・、と勢い込んで出かけました。読み通り、収穫は上々。ウキダカラ、サメダカラ、アヤメダカラ、サバダカラ、キイロダカラ、アジロダカラ、カミスジ・・・・・たくさんのタカラガイが浜に上がっていました。タカラガイ以外の珍しい貝殻もたくさん、ありました。
 メンバーはのりとくん、そのジュニア、私の友人、そしてフクセンと私です。

 ジュニアはカニを磯で捕獲して、バケツに入れて眺めています。他の大人は貝殻探しに夢中です。ジュニアはそのカニが少し弱っていく段階を感じていきます。つついたり、「エサは何かな?」といって、貝殻のかけらを投げ入れたりしています。カニからは最初の元気は当然ながら徐々に失われていきます。
 彼は言います。「何でかな?」「もう元気がないな?」
 私は「このカニは持って帰るの?」「帰るとき、バイバイするの?」と尋ねました。
 ジュニアは「バイバイする。」と答えました。
 私はそれなら、と思い、「じゃ、はやく逃がしてあげる?」と彼の気持ちを尋ねました。自分独力でカニを捕ったと自慢していた経緯もあります。彼は決められると思いました。
 ジュニアは、「もう、バイバイしよう。」と、傍のダイドプールにカニを逃がしました。決断は早かったです。弱っていく様を見るより、逃がして元気になって欲しかったのでしょうか?
 私は勝手にそう解釈して、カニの声色で「アリガトウ、ニガシテクレテ。コレデゲンキニナレルヨ・・・。」

 ジュニアはちょっとはにかんで、ダイドプールの中を覗いていました。ジュニアは口数少ないシャイボーイです。

 後で、パパ(のりとくん)がやって来て、カニを逃がしたことを「ええっ?」と意外に思っていたので、親子でそういうルールがあったわけじゃなく、ジュニアの裁量でやったことだと分かりました。「情」の育つ瞬間でした。

 ビーチコーミングに満足した一行は、いつものイベント同様、早め早めに行動した結果、アクアライン、首都高の渋滞も軽く、早い夕方に帰宅することができました。

 夕食時にその話をフクセンにすると、「持って帰らないと決断できるのは、この幸せな空間が再び訪れることを実感している子だから。生き物を持ち帰りたい衝動は誰にもあるけど、特に固執する時は、再びこの幸せが訪れない予感あるから・・・・。何か残したい衝動があるから。」と、言います。このエピソードを別の角度から考えていたわけです。そうか、ジュニアにとって、今日という日は楽しいが、またいつか、カニを捕まえることができる・・・という実感が5才ながら、あったわけです。だから、「情」をかける余裕があったのです。

 のりとファミリーの子育て指向を頼もしく思いつつ、楽しい浜の1日を回想しているヤマシタです。
布良浜はコンブが占拠 のりと父子の凧揚げ 大きなカニをジュニア独りで捕りました 元気ないなぁ・・ 浜にはおしゃれな漂流物 アクアラインの景色はもう秋色

2011年9月19日
  「道具自慢」

 「今年のキノコはいいよ、」という糸魚川Mさんからの話。でもその後の残暑、台風などで微妙な雰囲気。
 本当は今日は明治公園(さよなら原発アクション)に行きたかったのですが、残暑の中1時間歩く自信がなくなってしまい、エアコンの部屋でまったりしています。みなさま、いかがお過ごしですか?

 最近、家にいる時間が多く、キッシュを焼いたり、巨峰ゼリーを作ったり、と夫婦二人の料理を楽しんでいます。

 さて、今日は私の道具自慢。編み物分野です。
なんだか、わかりますか?10代から使っている優れものです。 昔々、毛糸はこんな風にかせで売っていました。→
← こんな風に使います。この道具がないときは、ぐるぐるボールを作ることになります。二人一組で、毛糸のかせをボールにする光景が昔、よく見られました。
この道具を使うと出来上がりはこう、糸は中から使っていきます。→
 わたしにはずっと構想していた道具入れがあります。経緯はこうです。田舎の母が亡くなり、遺品を整理していたときに「母の編み物道具一式」が出てきました。昔からの道具なので、ほとんど竹製で、サイズの刻印もかすれています。それをきれいに整理して、私の道具に合流させました。その次に「フクシマの母の編み物道具一式」も私の管理下に入りました。棒針、かぎ針を問わず、2人の母はよく編み物をしていました。(フクシマの母はその上洋裁もすごい腕前でした。)2人とも几帳面に毛糸のみならず、道具をきちんと整理して置いていました。
 そこで、私のを入れて3人分の編み物道具をキレイに収納したいな・・・・とずっと考えていました。構想5年・・・。やっと今年完成することができました。
一つのサイズに3人分の棒針が存在します。 順番に並べるとこうなります。右側にはループ針、かぎ針が並びます。 帯の反物を改造して作成。収納はぐるぐる巻いて立てて置きます。 編みぐるみの材料はまだまだ、あります。こう見ると色って力を持っていますね。 左は棒針のサイズを調べるもの。右は段数を記録するもの。プチ便利アイテム。 *おまけ*バスケットごと娘の所にいく予定。

2011年9月11日
 「編みぐるみ」
 編んでます。まだ、卒業は先でしょう。収納場所の毛糸の束が無くなり次第終了かな?でも、とんでもない量があるので。
 古い毛糸はプチプチ切れるので、そういう場合はハサミでチョキチョキして、中の綿に使います。同系色だと都合がいいわけです。

 下の画像は西尾家のHちゃんリクエストの愛犬編みぐるみとホンモノ。Hちゃんにとても喜ばれました。右は最近のブーム、「デカきのこ」。珍しく娘のリクエストで、部屋に飾りたいそうです。
 のりとジュニアに作成したキングギドラは立たなくなり、悪役のやられ役に徹しているそうです。どんな形でも遊んでもらえて嬉しいです。

 書類仕事の傍らには編み道具が必須アイテムです。
←愛犬編みぐるみ ←デカきのこ

2011年9月4日
 「娘の休日」
 温泉ツアーから帰った私たちを待っていたのは夏休みに入って帰ってきた娘でした。息子は1週間前にプチ夏休みで帰宅し、「南蛮漬け」をリスエストし、我が家の冷凍庫の食材を自分の保冷庫に積んで車で帰って行きました。
 娘が加わると俄然リビングが雑然とします。それでも、いろいろ話ができて楽しいです。
 働く環境について、息子と違い、何でも話してくれます。
  「あのね、もうパンは自宅に持ち帰り禁止になったよ。理由は震災の時は特別だったけど、パンを自宅に持ち帰ると家で自炊しなくなるから禁止だって・・・・。」
  「私は最初、食パン係→レジ、袋詰めと仕事が変わったの。次はラックと言って、焼き上がりの棚を管理する人になったよ。これはとても重要なことを任されるからドキドキしたよ。その日の様子で次焼くパンの指示を出す係なんだよ。人によって、強気で指示を出す人と、弱く言う人がいる。私はやや強気かな。閉店間際でパンがスカスカになってはいけない。でもべらぼうに余ってもいけない。4時〜5時のパンの売れ方を早い時間から占う仕事なのよ。こんな重要なことを私が担当していいのかとドキドキしたよ。」

 すごい教育法だと感心します。マニュアルを一切示さないで手探りさせる、失敗から学ばせる教育法。
 以前、娘はというJR系のパン屋のオープニングスタッフとしてバイトを始めたことがありました。その時のマニュアルが最近、娘の部屋から出てきたので、興味を持って読みました。接客、製造の両分野で、隅々までマニュアル化され、失敗の余地がありません。これってマニュアルを修得したらやめたくなるな・・・・と感じました。事実娘は製造で慣れた頃「もういいかな・・・」と辞めてしまいました。私のやりたかったことじゃないからと言って。

 娘は「次はおみせというポジションに行くよ。これはお店全体をみる人なんだよ。」

 着々と現場で教育され、少しずつ成長している娘を感じて、安心しました。

 娘は初めての長い夏休み前半を家で過ごすらしく、幼なじみの西尾家のHちゃんを呼びました。昨夜は塾の仕事のあと、娘、Hちゃん、私と3人で楽しい夕食となりました。Hちゃんは焼き肉が好きなので、前もって予定していたサンマ、エビマヨの献立に加えて焼き肉も登場しました。
 3人の話は仕事の話、家族の話と広がり、私が「最近のお父さんのブログ読んでる?」と尋ねると、彼女は「う〜ん、読んでるけど、悲しくなる。いろいろ思い出してね。」
 娘は「私も読んでる。でも、読んでいろんなことを知ったよ。今まで全然知らなかった。ぼんやりMちゃんがいなくなっちゃったことは分かっていたけど、お葬式にも学校休んでいったけど、病気のことなんて詳しく知らなかった。読んでびっくりした。」と言う。そうそう、静かに家族だけの葬儀だったけど、ずっと兄弟姉妹みたいに育った我が家の子どもたちも平林寺によんでもらったのでした。

 私は葬儀当日、Hちゃんとお兄ちゃんのHくんが異常にふざけていて、1才年上の我が息子が呆れて「こら、おまえら静かにしろ」と言っていたことを話すと、Hちゃん曰く「悲しいのは悲しいけど、素直に悲しい顔が出来なかったかもしれない。学校でもいろいろ説明されて、どういう顔をしていいか、戸惑っていた・・・」 幼い頃の強烈な記憶が消えることなく、記憶の階段の下方に存在していることを2人の話で知りました。私は葬儀当日、ふざける2人に「今日はMちゃんのことをこれからも忘れないようにするため、静かにお別れをする日だからね」とにらみつけて話したことを覚えています。その時はこんな複雑な思いを小学3年生が持っていて、逆に良い子にできなかったなんて思いもよりませんでした。

 いろんな花に飾られてお姫様の洋服と一緒にMちゃんは棺で眠っていました。蓋が閉められ、その上にずっとのっていたのが、ピンクの八重のチューリップでした。どうしても、この花がMちゃんを送るのに一番ぴったりだと思って、私がそうしました。他の花はちぎって飾りましたが、これだけは花束のまま、残しておきたかったのです。その後、毎年ピンクの八重のチューリップを育てて、Mちゃんを偲んでいる話は以前、書いたように思います。「どなたがその花束を供えて下さったのか・・・・」とずっと思っていました。3〜4年ほど前に判明しました。のりとくんの奥さん、今は2人の男の子のママになっているH子さんだったのです。不思議な縁です。当時は中学生で丹誠塾の生徒でした。

 本格的に明日から通常生活です。本日は娘と大量の桃をハイエースで松戸まで送って行きました。  
料理用トマトを加工 痛む前に桃も加工 カットして皮をむく レモン汁とサイダーの中へ。桃パンチ? Hちゃんからの写メ。愛犬「はみたん」のアミグルミ頼まれる。 制作中。H曰く、「黒目がポイント」だとか。可愛くできるか?

2011年9月2日
 「はしご湯は楽し・・・夏休み編」

 お休みをいただき、岐阜→長野→新潟を巡ってきました。2人で3泊で予算は一桁万円で計画しました。交通費を含み、総経費この予算だと旅館を厳選する必要があります。私たちは子どもがついてきた時代は休暇村をよく利用しました。子どもが走り回っても迷惑のかからない建物だし、料理はバイキングの美味しいところを選んでいました。息子と娘はバイキングが大満足な時代でした。田舎の亡くなった母もよく連れて行きました。旅行好きの彼女はどこへでもついて来て、帰ってからも「おかあちゃんな、地理弱いねん。地図こうてもうて助かるわ。」と何度も地図を見ながら思い出していたようです。(フクシマは彼女に中学生の地図帳を一冊渡していた)
 さて、最近は専ら2人旅となり、もう休暇村は卒業しました。ツアーはヤマシタのプレゼンから始まります。「次の休みは○○の○○旅館に予約したいけど、いいかな・・・」というと、だいたいフクシマが「それ、いいね・・・・」と乗ってきます。彼の方から○○へ行ってみようという場合もありますが、今回は全くのヤマシタプランでした。
 
*8月29日 昼 「時香忘(じこうぼう)」
 木曽福島から高山方面に行ったところにある蕎麦屋さん。おやまぼくちという繊維をつなぎにして打っている。つゆはちょっと甘めで、生わさびをお客がおろすスタイル。店のテラスにヤマガラがやって来て、なんとものどかな空間。私はおろし蕎麦を注文。店はスタイリッシュだが、パンチにかける味かな?帰りのお会計の時に「東京から来た」というと、「遠路はるばる、お気をつけて」と木曽のミネラルウォーターをいただきました。
*8月29日 夜 「濁河温泉 朝日荘」
 あまりはやく着いても、と思い、町営露天風呂に入り、2人でがっかり。温泉の底がぬるぬるで激しく汚れた湯。落ち葉が舞う温泉に辟易して早々に退散。「濁河温泉って、はずれか・・・」と、今宵の宿「朝日荘」に怖々チェックイン。
 予想は嬉しく当たらず、お湯良し、料理良しの宿でした。特に鴨なべは絶品。卵をもらって雑炊でしめました。お湯は白や緑の濁り湯ではなく、黄赤茶の笹濁り。
「写真で切れてますが、味噌を焼いてます」
 宿での入浴は2人とも合計5回。ゴロゴロしては入湯。ぐだぐだしては入湯。早朝より湯に入り7:30の朝食が待ち遠しい。「ほおば味噌」が出るあたりは飛騨高山の圏内なのでしょう。2人とも甘めの味噌味はちょっとね・・・・という感想。今後のツアーの先行きを暗示する「ほおば味噌」でした。
*8月30日 朝
*8月30日
   立ち寄り湯
「秋神温泉」
 最初は野麦峠を越えてお助け小屋で昼食にしようという計画でした。でも、フクシマが飛騨高山に行ったことがないので行ってみたいというので、急遽変更。ナビによって導かれた山道の途中に「秋神温泉」はありました。これが秀逸。有馬温泉を彷彿させる鉄。除鉄しないでドバドバ掛け流し。足の裏はこの色になりました。隅々まで掃除の行き届いた接客のプロがたくさんいそうな旅館でした。
*8月30日 観光 「飛騨高山の骨董屋」 
 古い町並みを歩きました。途中、めだかの火鉢がたくさん店先にありました。めだかをきっかけに、そこのご主人と話し込みました。我々のメダカはホテイアオイの下で居なくなったというと、タニシを取り除けと言う。見れば、骨董屋。思わず、明治のべろ藍の大皿を購入。高山のいい記念になりました。(値切り交渉も楽し)
*8月30日 昼 「平気な顔をしてますが、困ってます」
 陣屋の前の店で昼食。さっきの骨董屋の主人ご推奨の店。地元の人が行く店だとか。写真は甘いつゆ味仕立てのラーメン。東京の人はきっと想像できません。めんつゆにラーメンがつかっていると思って下さい。私は冷たいトロロそば。つゆがぶっかけてあり、これも甘いつゆ。これが名古屋圏の味かと思い当たりました。
*8月30日 夜 「旅館名はふせます」
 やってしまいました。2日目の宿は白骨温泉を選びました。名前の通った温泉地であり、日帰り入浴なら2回経験しています。私たちの予算では泡ノ湯は無理。料金から宿をチョイスした結果の惨敗。それでも1万円は超えています。同じクラスの候補は3つありましたが、ネット情報で「こじんまりした旅館で、ゆっくり湯が楽しめる」というフレーズに引かれて、決めたのですが・・・。事故にあったくらい、褒める所のない場所でした。無理やり褒めれば、水と朝のかゆくらいかな。
お勧めできない理由
・温泉編
 ◎露天風呂の底はぬるぬるしていて、歩けないほど滑る。フロントで滑るのは温泉成分のせいと説明があったが、掃除がされてないからと感じる。内湯の掃除も1回/7日と表示あり。脱衣場に従業員用のゴシゴシタオルがかけて置いてある。接客業としては最低。
お勧めできない理由・料理編  ◎厨房から一度も料理する匂いが漂ってこない。出てきた料理はどうも業務用の袋から出して、小鉢に小分けしたものみたい。保存料の臭いで閉口。コイ料理が非常にくさい。イノシシ鍋のフタをとる時、やけど防止の工夫がないなど、食べる人の身になって準備する姿勢が皆無。イノシシの肉が硬くて歯にかからない。よって、人生初、宿で残食をすることになりました。おいしいのは水だけ。寝るとき、空腹でした。
お勧めできない理由・設備編  ◎本当に小姑みたいな繰り言になって、いやなんですが。書いとかないと同じ轍を踏む方がいると思って・・・。
 部屋にはトイレがついてないので、室外のトイレを利用します。それが同じ建物になく、L字の廊下を3回曲がって、隣の建物まで行かなくてはなりません。夜中はつらかったです。
*8月31日 朝 「朝がゆだけは、厨房で料理したのかな?」
 この画像を撮った後、かゆが登場。これはおいしかったです。でも他のものはほとんど業務用惣菜のよう。山間の温泉集落で生産から遠い場所。有名な温泉地なので有名旅館の満員時のおこぼれで成り立っていくのか。積んだ煮豆を見ながら、旅館業に熱心でない経営者の理由を考えていました。
*8月31日 観光 「大王わさび農場」 
 宿を一番に出発して、大町の酒蔵に向かいました。途中、「大王わさび園」という看板に導かれて行ってみました。すごい人出があり、ブルーのライフジャケットを着て、大きなボートに乗って園内を回る企画に列が出来ていました。私たちはワサビの加工品を次々試していきましたが、何も買わずに、そこを後にしました。ワサビの加工品を見ているうちに小淵沢の七賢のわさびの醤油漬けが食べたくなったのです。残念ながらここにはそれはありませんでした。
「大町の薄井商店」
 KURAという雑誌で紹介してあった酒蔵を訪ねました。本当に工場のような所で駐車スペースも3台しかありません。先客の誘導で上手に停めるが出来ました。その方はお客さんではなく、杜氏さんでした。親切な方で酒蔵の人にあげようと持ってきたリンゴ2つ、「これむつだよ。一番はやく採れるやつ」と言ってくださいました。そして「お酒を買いたいなら、ここ」と事務所まで連れて行ってくれました。酒蔵の女性たちも自信をもって商売している感じに溢れ、親切で朗らかな人柄の方ばかりでした。ここで娘の酒蔵就活などの話をして、しばしの大町滞在を楽しみました。
おひさまで人気の出た安曇野のそば畑 薄井商店・氷筍酒(ひょうじゅんしゅ)
*8月31日 昼と観光 「戸隠の蕎麦と竹細工」
 パーソナルの生徒と読んでる本に戸隠が出てきます。一度行ってみたいと思っていました。今回いい機会だから、大町から向かうことにしました。途中、鬼無里(きなさ)という村を通り、くねくね道を行きました。戸隠は社が5つ。実際来てみると、霊場の清廉さとスケールの大きさに圧倒されます。
 一番上の写真は唯一の温泉施設。神告げ温泉なんてゾクゾクしますね。お湯は循環塩素投入タイプ。汗を流しただけで長居は無用と蕎麦処に向かいます。フクシマは普通のつゆに安心。「長野だものね。もう名古屋圏じゃない」と言っています。蕎麦は田舎風でねまがりたけで編んだ丸いざるにのせられています。
 ここで偶然の出来事。3年前くらいに栄村の近くで、りんごもぎかごを購入しました。車移動の際、いろんなものを放り込むのに非常に便利なのです。昨年、それを見た友人たちが「私も欲しい」と、栄村を通った際に買いました。その時、他の知人も欲しかったのですが、友人たちがたくさん買ったので品切れになってしまいました。その後、その場所で何度も尋ねますが、入荷せず、あげくに「作者が病気になってしまいました」という返事が返ってきました。がっかりする彼女に「また、どこかで見かけたら必ず買うから・・・」と声をかけたヤマシタでした。もうおわかりでしょう。そのかごを戸隠中社前で発見したのです。
 ことの顛末はこうです。中社の前にたくさんのお土産もの屋さんがあり、竹細工がたくさん並んでいました。私はフクシマと話しながら、りんごもぎかごを探していました。「違うね、ないね」なんて言葉を聞き及んだ店の女主人がフクシマに「下の竹細工専門の店なら、お探しものがあるかも。車をここに置いて、行ってみたら・・・」と声をかけてくれました。すごい度量です。
 感謝して歩いて向かった先は竹細工のみ販売の店でした。店の端には工房があり、職業体験の中学生とおじいさんが制作の最中でした。そして、この画像です。りんごもぎかごが並んでいました。知人の女性にメールで確かめて購入しました。
*8月31日 夜 「燕温泉 花文」
 フクシマに「もうこれ以上旅館を探す必要なし。いつもここに来よう」と言わせた旅館です。料理良し、温泉良し、接客良し。それも最上級です。花文は糸魚川からの帰りに偶然見つけた妙高の温泉です。一度、日帰り入浴してお湯の良さにたまげました。その後部屋付き日帰り入浴(5時間滞在)を経験し、今回の宿泊に至りました。お湯は白濁硫黄泉。白と黒の湯花が舞うところは野沢温泉の真湯を思い出します。真湯より黒い湯花率が低いです。お湯は熱め。浴後は汗が引かず、どっと疲れます。
 料理は全て満足して完食。フクシマと2人で「きっといい板さん、いるね」と話しました。これが私たちの最高の評価の言葉です。画像はトマトのデザート。ほんのり甘く、スッキリ食事を終わらせてくれました。本当にお勧めします。参考のために料金は前宿と同じです。
*9月1日 朝 「台風近づく中」 
 朝食はもう満足に決まってます。画像の紹介は割愛して、部屋からとった山並みを紹介。妙高から東方面を望みます。台風が近づいているものの、ここは晴れて明るいです。そういえば、4日間、ずっと晴れていました。
 チェックアウトの際には女将さんから、料理のレシピを教わり(鮎のおこわ包み、ズッキーニの肉巻き、トマトデザートなど)、再訪を約束しました。その後、信州中野の「オランチェ」で農産物を大量に買って帰路につきました。
 こんな長いコラムになるとは思いませんでした。本日もお休みをいただいているので、長々やってしまいました。ちょっと疲れてきましたが、最後まで同じフォームで行きます。
*9月1日 昼 「七賢のレストラン臺 眠(だいみん)
 そして、寄って帰りました。長野からは中央高速で帰ったので、途中小淵沢で下りて、だいみんで食事し、私たちの好きな「わさびの醤油づけ」を買いました。ついでに「白黒」というお酒も。販売所で「大王わさび園に行った」というと、私たちもそこから、わさびを仕入れていますという返事。おなじわさびを使っても、違うものができるのですね。
 長々、読んで下さってサンキュー。やっと終われます。

2011年8月27日
 「丹誠塾の今」

 臨床心理士の西尾氏がYOMIーDRでブログを書いていることは以前、ここでお知らせしました。本日はラスト2「続・丹誠塾」をアップしていました。そして来週はブログの最終回となるそうです。忙しい中、集中して文章化したことに、心より敬意を表したいと思います。少しでもお手伝いをと思い、1978年から2000年ごろまでの主な写真をスキャナーでとって送りました。「丹誠塾」の回にはたくさんの懐かしい画像が紹介されています。今見ても、どの子の名前も出てくるヤマシタです。

 彼が懐かしく思い出しているのは2000年ごろまでの丹誠塾。今の塾を表現することは、もっと先かな・・・・・、誰が書くのかな・・・と思いました。そして、そういえば出版を考えた時代があったなと思い出しました。

 塾がちょうど20周年を迎えた頃、本を出そうという話が塾内で起こっていました。お金はありません。だから自費出版ではなく、どうにか出版社の人に興味を持ってもらおうという考えでした。
 それからは、みんなで記録を整理し、文章を書き、西尾氏が3つくらい出版社を回ったように覚えています。私たちの本へのイメージは「これから教育に携わろうと思っている若い人に、これ是非読んでみてよ・・と勧められる本」でした。なぜ、塾を始めたか、どうやって授業を作っていったか、なぜ行事ばかりしていたか・・・・、「子ども論」「教育論」の詰まったものでした。西尾氏の今回のブログはそのダイジェスト版のようです。私たちにとって「思い出」として、本を出すのではなく、20年やって来たことをまとめると、その中に私たちの目指す教育があり、そうすることで、その姿がずっとハッキリしてくるように思えたのです。たくさん文章を書き、みんなで討議したあげくの、出版社訪問でした。しかし、反応は冷たかったです。著名な小児科医の紹介で話を聞いてもらえた出版社からはハッキリ「興味がない」と言い渡されました。他の出版社も結論的には同じで、理由はたぶん、売れないからだと推察しました。当時、1年ほど塾を開いて本をだしていた人もいました。私たちはそれを見て「起用な人だな、たった一年で本が著せるなんて・・・」と驚いていました。その塾は出版後、間もなく閉じていました。
 
 今から考えるとたった1年で本が出せたのは「一つの切り口」だけで塾を書いたからです。その切り口が「人目を引く」ものであれば、出版社は飛びついてくれたのでしょう。丹誠塾は複数の教師が相互検証しながら長くやってきたので、「切り口がたくさんある」集合体だったのです。そのため、「人目を引く」というより、地味に真面目に「教育」を論じていたのだと思います。きっと、まとまりも悪い構成だったのでしょう。書いている者は実際の授業や子どもとの出来事に必死で、「斬新なフレーズで教育現場を切り取り」→「人目を引く」→「本が売れる」という視点など皆無でした。選んだ出版社は私たちから見れば、採算関係なく「いい本を作ること」に忠実な社に見えたのですが、あに図らんや、我々の甘い考えを「木っ端みじん」にしてくれました。あの当時、西尾氏が心理の道に進んで、一つのステータスを持って訪問していたら、話はもっと具体化されていたかもしれません。
 当時はあまりにも残念で悔しくて、その後出版の話が丹誠塾に登場することはありませんでした。それで良かったと思います。「思い出」中心の自費出版も嫌だし、「人目を引く」ことを中心において、無理やり「切り口」を作り出した結果の出版であっても、後悔が残ったと思います。私たちが伝えたいことは、同時進行で目の前の子どもたちに伝わっているはずだし、何も大向こうを意識して生きてるわけじゃないからと、最後に結論して、たくさんの原稿を処分したように記憶しています。

 さて、西尾氏が書いた1790年後半から2000年初頭の丹誠塾、その後の丹誠塾を繋いで書いてくれる人は誰でしょう。2011年の丹誠塾。震災後「グリーンフラッグ」を掲げて、塾を開放する丹誠塾・・・・。書いてくれるのは卒業生でしょうか。その家族でしょうか。
 ええっ?ヤマシタが書けばいいって? たぶん私は書かないと思います。私にとって表現活動はこのコラムで充分、足りていますから。カウンターの数字を見て、こんなに読んで下さっていることに毎回、驚きと感謝とちょっと責任めいた緊張を感じているこの頃です。

2011年8月24日
 「何も伝わらない雄弁」

 今日から受験生合宿(サマースクール最終)がスタートです。早朝フクシマは出かけて行きましたが、保冷庫を忘れたので、生徒を乗せて我が家に寄って行きました。練馬インターへの途中にあるので、そういう芸当が可能なのでした。

 昨夜の話。
 早く休んだフクシマの隣の部屋でテレビを見ていた私は急に飛び込んで来た芸人の引退発表に釘付けになっていました。画面の端に「○○引退・・・」とあるので、「何でだろう・・・」と思って見ていました。どうも暴力団の人とのつきあいがあったので、引退するという内容です。彼は息もつかずに話します。「自分はルールを守らなかった。でも自分はこれくらいはセーフと思っていた。でも事務所はそれはアウトという。だから、自分は一番重い罰を自ら科すことにして、引退します。」だから・・・の後がしっくり繋がらない・・・。長く説明を聞いていて、あまりの理解不能に私が疲れてしまい、思わず、独り言が飛び出しました。
 
 『雄弁って時には何も語っていないことがあるな・・・』
 『わたしもそうかも。今後は口数少なく、もっとわかりやすくものを言おう・・・。』

 寝たはずのフクシマの声。「それ、紙に書いておいて。

2011年8月18日
 「増水の川」
 痛ましい事故がありました。何度もニュースの映像で増水の川を見ます。もしかしたら日常の天竜川の水量なのかも知れませんが、私にとっては結構な水量に感じられます。
 
 先日、サマースクールの終了後、下仁田へ次回の化石発掘体験の実踏へ行きました。疲れの残る中、フクシマと2人老体にムチうち早朝から出かけました。下仁田はジオパークの申請中で大変魅力的な地学的フィールドです。実踏には「むさしの化石塾」の福嶋徹さんとTさんも同行してくれました。二人の研究者が居ることで大変充実した現地調査ができました。私はこの際とばかりに地震のこと、活断層のことなどを質問しました。回答は明解でその歯切れの良さに身震いしました。
 
 いろいろ紆余曲折があり、道に迷ったりしましたが、活動場所の手掛かりを得る場所を探すことができました。そこで子どもたちに最適なフィールドを現地の方に紹介して頂きました。当日は現地の教育委員会の方が同行することが条件で、活動協力までいただきました。そして、いざフィールドまで地図を片手に向かいました。実際の現地を見ないことには決定できませんので・・・。

 しかし、フクシマと私の結論は「活動場所としては不適格」でした。発掘フィールドが狭く、かつ傾斜があり、川の流れが速く、危険なのです。鏑川の上流で先日来の豪雨の影響のため、非常な水量なのです。露頭のある場所は狭く、採掘は10人が限度で、その範囲で20数名がひしめき合う姿を想像すると、恐ろしかったのです。何かあると簡単に子どもは落ちるな・・・と思ってしまったのです。 研究者の目は違います。露頭を見て、脈を診て、少しコンコン探ってみて、何が出るか興味深々・・・。でも、私たち引率者の目は「この狭さで子どもが20人ハンマーを持ったら・・・・」という視点です。無言の押しくらまんじゅうが続きました。 
 いち早く私たちの危惧を感じた福嶋徹さんが「ちょっと狭くて水量が危険ですよね」と言って下さったので、本当に助かりました。たぶん、ヤマシタの顔色で「フィールド不適格」を読みとって下さったのだと思います。その言葉で「ここしかないとは限らないのでもう少し、安全な場所を探しましょう」と一行は炎天下、下流、上流を実踏することになりました。結果、このフィールドには渇水期以外には小学生が化石発掘する場所はないとハッキリしました。(下仁田の関係者の方にはフクシマが後日キャンセルの報告を入れました)

 なぜ、フクシマやヤマシタが即「フィールド不適格」と感じたかは、種明かしがあります。
 2人は泳ぎがダメなのです。おまけにのりとくんもダメです。水量の増した川を見、当日子どもが流された映像が浮かびます・・・・、無〜理、ムリムリ・・・、助けられません。だから、そのフィールドは選べません。8月7日は増水してても、9月25日は普通に戻っているかも知れません。でも、逆に台風後でもっと増水してるかも知れません。だから、やめるのです。流れる川の恐ろしさを知ってますか?足を取られて、粉々になるくらい身体をもっていかれたことがありますか?(大学時代のキャンプで水量を甘く見て、お尻をゴンゴン削られ、怖い目をみたことがあり、それ以降、増水した川が怖いヤマシタです)

 泳ぎが苦手のフクシマ、ヤマシタそしてのりとくんが岡番(ヨット指導ではなく、陸で子どもたちの世話をする当番のこと)をする場合、こんな風に頼んでいました。「ここ(マリーナ)は安全ですが、隣の自然の浜では離岸流と言って怖い波があります。みんなが溺れたら、私たちは泳ぎが得意ではないので、助けることはできません。助けようと思ってもたぶん、2人とも溺れます。だから、安全と思われるマリーナでも、ずっとライフジャケットをつけて遊んで下さい。」と。参加者は大人しく従ってくれました。ヨット乗船中のみならず、海岸で遊ぶ時でも、ライフジャケット姿でいてくれました。これが私たちの命の装備だったのです。子ども用のライフジャケットなど高価で小名浜ではレンタルもないので、貧乏所帯で買いそろえました。夏が終わるとお正月の漆器を手入れするように、ライフジャケットを真水で洗い、干して保存するのが常でした。いつまでも新品同様で我が家の2階に冬の間眠っているライフジャケットでした。

 「泳ぎが苦手」という引率者でなければ、安全なマリーナでは、ライフジャケットを脱いで自由に遊ばせてあげられたと思います。でも、私たち3人が岡番をしていた時代はそういう流儀でヨット企画は回っていました。(他にスタッフがいなかったので。)
 実際に乗船してヨット指導していた西尾氏は覚えてないかも知れません。(約17〜10年前のことです)。ちょうど、その当時みていた子どもたちの中に小学低学年の我が子が混じっていたことも関係あるかもしれません。自動車のシートベルト、ヨットのライフジャケット・・・、念には念を入れて、安全を求めます。我が子がいたから、よけい現実味を帯びて危険がやってくるのです。それが習い性になり、今回の下仁田のフィールド断念に繋がったのかと思います。

 天竜川の水量を見て、岡番時代の光景を思い出しました。

 話は変わります。地下水脈は同じかなと思いますが、放射線量とにらめっこの生活の方へ。ご心配、お察しします。子どもには、念に念をいれて・・・、ですよね。

 「じょせん」と入力しても「除染」とすぐ変換されません。でも、もうパソコンは覚えました。「じょせん」と入れると除染とでます。

 除染などという言葉を知らない世界に戻れたらな、と思いますが、それは無理。もう、戻れないなら、徹底的に「除染」をしてもらうしかないです。大企業に、そして国に。「汚染を除くことを一番の課題に・・・」「念には念を入れて・・・」

 ついでに言うことではありませんが、先日のキングギドラ、注文主に届きました。尻尾がちょっと違うという指摘があるものの、「金ちゃん」という名前までいただいて、遊びの仲間に入れてもらっているようです。作者冥利に尽きます。
研究者たちと断念したフィールド

2011年8月11日
 「超大作・・・キングギドラ」
 あみぐるみ卒業しそうです。本日超大作を仕上げたからです。先日のサマースクールから作っている「キングギドラ」です。のりとジュニアの注文です。いざ、作り始めたら、大変難しくて、工夫に工夫を重ねて、似て非なるものが出来上がりました。それでも、私は満足で写真を撮って、のりとファミリーにメールを送りました。しばらく塾は休みなので、開けたらジュニアに渡す予定です。

 あまり嬉しいので、ここで注文主より一足先に紹介します。夏糸が途中で切れたので一色で作成するのは困難になりました。結果、羽がツートンになり、これはこれでカッコいいかなと思います。

 エアコンを効かした部屋で編み物をする・・・・、これがこの夏の我が家のトレンドです。
山荘で実物を初めて見ました。デジカメで記録して制作へ。 この羽は再現は無理。質感を出すことが目標。 編み始めは尻尾の途中から3つの首へ。そして足へ。 なんとなく、フレームが出来ました。バランスが問題。 キングギドラもどきが完成。座りが悪いのが欠点。羽が難所。 顔はうんと怖くしました。注文主は満足してくれるかな?

2011年8月10日
 「車中の熱中症」

 夏が戻ってきましたね。きのう、千葉の母を見舞うために、車で出かけました。外環が事故なので環七などの一般道で行き、帰りは渋滞の東関東道を使いました。日頃よりずいぶん時間がかかっためか、夕方自宅に帰り着いた時はフクシマも私も気分が悪くなっていました。どうも車中の暑さにやられたようです。熱中症にかかってしまったわけです。それを人に言うと「エアコンはいれてなかったの?」と必ず言われます。入れていましたが、冷風の吹き出しがイヤで、少しずつ温度設定をあげていたようなのです。その結果、外からの太陽の照りつけ、渋滞ののろのろ走行などが原因で車内温度が上がっているのに鈍感になっていたのです。お茶ばかり飲んで、すぐ汗になって、体を冷やします。お茶の味にも飽きて来ます。こうやって知らず知らず体温調整がバカになっていたようです。車中で暑いと感じてなかったのが、怖いですね。
 皆さん、エアコンのきいた車中で熱中症になるなんて、マヌケとお思いでしょう。これからは車での外出を控えて、室内でエアコンを充分使って過ごそう・・・と2人で話し合いました。ちょうど、お盆休みで高速道路も混み出すタイミングだし。家で日頃できないことをやって楽しもうかと思っています。

 皆さん、猛烈な暑さの中、お見舞い申し上げます。あと少し、秋風が吹くまで、しのぎましょう。

2011年7月31日
 「細かい手仕事」
 娘の部屋の収納が全て私の管理下に入ったので、先日スキーウエアや毛糸を大幅に整理しました。その時、夏糸(サマーコットン)の余り糸が出てきたので、何か細かい手仕事がしたくなり、初めて「あみぐるみ」に挑戦しています。ぬいぐるみなど興味のないヤマシタですが、「編みたい」欲求のまま、リス、きのこ、どんぐり、リンゴ、ウサギなどを作成しています。ちょっと見栄えのいいものを先日、卒業生の家に運びました。ぼちぼちつかむ動作で遊べる赤ちゃんにどうかなと思って持参しました。快く受け取ってもらえてうれしかったです。
 先日のこんこんぞうりから始まった「細かい手仕事」への欲求は「編みたい」欲求に辿り着いたようです。今後も余り糸をせっせと消費したいと思います。
 下に紹介。明後日から、サマースクールです。食事作りの合間にのりとジュニアたちが気に入る作品が生まれるとよいのですが・・・・。
何だかわかりますか?青いリスって珍しいでしょう。余り糸がこれだから、しかたない。 閉じていく時が一番楽しいです。中綿はこれも余り毛糸で代用。これはしっぽ。 これから目鼻を付けます。ここが一番の難所です。ビーズを買おうかと思っています。 あっという間にこれだけ作りました。夏糸が終わるまで編むつもりです。 サマースクール用の桃を山梨で購入。農家のサービス品は20個で1000円。 屋根裏から避難して2Fの客間で就寝するフクセンはさながら香りが桃源郷。

2011年7月26日
 「飯舘(いいたて)村」

 先日のNHKスペシャルをご覧になりましたか?
 飯舘村の全村避難に至るドキュメントでした。このコラムでも書きましたが、ヤマシタは原発の事故が発生してからは1週間ほど、人心地がつけませんでした。水素爆発のたびに、絶望を感じて暮らしてました。一番気になることは風向き。海へ抜けてくれることを願って気象情報を見ていました。心の中で「南に来るな、南に来るな」と念じて、洗濯物も外に干せず、外出時もマスク(花粉症もあり)をし、ひたすら晴天が続くことを願っていました。その時、すでに飯館村は30キロ圏外にもかかわらず、大きく汚染されていたのですね。どうも2発目の水素爆発時に、村の上空に放射能が漂い、雨と一緒に地面に何度も降り注いだようです。予想外のホットスポットが発生していたのは結構、早い時期から分かっていたことのようなのです。その後3発目の爆発で関東南部に達した放射能のチリが利根川を汚染して、水道水の制限が発表されるに至るのです。

 「風よ、南に来るな」と念じたせいで飯舘村が汚染されたわけではありませんが、だれしも、同じように「我が町に風よ吹くな」と願っていたことは事実でしょう。風むきはだれにもコントロールできません。運でその地の安全が左右されます。
 風向きによる汚染は、どうにも避けようのないことだったのでしょうが、その後がいけません。あの半径20キロ、30キロに落とし穴がありました。ホットスポットという言葉も今回はじめて知りました。しかし、この言葉を以前から使っていて、被害を最小に防ぐべき立場の人は、飯舘村のことをどう考えていたのでしょう?たしか、ニュースに飯館村が登場するのは米軍の発表からです。その時のショックを覚えています。でも国の動きは非常にお粗末、かつ飯舘村に非情でした。放射能の測定値を場所をふせて発表していたからです。何でこんなに大切な情報をシークレットにするのか・・・。すでに過度の内部被爆をしてから、住民に危険性を知らせることになってしまったのは、誰の責任でしょう?官庁しかり、専門家しかり・・・・。怒りつつ、心のどこかで「風よ、南に来るな」と念じた我が心に後ろめたさを感じてしまうのは、私だけでしょうか?

 運わるく、風が吹いてしまった、運が悪かったと思って非情な結果を受け入れて、あきらめて・・・・と言われて納得できるでしょうか?
 運わるく、風がこっちに吹いてしまったなら、知ってる人は教えてよ。はやく逃げろと教えてよ、と私なら思います。原発労働者以上に内部被爆してしまって、健診のあと、なんのアドバイスもないまま、東電の子会社で働き始めた男性の言葉。「みんなそうですよ、しかたなく、こうやって働かないと家族を養えないから」。彼は以前、原発で働いていたときには平常値だった、被爆量が、飯舘村での地震後の救援活動で一気にMAXを超えてしまったのです。

 また、仕方なく手塩にかけた牛を業者に引き取ってもらい、廃業する男性の場面。テレビを見ながら涙が出ました。引き取りにきた若者が「いい牛だね。」と言うと、廃業する男性は淡々と「いい牛だろう」と答えます。心の沈んだ男性に引き取りの若者が最後に声をかけます。「オレも宮城で被災したんだ」。それだけです。オレも被災したから、牛を手放すあなたも頑張って生活たてなおして下さいという言葉がそれに続く言葉でしょうが、言わなくても、相手をいたわる気持ちが画面から、伝わります。あ〜あ、いたるところに被災があり、被災の数だけ、言葉を飲み込んでいる人がいるんだと思って、テレビの前でもらい泣きしていました。

 稲わらの問題もあります。稲わらは水分を吸いやすく、何度も雨に打たれると、放射性物質が濃縮されて、どんどん高濃度になっていくと、牛肉が汚染されて初めて知ったのでしょうか?牛肉を守るために稲わらを管理する役所はどこなのでしょうか?そういう研究をしている専門家はいなかったのでしょうか?

 以前、就職を前にした息子に大学=火の見櫓(ひのみやぐら)説を説いたコラム(2007年1月3日)があります。村人よりいち早く火事を察知し、村人にそれを知らせるのが火の見櫓の存在。せっかく農学部で農業経済の勉強しているのに日本の農業にそれを生かさないのかと息子に母が質問した下りです。大学(研修者、専門家)はみんなの税金を使って、みんなのために研究している部分もあるので、いろんな危険を想定して、素人以上の周到さで、みんなのために心を配る責任があると思います。役人もそうです。法律の適正な執行と一つ覚えのように唱えているのは平時なら有効でしょうが、原発事故の時には「みんなの安全」という灯台を手掛かりに暗闇を航行して欲しいと思います。多少の不公平、不法行為が生じようとも、多くの人がそれ以上に苦しむことのないように臨機応変に処して欲しいと思います。

 えらい彩りのない文となりました。あまりに飯舘村の人に申し訳なくて・・・。櫓(やぐら)で警鐘を鳴らさない専門家や情報をふせた官庁への怒りもおさまらなくて・・・。書いてスッキリどころが暗澹たる気持ちになってしまいました。

2011年7月21日
 「輝くニンニク」
 シソやバジルとは少し違い、使い方の難しい食材にニンニクがあります。私はちょうど今ごろ、地方で大量に購入し、皮をむいて醤油につけたり、食べきらない分は冷凍したりしています。昔、妹に冷凍することを教わってから、ずっとそうしています。冷蔵して放置すると緑の部分が出てきて、非常に残念なニンニクになるからです。
 今年も各地の道の駅でニンニクの出荷状況をリサーチしていました。まず、6月末にニンニクの芽が並んでいました。中国産と違い、柔らかく風味のある国産の芽は一瞬に棚から消えますが、運の良い方は味わうことができます。続いて、真打ち登場。生々しいニンニクが並んでいる時は手が出ません。高価だからです。そして7月の半ばを過ぎて、やっと乾いてきたニンニクが登場してきました。平均一株200円。しかしサービス品は半値です。それをねらって1年分のニンニクを購入しました。

 本日、いつものように書類仕事をしながら、ニンニクを仕込みました。
 まずは醤油漬け。これは何年も持ちます。砂肝を炒めるとき、一番あうのがこの醤油。醤油づくりが目的ですが、残った真っ黒のニンニクも貴重。少し使うと最高の隠し味です。擦ってラーメンに入れると風邪の予防になります。皮をむいて、水分を切って醤油に漬けるだけです。ジャムの瓶くらいで充分です。一度トライしてみて下さい。世界が変わります。
 
 ニンニクを仕込んで感じたことですが、良い食材、旬の食材は輝いているということです。
 ではその輝きをご紹介しましょう。
これで800円。日本の農業を大切にしたいので、野菜は国産と決めてます。 洗って、乾かしています。スゴイ輝きです。 昨年と数年前の醤油漬け。これっきり。だから本日作りました。 醤油漬け完成。冷蔵庫の最上段が定位置。常温でもOK。 冷凍庫行きの分。多少風味は落ちますが、使えます。

2011年7月14日
 「コロッケを待つ1日」
 助成金の書類や塾の給与処理などで今日一日は終わりました。そしてコロッケの到着も本日でした。本当は夕方以降配達でしたが、妹が関西から電話をかけて午後2時に早めてくれたので、夕食に間に合いました。
 私は書類仕事をしながら、料理や片づけをするのが大好きです。
まずこの画像のわけがわかりますか?←氷が見えますか?
 荷物が届く前に私がやったことは冷凍庫を空けることです。大きな板氷がスペースを占めていたので、思い切って処分しました。ただ、流すのももったいないので、トマトやキュウリを冷水で冷やしました。それがこの画像。見るだけで涼しげでしょう・・。

 荷物は2時にやって来ました。妹は適当な発砲スチロールケースがなくて、冷凍庫にある「おいしいもの」をどんどん詰めてくれたそうです。黒豚のシャブシャブ用、ツラミ、ホルモン、カレーうどんセット、何かのモツ、そしてコロッケ2種(5ヶ+2ヶ)でした。時間をかけて、関西のお勧めの味を楽しみたいと思います。まずは本日はコロッケから・・・。
 
 2年待ったというコロッケは旭屋という肉屋のもので名前は「極み」。店に行った際ビーフプレミアコロッケというのもあったので、購入して味を比べようと思った、これもいれておくというメッセージがあったので、一緒に揚げることにしました。
牛の血統証つき 牛脂を揚げ油に入れろと指示があり その通りに揚げております 左がプレミアムコロッケ。右が「極み」。形はあまり変わらない。 中には大きな牛肉がゴロゴロ。芋が甘くて思わずジャガイモじゃない!と思う 最後までソースをかけるタイミングがない
 
 「極み」はとにかく甘い、きっとジャガイモやタマネギが尋常じゃなく味が濃いのでしょう。滑らかの最上級。肉はふんだんに使われていて、通常のコロッケの挽肉とは存在感が違います。ステーキ肉を上等の男爵で包んだ感じ。プレミアムコロッケは「極み」よりは硬い感じで、滑らかさは中程度。こっちは2ヶ月待ちくらいで購入可能。「極み」は今は6年待ちだそうです。「極み」の説明文には男爵やタマネギを育てた畑には但馬牛から採取した牛糞で作った有機肥料が使われているそうです。牛も野菜も超一級品。
 なかなかソースをかけるタイミングがなく、最後の一口でソースをかけると、とたんにB級の風味になります。それまでは高級レストランの風格が漂います。
 
 さあ、あなたは6年待ちますか?それとも、山下のこの報告で食べた気になりましたか?

2011年7月13日
 「最近の休日」
 とにかく高いところに出かけています。先週の火曜は草津白根山、この火曜日は日光湯元。どちらも白濁硫黄泉が近くにあること、高度が1700メートル以上あることが共通しています。お店や料理は二の次。まず涼しくて車の中でゆっくり昼寝ができるのが一番。もちろん、車には飲食のほとんどを積み込み、自宅状態を作り出します。楽しいですよ。ハイエースのドアを開けて、木陰を楽しみます。日中、お弁当を食べたり、本を読んだり、音楽を聴いたり、昼寝をしたりして過ごします。温泉施設の休憩室より今は涼しくて快適なのです。
 頂上の昼寝の前後には硫黄温泉につかり、お気に入りの温泉のはしごをして帰路につきます。夜のとばりが降りるころ練馬に帰宅し、「いや〜今日も涼しかった〜」といって就寝するのです。

 どうでしょう?こういう交通費しかかからない、休日を楽しんでいます。私たちの選ぶ温泉は一番高くて万座温泉の1000円。だいたい300円〜600円が相場なのです。きのうの日光の温泉寺も良かったです。緑っぽい青っぽい濁り湯で、今風の設備はなくても大満足です。帰りは沼田にぬけて雷雨の中を下山しました。片品村を通るのは20年ぶり。懐かしい場所がたくさんありました。苗場山荘を建ててからはトンと縁遠くなった場所の一つです。道々で農産物を買い物して、1週間の献立に充てます。トマトは必ず買います。今のところやっぱり那須のトマトが一番でしょうか?

 そうそう明日、妹から2年待ちコロッケが到着する予定。妹は2年前に注文して明日、私たちに一部お裾分けしてくれるのです。今申し込むと6年後になるそうです。どんなコロッケなんでしょう?また、ここで報告しますね。 

2011年6月30日
 「ギャラリー」
 娘の部屋が私の部屋になりました。そのせいで客間が出現しました。とても住みやすいです。この客間に今ギャラリーができました。私のやきものの師匠が家を整理されるので作品の一部を譲っていただきました。釉薬から手ほどきをうけた師匠です。もう20数年になります。
 作品の一つ一つが語る当時があります。師匠の作品はダイナミックなのです。使っている土はほとんど唐津の赤。ときには自分で採取したものも使っていました。釉薬は自作。最初に作成した土灰が懐かしいです。その作品もギャラリーにあります。
 少し↓にご紹介します。いいでしょう。
土鍋。お客さんの時、前菜でも入れようかな。ブルーはガラス瓶を溶かしたもの。 毎日眺めています。 抹茶椀はご飯に使うつもりです。手前は花器。

2011年6月22日
 「3ヶ月後のリベンジ〜はしご湯は楽し〜」
 震災で流れた「骨休め」をいただいてきました。フクセンがのりとくんたちの協力により、臨時休日を1日いただいて実現しました。こんなお湯好きの旅行もあるのかと呆れられることとは思いますが、ご報告。

 骨休め初日は「1000円高速」最終日。出発が早かったせいか、渋滞はあまりありませんでしたが、午後から混んだようです。画像は善光寺。どうしても「ぞうり」に目がいってしまいます。大勢の人に酔いながら、お参りしました。赤いカサをさしかけられたお坊さんに頭をなでられていました。その行列がすごかったです。
 参道でおやきとフキと淡竹(はちく)の煮物などの惣菜を買い、善光寺を後にしました。
 
 次は進路を高山温泉郷へ。途中の山道に車を止めて沢の流れの横で、善光寺参道で買った惣菜などでお昼にしました。
 食後むかったのは「五色温泉」。五色に変化するという硫黄泉です。この日は緑色のにごり湯。変わった匂いが漂う浴室は歴史を感じる空間でした。1湯目は大満足。
 早々と宿に行くことにしまいした。チェックインは3時30分。部屋でしばし休憩し、2湯目へ。宿の経営の日帰り湯「恵の湯」。おっと、宿は山奥の七味温泉「渓山亭」。「恵の湯」はたまげました。白濁硫黄泉は慣れています。熱めの露天につかり、まったりしていると、なぜか手足が真っ黒なのです。宿の人が事前に説明してくれていましたが、こんなに真っ黒になるとは思ってもいませんでした。白いお湯につかって真っ黒になるなんて・・・。立ち上がると周りの人が「おしりも背中も黒いよ」と教えてくれました。湯口の石段に腰掛けたり、もたれたりしたせいでしょう。内湯のせっけんで洗い流すと簡単に落ちます。でも、びっくりしました。硫化鉄という成分が原因だそうです。
 次の3湯目は宿の内湯と露天。ここは「恵の湯」ほど真っ黒にはなりません。私も学習しているので、あまり湯口付近に触れないよう入浴しているせいもあります。
 翌日は貸切風呂がネット申込みサービスで付いてきたので入りました。これで4湯目。川原近くの貸し風呂は景色の良い硫黄泉でした。こちらも手足に注意が必要。
 宿をチェックアウトした私たちは高山温泉郷を下りながら、はしごしていきました。5湯目は山田温泉「大湯」。洗い場の蛇口が木製の細工で情緒がありました。お湯は湯花舞うアグレッシブなものでした。
 続いて6湯目は「蕨温泉」の町営風呂。山田温泉の強烈さのため、あまり印象に残らない湯でした。7湯目は民間経営の「子安温泉」。オレンジの趣ある湯でした。ちょっと松代の加賀湯温泉を思い出しました。補修に使ったヒノキ材の香りが浴室に漂います。

 ちょっと湯あたり気味になったので、先を急ぎました。その日の目的地は諏訪湖なのですが、私たちは高速を使わずに菅平→上田→霧ヶ峰→諏訪湖と進路をとりました。途中の真田で「そばの花」という蕎麦屋で軽く昼食。器が気に入りました。もちろん蕎麦も合格。
 ここでちょっと寄り道して、和田峠の明治大学黒曜石のセンターに寄りました。休館日と分かっていましたが、雰囲気を知りたくて・・・・。私たちの黒曜石のフィールドより、よく管理させている施設でした。
 高度が高くなると、どんどんお天気が悪くなりました。霧ヶ峰(車山高原)はやはり濃い霧。白い霧の中に浮かんでくるツツジが見事でした。
油断ならない白濁硫黄泉。(貸切湯) 宿の横を流れる川。鉄分のせいで赤い。 古い歴史の山田温泉「大湯」。高温の強烈な湯。 陶器と磁器のコラボが見事。そばの花にて。 フィールドの黒曜石は観察するのみだそうです。 ツツジが盛りの車山高原。晴れている時に再訪したい。
 
 霧の高原から急降下すると穏やかな景色の広がる上諏訪でした。宿は「鷺の湯」。片倉館の隣です。
 ここで、8湯目は宿の内湯と露天。見た目は茶色。露天はこんこんと源泉が掛け流してあります。庭園の管理が秀逸。空間に手間をかけています。こういうところが老舗ホテルのプライドでしょう。
 最初は「仕上げの湯にいいね。柔らかい湯だね。」と話していましたが、なんのなんの・・・・。入浴後の汗がなかなか引かず、湖からの風に涼んでいました。ここもいい湯です。この宿は花火の際には絶好の立地らしいです。

 食事前、食後、早朝と8湯目を楽しんで、私たちの「骨休め」も最終日となりました。チェックアウトは9時50分。部屋でぎりぎりまで休んでいました。その後は最終の9湯目「片倉館」へ。ここは循環、塩素入りの湯ではありますが、懐かしの湯なんです。息子がまだお腹にいる頃、八ヶ岳で農園をやっている人に案内された湯でした。その時の記憶と比べようとちょっと入ってみました。西洋風のアレンジの見事な内装、階段状で深さのある浴槽。下には大きな玉砂利が敷いてあります。そう、これです。記憶のままの浴室なんですが、記憶よりずっと小さいのでした。私の記憶では5倍くらいのスケールだったのです。何かの記憶と混ざったのでしょうか。深さは藤三旅館につぎます。でも、いかんせん塩素臭がぷんぷんで最短時間で入浴を終えました。古さは残っているのですが、汚れの目立つ施設でした。きっと、前夜のホテルの徹底した清掃、空間管理状態から出てきたので目立ったのでしょう。

 その後はひたすら、買い物ツアーでした。上諏訪→原村→小淵沢→塩山→大菩薩ラインと物好きなコースをとって帰って来ました。画像は道をひょこっと歩いていたキジです。原村では農産物をたくさん買い込み、介助事務所やのりと家に届けました。もちろん青梅の息子にも。あれれ・・・。こんな時間。淡竹の煮物を仕込みながら、早朝から更新してみました。
 「はしご湯の旅」はこれで終了。
穏やかな湖畔の宿。 暮れゆく諏訪湖。部屋より。 付近の酒蔵のきき酒セットを頼みました 冷製のオマール海老の茶碗蒸し。絶品。 フクセンはご飯2杯におかゆ1杯の朝食。 原村の鉢巻街道で。

2011年6月16日
 「さいころじすとポヨン」
 丹誠塾の創立メンバーで、現在臨床心理士として活躍している西尾温文氏がyomiDrでブログを担当しています。
 良かったら、のぞいてみて下さい。 〜子どものこころ・大人の心
  

2011年6月12日
 「すごい準備のいる草履・・こんこんぞうり」
 凝り性です。「こんこんぞうり」は道具を自作。六合村の先生とは違うやり方で、本を参考にして私なりの「こんこんぞうり」を作成しています。あとはかかとを編んで仕上げる段階まで来ました。どれだけ、準備がかかるか紹介しましょう。手間がかかる理由は六合村教授の方法だと糸処理が気になるのとワラが簡単に手に入らないことです。ですから、ミシンを走ってヒモを作り、ワラのかわりにPPロープを使っています。こんな手順で準備しています。
ダンボールの自作マシーンで4p×90pの布をカット。 中表でアイロンし、半分に。この後、縫い代を最少(2〜3o)にしてミシンを走る。 専用グッズを使用し、裏返しヒモにする。このヒモにPPテープ4oを通す。 こんな感じでヒモが合計32本必要。ざっとここまで、1足分で5時間を要しました。 編み始めました。まだ、自作道具がないので足の指を使用。ちょっと痛い。 本日作成、優れもの。木材に釘をうち、テーブルに金属で固定。ドイトの店頭でアイデアが浮かぶ。

 いかがです?準備が大変でしょう?特にミシンを走った後、ヒモにするため、裏返す作業は熟練が必要。今なら、簡単にできますが、最初は道具も初めてで、「これは無理!」と口に出していました。何度かチャレンジして、マスターしました。ねじり方、右手と左手のコラボが実現して、スルスルと裏返ります。
 難解であれば、あるほど燃えます。スリッパのドームの部分もマスターしました。やはり、ポイントは格子でした。

 簡単にみんなと編めたら・・・・と思って始めた「こんこんぞうり」ですが、1人分作成に多大な事前準備が必要となると、実際無理でしょう。ヒモ32本持参して下さいとお願いして編み方だけ教授するのは、実際的ではありません。もちろん、差し上げたい人はたくさんいますが、こんなに時間のかかる「こんこんぞうり」をそう簡単にプレゼントするのは無理だということも分かりました。欲しい方は今なら、六合村の道の駅やネットなどにあるので、紹介したいと思います。
 もし、今後の企画で塾で草履を編むことがあるとすれば、(実際やりたのですが)、リサイクルの布ぞうりにしたいと思います。スリッパ状の「こんこんぞうり」ではなく、いわゆる「草履」です。鼻緒のついたヤツです。それを不用なTシャツや布で編むことはできると思います。研究してみますね。でも今はこの手間のかかる「こんこんぞうり」に夢中。いろいろ試行錯誤する楽しみの真っ最中なんです。塾の玄関ものを編んで、山荘の分を完成させたくらいで卒業すると思います。飽きるのではなく、やり尽くして卒業するのです。

 そんな手間なものを一緒にやりたいという方。アイロンとミシン掛けを覚悟して、山下に声をかけて下さいね。一緒にやり尽くしましょうよ。

 今、塾は面談月間で毎日たくさんのお母さん(たまにはお父さん)が来塾されます。お母さん方や高校生の女子が「わあ、いいな」と玄関の「こんこんぞうり」を褒めてくれるそうです。この報告を受けて「・・・だろう・・・。」と満足している山下です。

2011年6月2日
 「うれしい発見」
 昨日の朝、毎朝見ている水槽に小さなものが動く気配がありました。老眼の目をこらしてのぞき込むと、小さい小さいものが泳いでいます。待ちに待っためだかの赤ちゃんです。もうあきらめていました。うれしくて家にとって返し、フクシマに声をかけました。「めだかの赤ちゃんがいるよ!。」フクシマも出てきて、のぞき込みます。「どれどれ、ああっ、いるいる・・・・」
 おかげで仕事に出発するのが遅くなりました
 
 本日家に入れて、ライトをあててみました。ごくごく小さいのに・・・、いや小さいから、大きな存在感。ミヒャエル・エンデのモモのテーマ、「ゆっくりであればあるほど、はやい」と通じます。香りもしかり、微かであればあるほど魅力的。料理もしかり、八角やゆずはちょっと使えば、好ましい刺激に・・・。おっと、また脱線。限りなくパラドキシカルな発想がわいてきます。

 こんこんぞうりはただいま道具発注中。たった2年前の情報でも、もう販売していない所もあり、がっかりする場面もありました。固定の板はホームセンターで切れっ端を使って自作しようかと考えています。材料の布はたくさんあります。
  ←分かりますか?→

2011年5月31日
 「予習の甲斐あって・・・。」
 
 こんこんぞうり習って来ました。
 その前に「こんこんぞうり」で検索すると、「こんこんぞうり、布ぞうり」という本(市ノ瀬絵里子作、パッチワーク通信社)がヒットしました。よく見ると手芸の先生が六合村の方々の協力を得て、今風にアレンジして、作品を紹介している本でした。さっそく、注文しました。そして土曜日に身の回りの荷造りテープなどを使って、予習することにしました。「こんこんぞうり」とはスリッパ型のぞうり。布ぞうりは従来の鼻緒をつける夏向きのぞうり。本を一読すると、布ぞうりより「こんこんぞうり」は数倍むずかしそうです。特にスリッパの上部ドームが難しそう・・・・。本番はここをしっかり教わろう・・・と思って、火曜日を迎えました。

 家を出発したのが、7時30分。講習は1時スタートですから、駒寄の食の駅に寄って買い物をし、沢渡(さわたり)温泉共同湯に寄ってひとっ風呂・・・・とゆっくり六合(くに)村へ向かいました。初めて通る暮坂峠(くれさかとうげ)。良いところでした。六合村に入ると「花楽(からく)の里」という道の駅風の場所がありました。中に入ると植物をたくさん干してあって、ドライフラワーなどにしていました。職員の方々が生き生き仕事をしていて明るい施設だな・・と思いました。その庭のベンチで食の駅で買ったお赤飯や巻きずしでお昼をしました。まだ、山には藤が彩りを添える春の景色が広がっていました。

 ふるさと活性化センターに着いたのは1時5分前でした。「こんこんぞうりを教えてもらいに来ました」と玄関でいうと、若い女性が奥の年配の方を紹介して、ご本人はすぐ立ち去られました。あれれっと思っていると、広いセンターには私と年配の女性、2人だけになっていました。彼女は小柄でうつむきがちな先生でした。お話の半分くらいしか、理解できなかったですが、とても口数の少ない方なので、大きな誤解は生まれませんでした。
 会ってすぐ「あんれ、困ったな、間に合うかな、間に合うかな・・・」を連発します。私が「何がですか?」と尋ねると、「今からなら、全部終わるかな・・・。」と時間がなくて心配だというのです。私が「長くても4時間あれば、完成するし、センターは5時に閉めるから、1時に来てくれれば大丈夫と言われました。」と伝えると、先生は「でも4時には掃除しなければならないし・・。」と小さな声でおっしゃいます。
 いきなり、時間が押しているという状況で多少、面くらいながら、「こんこんぞうり講習」はスタートしました。

 先生は自分でどんどん編み進みます。私は予習しているので、だいたいの手順は分かります。あまり早いので、一番難しいスリッパの上部ドームの所はゆっくりやってもらいました。やっぱり、難解でした。ただ、一つのルールがありました。それは格子状に編むということです。隣を見ながら、確認していきます。分からなくなったら、自信のある所まで戻ればいいのです。
 先生は片方を超スピードで編み上げました。そして私に同じようにやれといいます。私も必死で習いながら、片方を編み上げようととりかかりました。途中から先生が「イッヒッヒ」と笑うようになりました。それは時間が押しているから、懸命に手を動かして、先生と同じ速度で編むあまりに、乱雑になっていく私の編み目を笑っていると思っていました。どんどん、先生の口から「イッヒッヒ」が発せられて、いつしか耳慣れた頃に、私の「こんこんぞうり」は編み上がりました。先生は「思ったより、編めたな、イッヒッヒ・・・・」とおっしゃっていました。あとは余った部分をカットして、見栄えをよくして完成です。なんと2時45分には制作を終えていました。4時間かかるものを半分足らずでやっつけたわけです。板についた膝やヒモを固定していた指がしびれるような疲れを覚えていました。久々に何かを修得しようと身体と頭脳がフル回転しました。

 編むこと以外はほとんど、よけいなおしゃべりもなく、お茶一杯も飲まず、「こんこんぞうり講習」は終了しました。や〜、疲れた。その間フクシマはセンター隣の山本さんに滝を2つ案内してもらって、沢でほんの少し野生のワサビ葉をとって帰ってきました。講習が早く終わったので、驚いていました。

 帰りには「八場(やんば)ダム」に沈む運命だった川原湯(かわらゆ)温泉の共同湯に浸かりました。本日2度目の温泉です。午前中の沢渡温泉といい、この川原湯温泉といい、近くに草津、万座、四万温泉と横綱級がひかえているため、実力の割には目立ちません。ただ、なかなかいいお湯でした。「こんな機会でもなければ、訪れるチャンスはない、行こう!」フクシマと相談して向かいました。どちらも高温の温泉がドバドバ掛け流され、沢渡は皮膚トラブルに効能大、川原湯は硫黄臭がぷんぷんのシンから温まる温泉でした。300円という料金も共同湯ならではの設定です。地元の人の支えによる、管理の良い共同湯は温泉地の水準の高さを証明していました。
 
 これからは本を見ながら、そして先生に教わったことを思い出しながら、ゆっくり家で創作活動に励もうと思います。まずは道具づくりから。それとも私も先生のように足の指に引っかけようかな・・・。 
デジカメを忘れたので、携帯のカメラで撮りました。
先生は足の指に引っかけて編みます。 ぞうりを編むのは全身を使います。 私は木製の道具に引っかけて編みました 片方は私が編んだこんこんぞうり 最後はチョキチョキ余った部分をカット

2011年5月24日
 「出会いはいつも、わらしべ長者」
 
 今朝は寒くて、久々に浜に行こうかという前からの提案はすぐ、再検討となりました。お弁当の用意もないし、結構、疲れているから・・・・、などと出かけることにも消極的になっていきました。私が「天気が良ければ、草津白根山のあの絶景を見て、気持ちが晴れるのにね・・・。こんな天気じゃ、無理だしね。」という言葉に、フクシマが「いや、絶対、天気は北から回復するはず、白根山ルートで万座に行こう」と即決となりました。
 急ぐ道中でもなく、駒寄の食の駅で買い物をし、草津に向かいました。その時、思い出したことがあって、「中之条のあの、お店が集まっている所(TUMUJI)に寄れないかな?」と頼んで、少し引き返して、もらいました。私には1年ほど前にTUMUJIで購入したグッズで気になっていた品があったのです。それはこれ。
 1年使ってみて、思ったほどへたれないし、冬も寒くなかったので、フローリング生活で消音に効果あるスリッパだと分かりました。ただ、そのデザインはマチマチで気に入る品が少なく、「これを自分の持っている生地で作れたらな・・・」とずっと思っていました。
 今年はこのスリッパは1個のみ、残っていました。店員さんに尋ねると、もうこれ以上仕入れはないという返事。「何で、この辺りの特産品じゃないの・・・」と思いながら、一つを購入し、先を急ぎました。

 目指す草津白根山はピーカンにもかかわらず、「天候により、通行止め」という結果でした。えっ、なんで?と思いましたが、今朝の悪天候でいち早く、通行止めにしたのでしょうが、ちょっと気が早くないかな?多分、個人利用者に関係なく、大型バスの観光客のための、いち早い決断でしょうが、道は通して欲しいなと思いました。頂上の駐車場の体制のためかな?でも通過する利用者はやはり、通して欲しいな。

 草津より先に行けないので、フクシマが「こんな時にしか行けないから、六合(くに)村に行ってみよう・・・」と提案しました。六合村とは俗説ながら、古事記で天地と東西南北、すなわち支配の及ぶ範囲「国」を表すことからネーミングされたと説明されているようです。ちょっと読めない地名ですね。

 まず、道の駅に行きました。そこで見つけたのが例の「消音のスリッパ」。名前はコンコンゾウリだそうです。レジの女性に「これはどこか遠くから仕入れているのですか?それともこの辺りの方の作ですか?」と尋ねると「この辺りの人が作っています」という答。私が「是非、作り方を教わりたいのですが」と言うと、「体験する場所がありますよ」という返事。しかし、この女性はこれ以上のことは知らないので、その後、隣の店で情報を得、案内書から、体験できる可能性のある施設を考えました。道の駅では詳しい情報は誰も知らなかったのです。

 いちかばちで向かった体験センターはもっと山奥にありました。入口を入ると公共施設というより、どこかの公民館の一部屋という感じでしたが、3人の女性がお茶をしていました。そこに私も仲間に入れてもらって、お茶と山椒の佃煮、マイタケ入りのこんにゃくなどをいただき、「コンコンゾウリの作り方を教わりたい」と相談しました。女性たちは気軽に担当者に電話してくれて、来週、レクチャーを受ける段取りをつけてくれました。そういう相談をしている間にフクシマは駐車場で待っていたのですが、近所の方に「お〜い」と呼ばれ、曲げわっぱを作っている男性にお茶をよばれていたようです。彼は大工さんで自作の家を示して、「泊まっていけ」と言います。この奥の集落はみんな山本さんという名字で100名ぐらいの人口だという話でした。彼の敷地内の「しだれ栗」が自慢で、一度見てこいと言われ、女性陣と別れてセンターから出てきた私はフクシマと見に行きました。珍しい栗の木が浅間山を背景に輝いていました。素晴らしい、明るい畑の風景が広がっていました。

 その後は京塚温泉という、豆腐屋さんで鍵を借りて入る温泉に浸かり、帰ってきました。

 来週はコンコンゾウリをお年寄りから教わるくだりを報告できそうです。

 

2011年5月17日
 「鹿の湯 健在」
 約2ヶ月ぶりに那須に行ってきました。早朝6:40に自宅を出発。蓮田SAで休憩して、朝食のパンを食べ、一路那須へ。高速を降りるとき「那須〜白河間、地震注意」の表示には心が揺れました。
 友愛の森には9:00着。原発から避難した人たちの受付場所となった「道の駅」です。今日は人も少なく、係の人曰く、連休くらいから観光客が戻ってきましたとのこと。250円のバラの束とタケノコ、苺などを買って、次はベルフルールを目指します。娘が最初に研修したパン屋は堅実にやっていました。フランスの小麦で焼いたパンがずらりと並び、いい香りに満たされていました。ここの本日のベーコンエピーは秀逸でした。顔見知りの女性職員さんと震災の時の話をしました。「ここへ来て、少しお客さんが戻ってきましたが・・・」と複雑な彼女の表情からは、震災でお客が減った観光地の憂いを感じました。

 10時前から3時まで、日帰り湯治を楽しみました。鹿の湯では「休憩でお願いします」というと個室に案内してくれます。今日は8畳の個室でした。入浴料も入れて1人、1日、1500円。お茶もサービス。私たちが持参したのは、お弁当、飲み物、タオルケット、本など・・・・・。源泉につかり、個室でうとうと、また源泉につかり、お弁当や読書・・・。泊まらなくても、湯治です。フクシマも私も合計3回、お湯に入りました。

 やはり、すごい湯の力。私は顎のガクガクがずいぶん良くなりました。もちろん、膝も・・・。
 フクシマも寝ていて捻挫する現象が最近出現していたので、困っていましたが、身体が軽くなったと喜んでいました。那須街道はいつもより半分くらいの車の通りでしたが、八重桜と芽吹きが一度にやって来た景色は一見の価値有り。どこまでも続く雑木林も美しい。何より、鹿の湯の力、まったく変わらず、健在。

 あまり元気になったので、コラム更新しつつ、タケノコ下煮しています。

2011年5月3日
 「家を楽しむ」
 渋滞情報を聞きながら、家で過ごしています。
 ゴールデンウィークは完全な家派となりました。出かけたのは小平霊園のみ。自転車で上石神井→小平を往復し、いい運動になりました。庭の草引き、お墓の草引きと腰には過酷な毎日となりました。そして、明日は息子を誘って娘のいる松戸へ行きます。タンスの移動のためで、これで本当に新生活の移動が終了となります。
 
 今日は庭の様子をご報告。狭いながらも地面があると、四季の移り変わりが楽しいです。
火鉢に冬を越したメダカがたくさん泳いでいます。 お腹が大きいママを隔離しました。毎日見ています。 この水草に付いたものはタニシの卵らしく、ガッカリ。 中央にシソの双葉が見えますか。次々と発芽しています。 隣では、本葉が6枚にも育っています。ミントも健在。 移植したロウバイ。嬉しい若芽が。このまま成長して欲しい。

2011年4月27日
 「フカサワ温泉」
 塾の講師に共通して人気があるのがフカサワ温泉。もう通って10年選手です。中央高速の甲府昭和ICから5分です。
 
 特徴は豊富な高温の温泉がザバザバ掛け流しているところ。サイダーの中に身体を沈めたように泡が全身につきます。受付ではお父さんより譲り受けた姉妹がお湯を守っています。そして、いつも何か近所の農家の産物を売っています。地元のお年寄りがたくさん押しかける人気の温泉です。

 昨日は友人を誘ってフクシマと3人で湯治にいってきました。いつもはお湯につかり、受付の女性と話し、すぐ次の場所に移動するのですが、昨日は部屋休憩という形で利用しました。お弁当、飲み物持参で(昼寝用の毛布も持って)出かけたのです。弁当はフクシマの喜ぶ『かつめし』。次に介護事務所でみなさんに作るので牛肉のグラム量やソースの感じを見るため試作したものです。他にはタケノコ煮、わらびと油揚げの煮物、アスパラや卵焼き、チーズに花わさび・・・。フクシマはお湯の合間にグーグー。私と友人はゆっくりお弁当を食べ、四方山話に花がさきます。
 あっという間に4時になり、もう一度お湯に入り、帰路につきました。2時間ほどで東京に帰れる距離なのも、有り難い。震災後はもっぱら、フカサワ温泉にいくのは、揺れないからでしょう。日帰り湯治は那須の「鹿の湯」で始めた私たちのちょっとしたブームだったのですが、フカサワ温泉でも楽しめることがわかりました。那須街道から車が消えたと言われている那須温泉街です(山里料理“ほし”の便りから)。鹿の湯のことも気になります。しばらくしたら、鹿の湯も行ってみたいと思っています。でも、余震がなかなか、なくなりませんね。

2011年4月17日
 「震災を語ろう」
 
 語りました。
 その前に、増田講師による「放射能の話」という授業もありました。
 どちらも、中身が詰まって、時間が経つのを忘れていました。
 私は語る会の準備で増田くんの授業は半分しか出られませんでしたが、「正確な知識を伝える科学者」に徹していた彼は素晴らしい授業者だと思いました。「ゴム草履に半ズボン時代の小学生イメージ」が最近やっと私の中で抜けた彼ですが、話の進め方に訥々した中にも、聞き手への配慮が充分見られ、頼もしい青年に育ったなと感心して聞いていました。しっかり知ることが怖さから開放される道だと理解しました。

 メインの「語る会」は実際やってみて、その意義の大きさに驚きました。
 みなさん、語る、語る・・・・。参加者十数名に1人ずつ話を回してタイムアウトでした。
 まず、のりとくんの仕切りで「自己紹介と震災の時、どうしてたかを話して下さい」という言葉からスタートしました。語る内容はそれぞれでしたが、その一つ一つが新鮮(?)、自己発信、同じ物はない、臨場感あふれる、そして雄弁・・・・。
 語りたかった言葉があったんだ・・・、そして共有して心が落ち着くことってあるんだ・・・・と1人1人の話を聞いて実感していました。何故でしょう?不思議ですね。人と話すことがこんなに気持ちを楽にするんですね。
 
 この会を発案したのりとくんには、ここまでの確信があったのか、今度きいてみたいと思いました。
 

2011年4月12日
 「転プレート療法」

 日曜から一泊で兵庫県に帰ってきました。母の7回忌の法要に参加するためです。早朝よりの新幹線の旅になりましたが、昔からのコミュニティーの中で心身ともにリフレッシュして帰ってきました。妹の家族、父母の兄弟姉妹家族・・・・・、上京するまでの私を取り巻く人間関係が38年経っても当たり前に存在することが安心に繋がりました。母は居なくなりましたが、周りのおばちゃんたちはモリモリ元気に健在でした。
 転地療法という言葉がありますが、今回は転プレート療法です。プレートの違いは明かで、揺れない土地で「安心」という守りの中で日常生活を送る感じを思い出していました。本当に関西は普通の生活なのです。フクシマは『サンデー毎日』の増刊号を持って帰り、壮絶な画像を関西人に見せていました。タフな関西人が言葉を失う静止画でした。静止しているからこそ、恐ろしさを増大させる津波の写真でした。

 昨日夕方、東京駅に着きました。塾に行くために自宅に荷物を置いたら、また余震の情報。タクシーで移動中に揺れていたようです。その後もちょこちょこ揺れる我が家にいて、やっぱプレートが違うんだなと実感していました。

2011年4月4日
 「少し力が抜けました」

 お楽しみ会を無事、終え、久しぶりにお休みをもらった塾のスタッフたち10人はハイエースに満杯で乗って、山梨へ行ってきました。中村農場という親子丼のうまい店に行ったのです。到着は11時20分ごろ、席確保のため受付の紙に「フクシマ10名」と記入。開店は11時45分というので、売店でお土産の地鶏を買い込みます。保冷庫に一杯になりました。ここの地鶏や卵は本当に美味しいのです。
 お店が開いたら、10名がメニューを見ながら、注文を考えます。それぞれの丼は自己負担、焼き鳥13種はフクシマのおごちとなりました。みんなデザートのプリンやバームクーヘンまで食べました。たっぷり1時間かけてランチを楽しんだ後は来年のリベンジを誓ってキープ自然学校を見て、八ヶ岳の麓をドライブしました。口々に「春合宿やりたかったな・・・」「来年はやるぞ・・・」と言っていたのが印象的でした。キープのパン屋、小淵沢の道の駅のパン屋・・・。買い物ツアーはお決まりのコースを回ります。

 そして最後は甲府昭和のフカサワ温泉で汗を流しました。フクシマと私は約4週間ぶりの本格温泉です。身体のシンから温まります。シャンプー、ドライヤー持参の山下は女性メンバーに貸し出し、感謝されました。温泉愛好者はいつも持参しているのです。
 顔なじみのフカサワ温泉の女将さん曰く、「近所にも福島県から避難してきている人が70名ほどいます。私も煮物など料理して持って行きました。」

 いろんな所に被災者への協力者がいるのですね。

 いつのも温泉に久しぶりにつかり、日常が戻ってきた感じがするヤマシタでした。
若者グループ ファミリーグループ 卵自慢のプリン 私もうまいと思うアイスでした 清里の4月はこんな感じ・・・。 でっかい八ヶ岳

2011年4月1日
 「新生活スタート」
 新年度が始まりました。
 塾は教材が一時、福島家に移動、スッキリして模様替えを進めています。連日、グリーンフラッグを掲げて塾を開放しています。たくさんの大学生、社会人スタッフが手伝いにやって来てくれます。といっても花粉症に風邪のダブルパンチの山下は何の役にもたっていません。
 娘は29日本格的に引っ越していきました。本日早朝5時より仕事スタートです。娘の部屋は塾の教材置き場となりました。ハイエースで合計3回に分けて荷物を運んだことになります。ガソリンが手に入らない中の引っ越しはホントに予定が立たずに困りました。よくここまでこぎ着けたとフクシマと2人でシミジミ話しました。22日の2回目の引っ越し日には大学生スタッフに松戸市まで同行してもらい、4階まで冷蔵庫や洗濯機を運んでもらいました。若い力がないと私たち3人だけでは無理だったなと思います。本当に有り難い助っ人でした。

 さて、西尾氏からメールがあり、「もも」を引き取りに日立港まで行ってきたそうです。「もも」は航行不能のようです。これからのNPOの活動にも大きく影響を及ぼすことになると思います。積んでいた備品をいわきに運んだようで、いわきの様子を知らせてきました。いわきの状況は深刻で沿岸部が破壊され、ガソリンも売ってなく、スーパーも閉まっていたそうです。ヨット企画の中心となっていた友人の生活が気になります。水道は通ったということですが、車いすで屋内にいる生活を思うと心配です。

 明日はコール田無で「お楽しみ会」です。たくさんの親子の参加をお待ちしています。人数の把握の関係で本日まで電話で参加を受け付けてます。
地震当日、介護事務所の研修室でパンを焼く娘(電気オーブンを体験したくて) 娘が選んだ食器たち 最後は自転車を積んで引っ越し最終便 玄関にテプラで名前を張る娘 もと娘の部屋が教材置き場となる 津波を乗り越え、太平洋を浮かんでいた「もも」

2011年3月27日
 「人との距離」
 大震災から2週間が過ぎました。5年連用日記にしたためた内容でその激動の2週間を振り返ることができます。グリーン・フラッグ・プロジェクトは被災直後から1週間かけて塾が形にした「一つの方向」でした。たくさんのスタッフの力でなんとか、春期講習の実施までこぎ着けました。ハガキは2〜3家庭を除き、期日内に返信されました。ご家庭のみなさま、ご協力ありがとうございました。返信ハガキは私たちのことを気遣い、子どもが春合宿がなくて残念、でも子どもの安全を一番に考えてもらってありがとう・・・などなど心を温まる内容でした。ハガキの束は丹誠塾の永久保存の宝となりました。
 昨日、地震直後の各所からのメールを保存しました。娘の「生きてる?」から始まり、フクシマ、息子、田舎の妹たち、友人たち・・・・と続きます。これが私という人間のもっている関係性の濃さだろうと思います。被災してすぐ思い浮かべる順番が「人との距離」だと思います。この関係を大切にしてこれからも生きていこうと思い、いつか消えてしまうことのないよう、メールを保存したのです。
 
 パン屋の研修と配達物の待ち受けの都合で、25日初めて新居で泊まった娘です。夜、20時38分、「千葉で初揺れ!!」と余震を感じた後のメールが来ました。私はすぐ「初揺れ、おめでとう」と返信しました。29日で本格的に引っ越しです。こんな時、いろいろ思うことはありますが、娘の門出を祝ってあげたいと思います。

2011年3月22日
 「血圧のコントロールに成功}
 
 15日の文章をやっと、本日UPしました。不甲斐ない状況でしょう。とほほ・・・。
 ただ、やっと血圧のコントロールに成功しました。平常な値で生活でき、睡眠、食欲も復活しました。

 こんな個人的なことは、さておき・・・・・、塾ではちょっとした「クリーン作戦」が展開中です。中心はのりとくん、大学生そして、今度高校に入るスタッフ予備軍たちです。もちろん老体のフクセンも精力的に動いています。

 19日から作戦は始まりました。大学生とスタッフ予備軍たちは家のダンボールを持って、塾に集合しました。これから、各教室の教材の全てを「残す」「残さない」組に分けていきます。書籍類は緑と黄色のひもで縛って目印にします。ダンボールには縛れないものを入れます。「残す」「残さない」はフクセンとのりとくんが決めます。教材以外の古い会計書類や行事の記録は私でも決められます。思い切った英断が必要な作業です。フクセンの判断で「たくさんのふしぎ」は全部「残す」組です。これだけそろっている場所は福音館以外にはないと思います。これだけあれば、なんでも授業できる気がします。私が緑で縛りました。縛る仕事でたくさんの世界と繋がり、本からエネルギーをもらいました。

 翌日20日は大学生スタッフを交えた会議を開きました。フクセンの34年前どんな思いで塾を始めたか・・・・・、という話から始まり、具体的なグリーンフラッグプロジェクトの運営方法へと進んで行きました。私はその日もずっと、「残す」「残さない」作業を続行していました。春合宿を中止したため、お楽しみ会を開くことになったので、その会場の手配は全部大学生のイトウくんがやりました。見事な手配ぶりでした。ネットを見つつ、電話をかけて交渉する声を、頼もしく聞いていました。大学生の子どもたちの話は具体的で冷静で、かつユーモアに溢れています。こんな子どもたちと付き合っている自分はラッキーだなと思いました。塾家庭への説明文の郵送は名簿作成から住所書き、封入まで全部、その他の大学生スタッフが行いました。字を書くのが苦手な大学生も1人1人丁寧に宛名書きをしていました。

 今も計画停電は続いています。練馬区の自宅はなんとか免れていますが、塾のある西東京市は3グループです。夜、電気がつかないので授業が出来ない場合をフクセンは最初から考えていて、毎朝いろんなアイデアを私に伝えています。「ピンチはチャンス」だそうです。

 そして、うれしいニュースが西尾氏から飛んできました。小名浜マリーナに停泊していた「もも」が海上を浮かんでいるのを発見されたそうなんです。『ももと書いた青い船は西尾さんのですか・・・』と問い合わせがあったそうです。西尾氏は津波で流されたものとあきらめていました。これまで長く「ヨット体験」に貢献してきたクルーザーです。最近は田無教室から参加する子もなく、もっぱら現地いわきの子どもたち中心の企画になっていましたが、東京から大人は参加していました。ぷかぷか浮かんでいるところを想像すると嬉しさがやってきます。近くまで引っ張ってきてくれるそうです。

 グリーン フラッグ プロジェクト・・・・。塾の中をクリーンに安全にして、子どもとの交流をしっかり、続けようというプロジェクトです。旗がある限り、そこには人と教材が待っています。

 本日、引っ越しの娘がホームページの文章を読んで、「いいじゃない、このプロジェクト。でも、やたら片づけが多いな・・・。」と、つぶやいていました。彼女は私たちの教材の量を知らないのです。

2011年3月15日 (22日にUP)
  「報道を見続けることの危うさ・・・・・」
 
 私の得意科目は素速い計算だと思いあたりました。でも、それが正確がどうかは分かりません。一つの事象が起これば、身体が一瞬に計算してフリーズしてしまっています。今回の場合・・・。それが自分を損なうことを実感しています。

・・・・・・ こんなことは塾のコラムには格好悪いかも知れませんが、もしかして同じタチの保護者の方がいたら・・・・・と思い、残すことにしました。
 家族の中で、フクシマや娘はテレビのリアルタイムの情報を聞きつつ、生活しても平気です。でも、私はどんどん、変容していきました。たぶん、血圧が上昇し過ぎて、食欲も無くなっていた限界だったかもしれません。その世界をシャットダウンして、やっと自分を取り戻しました。フクシマはまず、音楽を勧めました。「テレビの情報を入れず、音楽を聴きなよ。」彼はバッハとモールアルトのCDを出してくれました。それとともに、BSの音楽と映像もお世話になりました。
 
 そんなダメージを共有する方、本当はお話して、心をおだやかにしたいのですが、そうもいかないので、記しておきます。音楽の次に私が自分を取り戻したのは、「すべらない話」の過去のDVD。アメトーク・・・。つまり、好きなことです。今を忘れるくらい、好きなことをやって、現実逃避だけではなく、震災の無い時代の自分のニュートラルに戻り、現実に帰る作業でしょうか。でも、もうすぐリアルタイムのバラエティーも復活するかもしれません。
 危うさの中で生きてる私たちが持たなければならない技術だと思います。好きな時、好きな関係。好きな対象。

 子どもたちにも言えると思います。具体的なことを何一つ理解できないまま、ひたすら辛抱を強いられる生活。子どもたちのストレスは大人ほど目に見えません。ただ、尋常じゃないことが起こっていることは、感じています。

 関西の妹は須磨区で被災しました。その時のPTSDが15年以上たった今でも、今回の報道を見て甦ると言います。吐き気がして、不安になるようです。「姉ちゃん、怖いで〜、余震気つけてな〜・・・」。と、すぐメールしてきてくれました。
 もう一人の妹は震災時、車で1時間くらいの場所なのに被災地に姉の救援物資を持って行けずに泣いていたことを思い出します。彼女は、このたびに私たちにたくさんヘルメットを送ってくれました。塾生の分もありそうな量です。大きな時代の変化が起こっていますが、日本中で共有し、次の時代を作り出せたらいいと思います。

 本当に、すごいステージがやって来たと思っています。

2011年3月13日
 「未曾有の災害」

 介助事務所で会計入力をしていたら、ゆらゆら揺れだし、どんどん納まらない感じになってきたので、外に出て様子を見ていました。結局揺れはまだまだ続き、気が付いたら道路を渡って空き地横の桜の木の下にいました。桜の根っこから地下の動きがよく感じられて「きっとこの木が守ってくれるはず・・・」とすがる気持ちでいました。周りの同僚は車いすの仲間と共に道路の中央分離帯に避難し、様子を見ていました。モデルハウス建設中の現場では作業員が慌てて現場から離れていました。道路上に響き渡るのはその建設中の骨組みの揺れる音でした。同僚の一人が「上から物が落ちてこないかよく見て!」と叫んでいました。彼の情報収集により、震源地は宮城沖、大津波警報が発令と・・・・。東京直下ではなく、そんなに遠くても、この揺れ!相当大きい地震と分かりました。

 それからの同僚たち(介助事務所の職員)の動きは早かったです。利用者さん(障がい者)の安否確認から始まり、交通機関の情報、介助者の引き継ぎ、車手配の情報、次は停電した場合の準備(人工呼吸器など)、防災用品の配布体制などを次々とこなしていきました。私はその状況を業務連絡のメーリングでリアルタイムで知ることになります。杉並方面の利用者さんへ車を出すというので、その便に乗せてもらい、早めに帰宅させてもらいました。だから、その作業には何一つ貢献していない私です。(前にも書きましたが、山下は塾以外にも仕事を持ち、友人の介助事務所の非常勤職員として会計を担当しています)

 揺れがおさまった直後、娘から「生きてる?」というメールが届きました。フクシマからも「だいじょうぶ?」と。返信しますが、なかなか次のメール返信がありません。若い同僚に「問い合わせしないとメールこないよ」と教えられ、その通りにしました。メールで安否の確認ができることが大変有り難かったです。

 帰宅すると帽子を被った娘がテレビを見ながら、「ガチ怖い!ガチ怖い!」を連発。揺れの激しい瞬間は液晶テレビを押さえていて、ベランダの洗濯物が落ちるのとリビングの本棚が倒れるのを見ていたという・・・。2人でバラバラになったものを片づけ、キッチンの戸棚を確認していきました。なんと割れたのはガラスもの2つだけ。私の食器は一枚も割れてなく、キッチンを片づけながら、本当に有り難かったです。キッチンの収納扉に開かないようカマボコの板が渡してあったからです。このカマボコの板で収納扉が保護されたようです。フクシマの母のアイデアでした。収納のたび、何度か、めんどくさいので外そうと思いましたが、地震の時にきっと役に立つとそのまま使用し続けました。扉が開いていたら、きっと中の器は床に落ちて破損していたと思います。

 その後、休講した塾からフクシマが帰宅しました。家族がそろう安心感。実際この時、介助事務所の同僚たちは家族を誰かに託して、利用者さんと居たことを思うと頭が下がります。フクシマに言われました。「君は平時に強いけど、こんな時はオレの方が強い」と。

 昨日は、午前中は被害の映像や一番気がかりな原発の情報を見ていました。途中で、被害妄想気味になっている自分に気付き、これではいけないと思い、楽しみに撮り貯めている「姫たちの戦国」を2放送分、娘と見て過ごしました。気持ちを戦国時代に飛ばせ、現世の憂いから、しばし逃避したわけです。

 そして夕方、最大級の憂いがやってきました。骨組みだけになった福島第1原発1号機の建物を見た瞬間、「あ〜、やっちまった」と思いました。明日からの尋常じゃない生活を思うと身体から気力が失せました。津波の被害以上の回復困難な被害が原発です。「100%安全なんて存在しなかった」と深刻に思いました。これから毎日昆布を食べても追いつかない汚染が広がることを想像して、暗澹たる気持ちになりました。娘が「放射能って?」と尋ねます。説明しながら、自分の言葉が恐怖に変わっていきました。

 その後、夜になって、核燃料が爆発したわけではなく、外壁が水素爆発で吹っ飛んだ状況と説明があり、半信半疑で就寝しました。もう祈りの境地になっていました。幼い頃、外国の核実験の影響で「雨にあたったら死んでまうで、家におらなあかん」と母に言われ、こわごわ窓から外を覗いていた記憶が甦りました。放射能を含んだチリが雨という形で日本上空から汚染してくる時の話でした。

 長々書きました。それぞれの被災があり、これが未曾有の災害であり、一つ間違えば地球規模で日常生活が奪われる危険の上に私たちが生活していることを記したくて、とりとめもなく書きました。

 最後になりましたが、津波や揺れなどで激甚な被害を受けた方々、ご家族、関係者の皆さま、心よりお見舞い申し上げます。早く生活やお気持ちが落ち着かれることをお祈りしています。そして、安否確認で私にメールや電話を下さった遠方の方々、本当にありがとうございました。関西の親戚知人たちはみんな震災の経験者です。「心配で心配で・・・○○ちゃん仙台やなぁ、」と息子を気遣って電話してきてくれた叔母の心が大変嬉しかったです。(宇都宮を仙台と記憶違いしていたようで、その宇都宮にも今はいないよと答えると安心していました。) ああ、また緊急地震速報で携帯が鳴っています・・・・。

2011年3月9日
 「対策は早め、早めに仕事をスタートすること」

 何の対策だと思いますか?
 この時期の憂鬱・・・・・と言えば、花粉症。2年前より、きっちり罹患者としての自覚を持ち、かつ耳鼻科、眼科にそれぞれ違うことを言われ、すっかりお医者さんとは縁遠くなってしまった2年前。今年は半端なく飛ぶという予報なので、対策を立てました。
 それは確定申告と助成金の実績報告の仕事を早めにスタートすることでした。花粉の飛ぶ前に一番集中を要する所をやっつけておこうと頑張りました。お陰様で花粉シーズンには、確定申告の場合、決算書から記入するだけにして提出を待ったり、助成金なら、エクセルで数字を入れる前の状態を準備して仕上げました。この書類仕事の流れはうまくいきました。
 ところが、今年はもう一つ大きな仕事が待っていました。それは娘の引っ越しです。住まい探しから契約、家財、家電の手配・・・・と2月末から3月のほとんどの日曜日と火曜日が潰れることになりました。だから目をこすりながら出かけては娘の自立生活の手助けをしていたことになります。
 子どもの自立生活スタートは息子の場合、大学と公務員生活の2回経験しました。何でも一人でさっさと段取りをつける息子と違って、何事にもおっとり構えている娘は段取りが苦手。ガスの開栓を頼む時にはガスコンロを用意すること、家具を運ぶ前にカーペットや照明を用意すること、2月末までに家電を購入する方がお得と人に言われ、ヨドバシに参上・・・。引っ越しには段取りがよく登場します。まして資金の乏しい引っ越しはほとんどを友人のお古をもらい受けるので、友人の予定にも合わせます。最後にお父さんにハイエースの出動をお願いしています。

 4月からはすっきりするだろうな・・・・と思いつつ、一つ一つ段取りに付き合っています。

2011年2月24日
  「続くパンづくり」
 ずいぶん春めいて参りました。書類仕事の間に目を楽しませてくれたメジロも、今は忙しそうに飛びまわっています。あと少しすると、虫が目覚めます。そうすると、我が家の干し柿の残飯には見向きもしなくなることでしょう。

 さて、今だ続いているのが娘のパンづくり。バレンタインに頂いた塾生手作りの抹茶ケーキを娘も食べて、それがずいぶん美味しかったらしく、レシピをもらいました。さっそく試作すること2回。どうもいただいた様にうまくいかないと言っています。
 パンはずっとロールものを試作し続けています。大学やバイトから変えるとさっそくスタートして、深夜1時過ぎごろまでやっています。夕食のおかずの支度などは「めんどくさい・・・」と敬遠するのに、パンづくりとなると違うみたいです。4月からはいやというほどパンと付き合うと思うのですが、毎晩飽きずに焼いています。

 新生活の準備をぼちぼち始めています。住まいの契約も3月の初めに行います。娘がどうしても欲しいのがオーブン。一番はガスなのですが、予算の関係で電気で辛抱するかもしれません。そのために私の介助事務所の研修室の電気オーブンを借りる約束を取り付け、ガスと電気のパン作りの違いを探るようです。一言で言って「凝り性」。息子もそうだったけど、我が家の子どもはなんでも、凝りました。子どもが何かに集中している時、それがテレビでもマンガでも邪魔するのに、すごく抵抗を感じた親たちでした。カードしかり、ガンダムしかり。魅了され、凝り尽くしたら、ほとんどの場合、卒業が待っています。ある日突然、卒業するさまに何度も驚かされました。大人になると卒業なしにずっと付き合うものもあるようですが、そこまでいくと親の出る幕じゃありませんし・・・。「凝り性」は親が作った姿勢か、本人の資質が、あるいは両方か・・・。

 昨日は都立の入試の日。もう35年近くやっていても、受験時期はナーバスです。時に今年は都立も倍率が充分あり、安心できないケースが多いのです。梅の香りと共に朗報が届くことを願っているフクセンです。
一度に焼くのはこんな量。 抹茶ケーキに挑戦 焼きたては美味しいに決まっている

2011年2月12日
 「ムクキヒヨハイ」
 この言葉をご記憶の方はスゴイ!
 以前のコラムでフクセンが語呂合わせで記憶するというくだりです。「ヒンギュウイスブタ」は何でしたか?答は以前の記録(2009年12月9日)をご参照下さい。

 さて、東京にも雪が降りました。積もる前に融けてしまい、道路にも積雪がありません。助かりました。雪かきがつらいなと思っていたところでしたので。

 最近、我が家の柿の木に野鳥がよくやって来ます。柿はへただけを残して食べ尽くされたのですが、へたに残った干し柿みたな部分をつつきにやって来るのです。
わかりますか?ひよどりです。むくどりは嘴が黄色くて、ひよどりは灰色の身体ですから。ハトよりちょっと小さい感じです。
 雪が融けて柿の枝に水滴となっています。
                              今の時期エサがないので、みかんを枝に刺してみました。
 いま、太ったむくどりとひよどりがみかんにやってきました。画像・・・・・?デジカメをパソコンに繋いでいるので身動きとれませ〜ん。あれれれ、可愛いめじろもやってきました。ちょっと中断・・・・・。
 

 デジカメをパソコンからはずして構えたら、飛び立ってしまいました。残念。
 しばらく、待っていたら、またひよどり。次がめじろ・・・。
 う〜ん・・・・。交代でやってきますが、私が動くと飛び立ちます。
今度は成功!パソコン前で動かずにカメラを構えて、静かに撮りました。めじろのアベックです。
めじろはキレイですね。緑の色が深くて明るくて、とてもおしゃれです。ベストドレッサーです。この画像は黒く写ってます。最大のズームなので仕方ありません・・・・。

 また雪が降り出しました。やることは一杯あるのですが、野鳥の世界に釘付けです。

2011年2月7日
 「春合宿の下見 再び」
 オリエンテーリング担当のホリクンが下見をしていないので、フクセンと相談してキープにいくことにしました。そういっても、下見の後はお楽しみが目白押し。日曜日に開店している中村農場の親子丼を食べ、甲府昭和で降りてフカワサ温泉にも浸かるのも目的の一つでした。のりとファミリーを加えて、2台連ねて、八ヶ岳にご挨拶してきました。

  朝、食事も後回しで、短く更新しています。ご覧下さい。
キープの広場にはこんなおしゃれな飾りが・・・・。1200メートル級は氷が融けないようです。 のりとジュニアと遊ぶホリクン。雪は例年よりずっと少ないそうです。 中村農場の照り焼き丼。もも肉のボリュームがスゴイ。今回も焼き鳥全種をオーダー。 夜メニューが昼の時間帯でも楽しめることになったラーメン。フクセンがさっそく。 ここからは帰りによった蕎麦屋「むらやま」(瑞穂町)。のりとくん激、ご推奨の店。画像はそばがき善哉。 蕎麦をあてに日本酒を飲む。これぞ最高の時間。菊姫の濃厚さに脱帽。「むらやま」気に入りました。

2011年2月3日
 「風が吹けば桶屋が儲かる」

 大昔、大学のころ刑法の講義で聞いたことわざです。確か条件説とか何とか・・・・・、99%忘れましたが、今日、そのことわざを思い起こさせる場面に出会いました。話は長くなります。

 我が娘はこの前の日曜日、4月からの就職先のパン講習会に参加する予定で、朝早く出かけていきました。一般の方々向けの講習会ですが、上司から「いいチャンスだから、あなたもお店のパンを焼いてみたら・・・お手伝いだから、参加費はいいから。」と誘ってもらったのです。4月から勤務についても、まだまだ厨房に入れてもらえるのは先のことのようなので、娘は楽しみにしていました。
 8時ごろに出かけていったはずの、娘がハアハアいって家に帰ってきました。「もう、西武線、止まっている・・・・。今度は中央線から行こうとしたけど、いくら待っても、線路ぜんぜん空かな〜い。ピンチ!」と困っています。我が家はその時ちょうど、車が修理に出ていて、お父さんの助っ人もききません。父は自転車で大泉学園(西武池袋線)周りを勧めます。「線路を渡らないで北に出れば、行けるよ。」でも、自転車の置き場がありません。自転車置き場のことで逡巡する娘に私は「とにかく上司に電話して、事情を話せば・・・・」とアドバイスしました。そして、3分後、娘は晴れやかな顔をしてリビングに現れ、「無理して今日参加しないで、同じことが木曜日にあるから、それに参加したら・・・」と言ってくれたようです。
 娘はにっちもさっちも行かない状況を脱出できたので、安心はしましたが、テーブルロールとバターロールを作る気持ちが強かったので、その夜から4夜続けて家でパンを焼き続けました。日曜、月曜、水曜はテーブルロールとバターロールを。火曜はハチミツバターというフィキシングを自作していました。どれもおいしい出来でしたが、娘はまだまだ・・・・・と納得していませんでした。
 フクシマは夜帰宅して、カレイのムニエルに出来たてのテーブルロールが食べられて、満足の昨夜でした。

 そんなこんなで我が家の朝の食卓には前夜、娘が焼いたロールパンがどんどん並びました。お弁当にして事務所に持参した日もありました。こんなにパンを焼いたのは、もちろん日曜日の西武線の事故でパン講習会に参加できなかったからでしょう。

 そして、今日、ロウバイをいただきに、久しぶりに我がハイエースに乗って自宅から一番近い踏切を通りかかりました。係の方が大きな看板を立てていました。1月30日午前8時28分に発生した事故を目撃した人を探しているという看板です。「ああっ、あの事故。確かバイクの方がなくなったってね。」とフクシマに言うと、「へえっ、そんな時間に目撃者がいないのかな・・・。」と。
 その時、思い出したのが「風が吹けば桶屋が儲かる・・・・」ということわぜです。お節介に説明します。
  1. 大風で土ほこりが立つ
  2. 土ぼこりが目に入って、盲人が増える
  3. 盲人は三味線を買う(当時の盲人が就ける職に由来)
  4. 三味線に使う猫皮が必要になり、ネコが殺される
  5. ネコが減ればネズミが増える
  6. ネズミは桶を囓る
  7. 桶の需要が増え桶屋が儲かる
このことわざは、ある事が発生すると一見全く関係の無いような思わぬところに影響が出ることの例なのです。今回の場合は・・・。

 1.西武新宿線で人身事故が発生する。
 2.自宅に一番近い踏切だったので、南の中央線にも行けなくなる。
 3.仕方なく、パン講習会に参加をあきらめる。
 4.どうしてもテーブルロールが焼きたくなる。
 5.うまく焼けないので何度も焼く。
 6.フクシマが夜、焼きたてのパンを楽しめる。
          さしずめ・・・・・・西武線が止まればフクシマ喜ぶ・・・・
 
 そしてロウバイの植え替え・・・・。
 いや〜、大変でした。隣の樹木と根を共有していて、掘っても掘っても独立出来なかったです。仕方なく、一部の根を切ったので、我が家で根付くかどうか・・・・。フクシマも私も身体がギシギシいってきました。格闘2時間弱でしたが、本当にいい運動をしました。ヘロヘロになったフクシマはお昼過ぎ、塾に行きました。でも、思い出のロウバイをいただいたので大切に世話をしたいと思います。 
どんどん焼き続けるロールパン 極上のハチミツを使ったフィキシング 絶版の本をアマゾンで購入しレシピ得る パン専用のナイフも最近購入 根付いてくれることを祈って待つ ズームするとこう

2011年1月30日
 「寒いですね」
 
 我が家(2階)から見た狭い庭です。左側が駐車場です。手前に丸い穴があるのにお気づきでしょうか?
 塾生のおばあちゃんが道路の事情で立ち退くことになり、その庭にロウバイがあるという話を聞きました。道路がつくのでロウバイはそのまま建物と運命を共にするというので、ダメもとでいただくことにしました。いろいろ調べるとロウバイの植え替えは大変難しいようです。それでも、挑戦してみようと、今日は我が家のスペースを整理しました。この隅は庭木が一本あったのですが、昨年の大風に倒れてしまいました。隣地(他の家)に行っていた一部を切ったのが影響したようです。フクシマはその場所へ水晶や化石などの不用なものを投げていたようです。

 今朝はお向かいさんからショベル(スコップ?)を借りて、穴を掘ってみました。そして周りのひこばえ(倒れた木)の整理をしたり、いろいろ植え替えの準備をしました。おかげで少々、筋肉痛になりそうな予感。

 来年の1月になって、我が家にいい香りが漂うことをイメージしております。

 期間限定の掲示板を閉じさせて頂きます。このコラムはゆっくりですが書かせて頂きますので、みなさま、お暇な折りにはお立ち寄り下さい。せっかく、掲示板にお立ち寄り頂いた方の文章が消えるのが切ないので、保存ファイルを作り、最新版の上部にリンクを張りました。ここからも行けます。

2011年1月22日
 「誕生の記憶」

 介護事務所の若いパパが赤ちゃんの夜泣きの相談をしています。「どの親も通る道・・・・」と片づけるには厳しい夜泣きです。まわりの経験者は自分の数少ない経験を話しますが、当人の決定的な解決策には結びつかないようです。そうやって親は親らしく、そして赤ちゃんは幼児に成長していくのでしょうか。

 さて、私には奇妙な記憶があります。どうもこの世に誕生した瞬間の記憶みたいなのです。これをいうとフクシマには「そんなバカをいうのは君と三島由紀夫くらいだ。」と一笑に付されます。

 私は物心ついて寝入りっぱなにワッと起きてしまうことがよくありました。その時はこんな感じです。夢見ごこちでとろとろしていて、いきなり眩しい世界に出てき、世界が私を中心にグルグル回っているのにワッと驚いているのです。一度も経験はありませんが、コンクリートミキサー車の中に入っている感じです。ワッと驚いて起きるたびに、また同じ夢を見たと思っていましたが、夢ではなく、「驚きの記憶」なのです。コンクリートミキサー車と表現したのは他にいい言葉がないからです。
 「驚きの記憶」の大部分は「ワッ、えらい所に出てきた!」という気持ちです。その気持ちでいつも起きてしまい、もう一度寝直すのが私が就学するまで、ほとんど毎晩の出来事でした。
 就学してからは1〜2年はたまにその「驚きの記憶」に襲われましたが、3年生くらいになると、ほぼなくなりました。いつしか、その寝入りっぱなの現象のことも忘れて生活していました。
 そのことを思い出したのはたぶん子どもを授かってからかと思います。眠いのにぐずって泣き続ける我が子、寝付いたと思ったら、ギャッと言って泣き始める我が子・・・。ある時ふっと、「この子も寝入りっぱなにあの感じで起こされているのかな?」と思いついたのです。
 それを当時「誕生を記憶する子どもたち」という本を読んでいたフクシマに話したように覚えています。「わたしも記憶があるよ。でも情景というより気持ちだけだけど・・・。」と話すと前出のように「君と三島由紀夫だけだよ」と言われたのです。

 みなさん、いかがです?私と同じような記憶ありませんか?

2011年1月15日
 「春の色?」
 これって何かわかりますか?
 
 赤かぶです。先日那須の農産物で買ってきました。以前、若い友人からいただいた赤かぶの甘酢漬けが大変おいしかったので、思わず買ってしまったのです。帰ってきてすぐメールしてレシピを尋ねました。レシピは完璧で本日、甘酢漬けを作りました。
 ワインをたくさん使うのが彼女の特徴。画像を紹介。
 人にきいて初めて作ったものを紹介するのも、気が引けますが、色があまりにキレイなので・・・・。
赤かぶをカット 塩をして水気を出す 水袋を重しにする 赤かぶの皮、昆布、砂糖、ワインを加熱 最後に酢を入れて、重しをして水気を切った赤かぶと漬ける 冷蔵庫で漬かるのを待つ

2011年1月10日
  「子育ての単位・・・山荘は2ファミリーで」
 娘が「就職したら、休みが自由に取れないので、今のうちに家族で山荘に行きたい」と言い出したので、西尾家を誘ってみました。残念なことに西尾家のHちゃん(娘と同い年)は仕事で参加ができず、総勢7名で2泊の山荘を楽しむことになりました。

 娘も息子も思春期ごろから親と出かけるのを敬遠するようになり、もっぱら留守番をして過ごしていました。これは西尾家も同じで本当に10年ぶりに2家族がそろいました。
 1993年から、山荘建設と子育てが重なって、運営は大変なエネルギーが必要でした。若かったんでしょうね。幼児を連れて4泊60名規模の行事をこなしていました。夏はスズメバチ、冬は豪雪・・・、と危機管理能力を問われる局面でも西尾家と力を合わせて乗り越えていました。もちろん、のりとくんや卒業生たちの若い存在も大きな力になりました。

 行事の準備やメンテナンスなどで2ファミリーで山荘に滞在することが多かったです。当時から、山荘の夜はテレビがありません。子どもたちは男の子は将棋やカード、女の子はセーラームーンごっこ。昼間はスキーウエアにスキーブーツで外で雪遊び。ちょうど年齢的なバランスもよく、仲良く遊んでいました。こうやって保育園時代から小学校卒業までは兄弟姉妹のように成長しました。親たちは子ども当番、食事当番と分かれながら、1人の時間も持つことができます。山荘は2ファミリー以上いた方が便利だったのです。

 今回も息子たちは将棋。娘はゆっくり観戦。窓の外は雪が降っていても暖炉のそばは温かいです。成人した息子たちの会話に登場してきたのが、競馬談義。ビギナーズラックで馬券を当ててソファを購入した我が息子は競馬研究が趣味になったようです。環境なのか、DNAなのか・・・。西尾家の息子も競馬が好きのようです。(彼は将棋は千駄ヶ谷に通った強者です。今では誰もかないません。)

 昼間は湯沢の「山の湯」に行く親たちを送り出し、若者3人はカマクラ作りとソリ遊び。ゲレンデにいくことなく、昔のように遊びます。快晴の積雪は銀色に輝き、その日差しの中で雪遊びするのは最高だったようです。

 ヤマシタは食当を務めました。朝、ベーグルとハム野菜、フクシマのコーヒーなど。昼、スジ入りお好み焼き。夜、餃子、カリカリチキンきのこソースかけ、野菜各種。翌朝、焼き鮭、ハッシュドポテト、簡単マリネ、具たくさん味噌汁。

 山荘だと料理もレジャーです。  
朝はベーグルで 前の道路でソリ K子おばさんも参戦 3人作のカマクラ 手のマッサージ 暖炉が一番

2010年1月4日
  「正月はソウルフードで・・・。かつめし編」
 
 今年もよろしくお願いします。このコラムもしばらく続けていこうかと思っています。掲示板は1月中は開けておきますので、どなたでも、お気兼ねなく書き込んで下さい。

 フクシマの北見の友人が仲間に牛肉を送ってくれました。3日の夕方、ウチにも2.7キロほどやって来ました。もちろんそのまま焼いて食べるのが一番でしょうが、懐かしい味に挑戦しようと思い立ち、今朝から作業が始まりました。

 懐かしい味とは「かつめし」。故郷のソウルフードです。全国的には「かつめし」は加古川名物として認知されているようですが、高砂出身のヤマシタとしては「かつめし」は高砂が元祖です。それも「一平」という寿司屋の「かつめし」が代表です。

 朝から、源泉税納付のためにいろいろ計算し、納付書を作成し、納税に出かけたついでに、キャベツやパン粉を買ってきました。一番悩んだのが「ソース」。ケチャップ、ウスターソース、デミグラソース、砂糖・・・・どんどん味が分からなくなりました。我が家愛用の「薬膳ソース」を参考のためになめたのが、いけなかった・・・・。完全に味が分からなくなって、迷ってしまいました。関西では「かつめしのタレ」が販売されているそうですね。

 かつにするのは「牛肉」。このへんが故郷の味。私の亡くなった父は「肉」といえば、「牛肉」を指していました。豚肉、鶏肉は「ぶた」、「かしわ」と別に呼んでいたのです。我が故郷はおいしい牛肉が食べられる地でした。わざわざ豚肉や鶏肉を食べる必要がないくらい、安価に上等の牛肉が口に入りました。だから「かつめし」の肉も牛。必ず、ゆがいたキャベツが添えられ、ご飯の上にかつ、その上から甘酸っぱいソースが絶妙のバランスでかけられる・・・・・・。なぜだか、ご飯、かつ、キャベツがワンプレート。出前でも店でもテイクアウトでも食べました。今日は朝から、「一平のかつめし」の味を目指したのです。

 下に過程をご紹介。夕方に冬期講習中の塾に差し入れに行き、今帰ってきたところです。フクセン、のりとくんは高砂の「一平」も経験ずみ。ちょっと多めに差し入れたので、大学生も口に入っているはずです。

 たった今、「美味しかったよ。」とフクセンから電話が入りました。
 
どえらい量がやって来ました。 端っこの部分をたたいて伸ばします。 油であげます。 ソース作りは迷いに迷いました。 ちょっと味見。ご飯とキャベツにもソースをたっぷりかける。 できたての「かつめし」。このあと塾へ。

このコラムは2001年1月から続いています。過去の保存版を読みたい方はきのこをクリックして下さい。
    01/01/24〜01/09/15
    01/09/27〜01/12/27
    02/01/12〜02/07/16
    02/07/24〜03/03/06
    03/04/11〜04/03/19
    04/04/08〜04/12/16
    05/01/04〜06/03/30
    06/04/21〜07/11/26
    08/01.05〜08/12/29
    09/01/08〜09/12/27
    10/01/02〜10/12/28