山下由美子の山森(やまもり)ばなし




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2002年7月16日 火曜日
 たくさんの企画の下見がきのうを最後にやっと終了しました。
 土日に、森のプレイパークの準備のために山荘に行って、三国峠が通行止めになっているのに驚きました。台風6号の大雨のために道路がごっそり落っこちているそうです。ただの土砂くずれだと、道路上の土砂をどかせれば、通行できますが、道路がなくなっている状態なので、復旧まで2〜3ヶ月はかかるんじゃないかという管理人さんの話でした。
 そんなに長期に通行止めになるなんて、山荘に行くようになって初めての事態です。だから、森のプレイパークの川遊びの場所を探さないといけません。湯沢の魚野川を見てきました。私達の川遊びの理想は小さな魚とたくさんのトンポが飛び交う自然の野川なのです。通行止めで行きにくくなった赤谷川はその条件にピッタリだったのですが・・・。しかたありませんね。自然のことなので。

 また、昨日は磯の生物の2度目の下見に行ってきました。なんとか移動時間を短縮したくて、いろいろ挑戦してみたのですが、思ったほどショートカットはできませんでした。
 台風前の磯は干潮時でも波はやってきます。福島と二人3時間ほど、磯にいました。面白くて面白くて・・・。
 「もう、3時だね。帰らないと。」といいあって、楽しい磯を後にしました。
 
 塾へ今回も磯の生き物を持っていきます。塾生に捕ってきたら、あげると約束したからです。このコラムを読んで海の生き物を飼ってみたい人は16日から18日にいれものを持って来て下さい。
 水槽に石・海藻・カニ・ヤドカリ・貝殻などをいれると、もうそこは立派な水族館です。ヤドカリの成長用に100個近い巻き貝の殻もとってきました。

2002年7月10日 水曜日
 いま塾は生き物で溢れています。
 イベントの数だけ生き物が増えていく感じです。
 カナヘビ・・・・・・「恐竜体験」。アマガエル・オイカワ・ザリガニ・・・・・・・「田んぼの学校」。クワガタ・・・・これは渡辺の友人から。そして、また増えようとしているものがあります。
 それは海水の生き物です。
 先日三浦半島に行って来ました。前々から計画していた「磯の生物観察」の下見です。福島が2年前観察会に参加した磯が、まだ健在で、たくさんの生き物と一緒に私達を待っていてくれました。
 場所の名前はここではあえてふせましょう。とても良いところでおいしいアサリも無料で採れる「穴場」的スポットだからです。車に生き物移動用のポリタンや携帯ポンプなどを積んで、用意万端で出かけました。いま我が家の海水の水槽にはカニ・イソギンチャク・ヤドカリ・ハゼの種類が3種・地元でニンギョとよばれる黄色の魚・真っ青な二枚貝などが元気に居ます。残念ながらカサゴとヒトデは昨日の高温で死んでしまいました。
 私は生き物と一緒に貝殻をバケツ2杯分くらい持ち帰り、3種類のザルでふるいにかけ、大きさを分けました。分けながらヤドカリの成長用に巻き貝を探したのですが、以外になくて娘に「カタツムリの殻でも拾ってきてよ。ノリトくんがヤドカリの貝を探すのが大変だっていってたよ。」と言うと、娘は「わあ、面白い。カタツムリのヤドカリ見てみたい!」と乗り気です。

 子どもがまだ、小さいとき電車で舞鶴の海岸によく行きました。ひょんなことから知った磯で色とりどりの貝殻を拾って標本にしました。磯はその時以来です。
 「田んぼの学校」の小川も生き物がたくさんいますが、海はその比ではありません。ホンの一カ所の潮のたまりがひとつの世界です。カニやハゼはだれでも捕れます。その種類の多いこと・・・。

 この磯の企画は9月29日あたりに予定しています。海水温が高い、生物が一番多い時期を考えました。あまり、塾で海水の生き物を見せてしまうと、他の企画がかすみそうで危険です。

 あ〜あ、これから2ヶ月くらい台風の襲来ばかり心配して暮らすのでしょうね。今は四国沖の台風6号がコッチをむいてやってくる途中です。

2002年7月2日 火曜日
 今日から、夏の企画の申し込み受付です。NPO遊学会が主催になってから、参加費がスリムになり、その上バラエティーに富んだ活動内容となりました。どれくらいの参加があるのか楽しみです。たくさんの塾外の子どもたちとの出会いになればと思います。
 
 さて、昨日はまだまだ下見や準備が完了してなくて、冨岡と苗場に行ってきました。
 その帰りに寄った「湯宿」の共同浴場が最高だったので、ここで報告します。
 場所は「匠の里」へ向かう交差点「湯宿」付近です。17号の喧噪がウソみたいに村人専用の石畳の道があるのです。その道のアチコチに共同浴場があり、自由に入れます。料金は100円程度の志納です。でも、そのお湯が四万温泉ばりに強烈なのです。攻撃なお湯という表現がピッタリです。温度が高いだけではない、何か・・・があります。沸かし循環では再現できない「天然・溢れかえり温泉」の元祖のような感じでした。
 苗場へ通過地点と思いがちですが、こんな所にお宝がありました。チャンスがあれば、是非一度のぞいてみてください。
 お湯でほかほか、満足して帰路に着くところが、大きなトレーラーの横転事故の直後に遭遇し、肝をひやす場面もありましたが、無事帰ってきました。
 月曜日、動ける身軽さを生かして、体験活動の準備をやっています。もし、月曜休みにしていなかったら・・・と思うとぞっとします。

2002年6月25日 火曜日
 田植え体験してきました。
 冨岡の農家は暖かく私達を迎えてくれました。
 予定のたんぼには水がはられ、やわらかい土がスタンバッていました。赤印のついた細いロープをたよりに横一列の参加者が3本ずつ、苗を植えていきます。指導にあたってくれた清水さんは「はい、声だして、そこ勝手に植えちゃダメ!はい、苗が浮いてるよ。しっかり植えて。」などど、声を張り上げて、子どもたちに教えます。
 子どもたちは靴下のまま、田んぼに入って、泥の中に埋まった足が抜けなくて、キャーキャー声をあげています。子どもたちに混じってスタッフや大人も植えました。さすがに2度の嶋田くんの田植えは上手でした。
 中腰スタイルに腰痛が悪化した中学生以外は、みんな目標のラインまで頑張りました。
 清水さんは「この田んぼには山から引いてきた一番きれいな水をいれるんだ。ほらそこの水路からな。だから、きれいな水で育った米は美味いんだ。たくさんここに生き物がやってくるよ。ほら、ツバメもカエルをネラってやってきたよ。田んぼがあるから、たくさんの生き物が生きているんだよ。」と子どもたちに説明してくれます。
 田植えのあとは、その水路で足や手を洗って、水遊びのようになってしまいました。何をしても初めてで、何をしても楽しめる感じでした。田んぼの周りは時間の流れが違っていました。水路を見ているとあきません。

 お弁当のあとは、付近の山や川で遊びました。ならの林をネラって昆虫を探したグループは、「まだ樹液が出てない」と、引き上げてきました。
 また、近所に広い原っぱがあり、その脇に川が流れています。網を手にあちこちで魚をねらう子どもたちは地元の子どもたちのやり方を見ながら、魚を捕っていました。
 捕ったものはフナ、オイカワ、なまず、ドジョウ、やご、カエル、ザリガニ、タニシ、カナヘビ、バッタ・・・などです。魚は熱帯魚屋さんで分けてもらったビニールの袋に固体の酸素と一緒にいれ、輪ゴムをかけて持ち帰りました。地元の子どもとも仲良くなって、ずいぶん魚をもらいました。彼らは「ブクブクの装置なんか使わないよ。このまま飼うよ。」と言います。大きなナマズをとって、おばあちゃんにあげたという子もいます。地元の子の魚の捕り方は理にかなっています。原っぱの脇の川は本流に注ぐ前のそんなにきれいな川ではありません。一部は沼のようになっています。そこで、大きな石をどけて、その空いた空間にサッと網を差し込むのです。底の泥や小石に混じって必ず、何か生き物が入っているのです。
 私たちの中にもそのやり方をすぐ修得できた子もいて、つぎつぎとナマズを捕っていました。

 田植えをした時間より、河原や原っぱにいた時間の方が子どもには印象に残ったかもしれません。サッカーのまねごともしました。曇り空ではありましたが、里山の自然を充分、満喫した一日でした。

2002年6月18日 火曜日
 また、里山話です。
 来週の米作りの農家へ再度下見をしてきました。農家の人が外出から帰ってくるまで、田んぼの下の川で時間を過ごしていました。
 川は水が少なくて、汚れが目立ちます。どっと多量の水が流れたら、一掃されるだろうと思われる緑の藻が浮いています。その合間から、小さな魚の影が見え隠れします。そんな時のアメンボの邪魔なこと・・・。
 大きな魚ほど、動きが速く、私の動きでは手に負えません。結局、メダカではなく何かの稚魚と思われる魚を30匹ほど捕ったころ、農家の方がかえって見えました。ふくしまはカジカに何度か挑戦していましたが、足が冷えて休憩するといって、あきらめました。「年取ったよ。子どもの頃は足なんか冷えなかったよ。」とつぶやきながら・・・。
 今度は農家の人の案内で彼の持ち山を拝見がてら、山あいの田んぼの様子を見に行きました。水が少なくてまだ、田植えの進まない上部の田んぼの水路横に赤い生き物がしきりに動きます。車は魚の入ったポリタンやカエルなどで一杯なのですが、もう一度バケツと網を取り出して、沼を探りました。
 ココは生き物の宝庫でした。魚と碧や赤のザリガニが入れ食い状態でした。ものの2分でまた持ち帰り生物が増えてしまいました。ふくしまは今度はフットワークよく、魚やザリガニをあげていました。

 今日は雨です。雨音を聞きながら、ホームページを更新しています。
 都会の生活で雨音は「あ〜あ洗濯物がね。足元が悪いな。」という感想を誘う音です。でも、きのうの山あいの田んぼや水量の少ない川を見た後は雨音も違って聞こえます。
 「どんどん降って、潤ってほしいな。」という感じです。

 もう一つ特筆すべきこと。
 「苗代で育てた早苗のきれいなこと・・・。」この色をみるだけでも、田植え体験はもうけものです。

2002年6月11日 火曜日
 「恐竜体験・化石発掘」は無事終わりました。
 6月9日はお天気にも恵まれました。ただ、風が強かったので、高速走行は注意が必要でした。
 群馬県中里村は関越の本庄児玉を下りてからが、長い道のりです。途中休憩をとりながら、鬼石・万場と村村を越えて、10時過ぎに中里村恐竜センターに到着しました。
 恐竜の骨の展示場ではその大きさや完全さに子どもたちは圧倒され、化石のクリーニングの現場では「あれ!テレビで見たことある!」などど興味深々でした。きっと、「俺もこんなのをこれから、見つけるぞ!」と内心思っていたことでしょう。
 お弁当を早めにセンター横の河原で食べました。
 ココの河原はひとつのイベントとしてもう一度やって来たいくらい生き物や石が素晴らしいです。ナナフシをみつけ、カナヘビを見つけ、おにぎりを食べる間も目があちこちにいきます。遠くまで来た甲斐があります。遠くにあるからこの素晴らしい場所が保たれているのでしょう。
 その時、子どもの「ギャー」という声。みんな何事かと見ますと、小3の男の子が石ころの間のアリを見て、「ギャー・・・」といっているのです。
 ふくせんが「山のアリだよ。大きいけど、つかまえなきゃ噛まないよ。怖くないよ。」といいますが、その子はアリを目のカタキにして、石でつぶそうとします。隣にいる子は平気です。でもその石でつぶす行為を面白そうに見ています。アリのいやな子はずっとアリを退治しようとお弁当も食べずにやっています。最後に、今まで以上の大声で「ギャー、ギャー」とわめき始めました。
 とうとう近くにいた私が切れて、「うるさいよ。一緒にお弁当食べれないよ」といいました。もう彼はパニック状態になっていて何も聞こえません。泣き出す寸前のようです。私もこれは普通じゃないなと感じて「虫のことで泣かない。」「ココじゃなく、向こうへいきなよ。場所を変えてみなよ。日陰にいる虫と日向にいる虫は違うかも知れないよ」という内容のことをいって、ふくせんも移動に協力して、その場は収まりました。その後日向でお弁当を食べていたときは、平気でした。
 たしかに今の時期は木の下にいると毛虫が落ちてきます。木を選ばないといけません。手虫によって触ると痛くなるものもあるので注意が必要です。でもアリは別に悪さをしない限り、とっとといってくれます。それに山のアリはキレイです。黒さといい赤さといい、ホントにキレイです。ずっと見ていたいくらいです。どうして山アリを怖がるのか、参加者の殆どが不思議に思いました。
 河原でお弁当を食べ終えてから、化石発掘の現場に行くまでの間、しばらく遊びの時間をとりました。たぶん小学生の発掘の集中時間は2時間が限度と考え、ここで調整しました。
 
 化石発掘は1時前にスタートし、きっちり3時で終了しました。鑑定は学芸員の佐藤さんが丁寧にやって下さり、ラベルに記入し、専用容器(ガチャポンのケース)に収納しました。昨年アケボノゾウの足跡化石でお世話になった福嶋徹さんも参加して下さり、一緒に発掘してくれました。残念ながら、下見の時のような新聞記事になる発見はありませんでした。
 そして殆どの子がたくさんの化石を手に入れて、重たいリュックと共に帰路に着きました。

 化石発掘そのものは楽しく終わりましたが、あの山アリにパニックになった子のことが印象に残って、ふくせんと帰り道の話題になりました。彼は「だんだん慣れるよ。だっていやがらずに野外活動に参加するじゃないか。今に慣れるよ。でも今の彼の生活だけじゃ、きっとああなるんだろうな。昔じゃ考えられないけどね。」
 商店街近くのマンションで育ち、学校は行き帰りはバス。家に帰ると外遊びは殆どなく、家で遊ぶことが多い生活。友達と連れだって虫を捕って遊ぶことは一度もないようです。もちろんお父さんとも。だって、田無で虫取りをするなんてよほどの通です。今もポイントはありますが、ホントに好きな子だけが知っている場所です。

 考えると私達がバスをしたてて子どもたちをいろんな場所に連れて行くのは「自分の子ども時代の体験」を子ども達に提供しているのだなと思います。昔、当たり前にあった子どもの時間。当たり前にカブトをとり、メダカをすくい、日が暮れるまで遊んだ時代。
 私達(山下と福島)は同じくらい濃い子ども体験を持っています。30才台には、自分の子どもの成長時代に第2子ども時代をまた過ごし、そして今、NPO遊学会やDIGのフィールドでたくさんの子どもたちと第3の子ども時代をすごしている最中のようです。

 日本中がWCに湧いていた日曜日の夜、こんなことを考えながら、過ごしていました。

2002年6月4日 火曜日
 6月に入りました。まだ、爽やかな気候で、我が家のアジサイもうなだれています。

 今日はサッカーの日本戦が夕方からあります。塾の男性メンバーは超サッカーファンで、その話題で持ちきりです。私は野球やサッカーを見て一喜一憂する習慣がないので、家庭でも塾でも、すごく冷めて現状を眺めています。

 先週、ある農家へお邪魔しました。
 群馬県は冨岡在住の5年来の私の「きのこの先生」のお宅です。前々から「子どもたちに米作り体験を」という福島の希望を今回、かなえてくださる運びになり、早朝からお邪魔しました。このイベントはNPO遊学会主催で実現にこぎ着け、今日から案内を配布する予定です。
 冨岡は近代工場のスタートの地でもあり、有名な自然史博物館もあり、非常に魅力的な場所です。そのうえインターからも近く、アクセスも良好です。「きのこの先生」も快く協力を約束してくださり、「田植え」「草取り」「収穫」を子どもたちに体験させてくれる段取りをしてきました。

 帰りに畑のこかぶやレッドオニオンを抜いて、お土産にしていただきました。車の中でタマネギの香りがプンプンして「なにに料理しようか、・・・」考えながら帰ってきました。

 また、昨日月曜日は思い立って、伊勢崎・大間々経由で渡瀬渓谷鉄道沿いの道を走り、赤城山の東側を回って、沼田方面に車を走らせました。初めての土地はワクワク、ドキドキ、休日気分でドライブしていました。北関東自動車道の伊勢崎付近は収穫前の充実した麦畑の黄色がずっと広がっていました。思わず、「星の王子様」を思い出していました。
 渡瀬渓谷鉄道沿いの道は高度が高く、渓谷を楽しむには、鉄道に乗らないとダメだと分かったので、早々に沼田に抜けたのでした。
 赤城山のすそ野の広さを実感した一日で、各所の農産物コーナーをのぞいて土地の作物や土地柄を感じて回りました。「道の駅」もいろいろな雰囲気のところがあり、整備されているところあり、あまり人が利用しないのか、寂れている所ありで、様々です。
 群馬の赤城のふもとはレタス・キャベツ・コンニャクなどの畑作が盛んです。沼田から昭和までは農道を走って、広々した畑作地帯を堪能しました。
 今、旬のものはたまねぎです。やわらかくて、ソフトな味のタマネギはいま我が家でたくさんスライスされてマリネの中心になっています。

 今日は山森ではなく、里山話でした。
 
 福島が言っています。「きょうは体調を崩す子どもが続出するだろうな・・・。」

2002年5月28日 火曜日
 今日はNPOのお話。
 NPOとは特定非営利活動法人のことです。簡単にいうと営利を目的とせず、ある特定の活動を行う集団のことです。「遊学会」という丹誠塾の内部の任意団体であった会も、昨年1月より、この特定非営利活動法人としての資格を取得し、塾内の人だけでなく、広く地域で活動を広げようとしています。活動の中心は「子育て支援と子どもの自然体験活動や仲間づくりの支援」です。
 もともと、丹誠塾そのものが「こどもと面白いことをしよう」というところから始まったもので、それが算数や英語や国語だったりしたら、授業で面白いことを共有することになるし、それが野外活動だったら、いろいろな体験を通して面白いことを共有することになります。一番の目的は「この面白いことの共有」なのですが、塾を生業としている身としては、ここに授業料という対価が発生します。それによって、授業研究や条件整備に専従して目的達成に邁進するわけです。昼間仕事を持って、余暇で子どもとつき合ってるわけではありません。堅苦しく言うとこういうことです。私達は授業研究や条件整備に専従することによって「子どもと面白いことを共有」するプロ集団として存在しています。
 だから、NPO遊学会で野外活動のみ切り離すことはこのプロ集団としての仕事に矛盾を生むかも知れません。誰でも参加できる地域の存在となり得るために、この矛盾をあえて抱え、公共の場所を使用したり・公共の場所で案内書を置いたりして、活動を広げようとしているのです。
 昔から、塾という名前で公共施設を借りに行くと「営利団体では貸せません。」と断られました。塾という名前で借りても、そこで塾の本業をやるのではないのですが、公民館で子どもと餅つきもできないし、映画会もできません。とにかく、こどもと何か「面白いこと」をやるのは、とても困難でした。
 でも、それが昼間に仕事をもっている会社員が余暇でこどもと何かやるとなると、「営利」ではなくなるのです。会社員はその存在が「巨大な営利」を目的とする大きな集合体の1パーツなので、それひとつで存在しても「営利」を追求しえないという考えからなのでしょうか?
 そして民間私塾の私達はなにか始めるとすぐ「営利」に走ると考えられてしまうのでした。

 若い頃はよくこういう風に考えて憤慨していました。だから、餅つきは農家に頼み込んで、映画会は高い使用料を払って会館を借りて行いました。
 人がただで働くということほど、うそ臭く、不健全なものはありません。報酬という対価を求めない代わりに何か別のものを必ず求めているのです。「金銭の対価は求めませんが、代わりに私は○○という満足をもらっているので、同じです。」と意識的に言える人は健全です。でも、対価を求めない行為こそ、上等だと考えている人はおかしいです。

 ちょっと、昔の興奮が蘇ってきて、スジがおかしくなってきました。
 ここでちょっと整理しておきますが、NPOの「非営利」というのは、仕事に対価を求めないという意味ではありません。その法人の活動で利益が出たとしても、構成員に分配する方法を持たないというシステムです。だから、その活動に関わる人が全部「ただ働き」で構成されるわけではありません。念のため・・・。
 
 今回丹誠塾の外部にNPO法人が存在することによって、野外活動の呼びかけの範囲が広がるとともに、自分たちの活動が外部から検証される機会を得ることになりました。都庁に活動報告を提出したり、助成いただいた所に実績報告を出したり・・・と、お役所とのおつきあいが始まりました。他人は自分たちをこういう風に見るのか・・という学習の真っ最中です。今の私なら、昔の公民館の対応にも、もっと上手につきあえただろうと想像します。もう遅いですが・・・。

2002年5月20日 月曜日
 山森ばなしは続きます。
 塾の山菜ツアーが無事終わりました。
 小学2年から大人まで13名のメンバーが参加したツアーは土曜の夕方、山荘周りからスタートしました。仕事のある社会人2名や福島は夜、到着しました。
 1週間前とは違って山菜の種類が多く、山ウドは1週間で立派に群生していました。夜のおかずを心配していた山下はちょっと安心でした。夕食に食べる分のみ収穫して、みんなで楽しく調理しました。ウドは穂先を天ぷらにその他は皮をむいて、煮物をに入れました。わらびも灰でさっとあくを出し、しばらくつけおいて、煮汁に入れました。その他1週間前に収穫して冷蔵庫に眠っていた大量のコゴミをニンニクでザッと炒めました。

 ほうれん草の胡麻和えもつくりました。これで里の野菜がいかに食べやすいかを実感することになりました。天ぷらは他にブドウの若芽・よぶすま草・タラの芽・コシアブラ・ヨモギなどを次々とあげました。子どもたちも渋い味に挑戦していました。

 もちろん、お酒も各種用意されていました。前日から山荘で過ごしていたグループがいて、彼らが湯沢で買い出しをしておいてくれたのです。収穫したばかりの山菜に新潟の地酒・・・。こんな夜でした。

 翌日は輝くばかりの晴天で、こ一時間の整備作業のあと、小学生2人と福島以外の10名が平標山ふもとの水源地に入りました。以前まで藪漕ぎをしていた場所もキレイに笹が刈られ、歩きやすい道になっていました。藪漕ぎ用にとカウベルを靴につけて歩いていた山下も肩すかしを食いました。楽々の緑の小径を歩いて自然の湿り気を身体中で楽しみました。途中から細い沢になってクレソンが群生している所にはサンショウウオもいました。ただ、今年のサンショウウオは俊敏でなかなか捕まりませんでした。
 
 山ウド100本以上、あとはタラの芽・コシアブラ・よぶすま草・クレソン・ニワトコ・はんごん草・ブドウの若芽などの大収穫でした。帰りは非情な雨に急がされて山を下りました。

 山荘では炭火でやいた手羽や焼き鳥が私達を待っていました。福島と小学生2人が焼いてくれたものです。雨のため、山荘のリビングで焼きそばをして食べました。大きな鉄板を中心に食事する風景はそばから見ていて面白い絵でした。食べ物を中心に人が輪になると、何か中心にエネルギーが集まる感じですね。

 楽しかった2日間もあっという間に過ぎ、山荘の掃除・戸締まりをして雨の苗場を後にしました。出発前、小学2年のMちゃんが「あと100年ここにいたいよ。」と福島に言ったそうです。福島は「そんなにいたら、俺は生きてないし、君もいないだろう・・・。」と答えたそうな。

2002年5月13日 月曜日
 今日も山森ばなし。
 昨日は5時に起きて、福島と一般道を使って苗場山荘へ行って来ました。口実は山菜ツアーの準備ですが、実際は一度一般道を使って新潟県まで挑戦してみたかったのです。

 地図が古いのでだいたいの見当をつけて、あとは道路案内に従って行きました。まず入間市を北上して鶴ヶ島へ。そして東松山で西に曲がり、嵐山・寄居を経由して本庄児玉を経て藤岡に到着。地図が古いので道路名が実際と違うのですが、407・254というのが道路番号です。自宅を出て約3時間。藤岡には大きな「道の駅」がありました。高速のSAもなっているその「道の駅」で休憩をとりました。まだ開店前の巨大休憩スペースには24時間のコンビニもありました。急に鳴り出したオルゴールの音楽に閉口しながらも、長く休みました。
 
 その後は17号で高崎、そこから25号で渋川まで行きました。沼田に寄りたかったので再び17号に戻り、利根川沿いを北上。沼田は多少土地カンがあるので、裏を通って白沢へ。
 途中1995年の尾瀬サイクリングの際、福島が『無念のリタイヤ』をした場所があり、「そうそう俺はココでギブしたんだ・・・。」と車中で叫んでる福島でした。こんな坂の道をすっ飛ばして埼玉県の北本市から尾瀬までサイクリングをしてたんだ・・と改めて驚きました。
 参考のために・・・。
 この企画は友人の塾とジョイントでおこなった「チャレンジ・サイクリング」というもので、今の高校生のD村くんやk池くん、おたふくかぜ発の髄膜炎から回復したての息子も、参加したとてつもなく体育会系のイベントでした。丹誠塾からの参加者で最長記録O林くんでその次が40過ぎの福島でした。小中生の参加者はその速度・ハードさに早々とリタイヤ。準備したトラックに自転車を乗せ、ワゴン車で観戦するというものでした。

 福島がいつも「沼田のりんごは最高!」といいます。疲労の極地でかじったりんごの味が忘れられないというのです。

 白沢、一番の目的は農産物直売所です。他所の野菜と味がちがうのです。今回は大きなイチゴと立派なアスパラ、葉っぱのワサビなどを購入。用意した発泡スチロールの保冷庫に収納して、温度管理バッチリで安心。

 隣の「望郷の湯」でひとっ風呂。ここは露天風呂の眺望が最高。ひろびろした露天風呂にも洗い場施設があり、まぶしい眺望の中シャンプーできます。
 建物が立派でレストランもあるのですが、福島の提案で「食事はやめとこう」ということになり、休憩もそこそこ先を急ぎました。
 
 山菜ツアーに必要な山荘消耗品を買い、今度は私の運転で山荘へ向かいました。
 山荘到着はたいだい2時。椎茸の原木を確認して、早速山に入りました。先週のコゴミの収穫に続いて、今回もまだ、収穫できるコゴミがたくさんありました。タラの芽・コシアブラ・よぶすま草が収穫でき、18日に備えて、濡れ新聞紙に包んで山荘の冷蔵庫に眠らせました。天ぷらのねたには困りませんね。山ウドも一筋見つけて、芽を出した30pほどのものを5本収穫しました。ムラサキ色の野生の山うどです。これも天ぷらかな・・・。いろいろ料理を考えて、山を歩くと知らず知らず、時がたち、5時になっていました。

 「帰りも一般道で」という福島の意見を入れて、群馬天文台を経由して渋川へ。(この辺のショートカットは私達の得意わざ)同じように25号・17号で高崎・藤岡へ。山荘を出発したのが、5時20分。本庄児玉で7時55分でした。「このまま下でいくと10時半は過ぎるね。明日シンドイね。」の私の言葉に、強く一般道を主張する福島は急遽折れました。本庄児玉から関越に乗り、渋滞なしで新座料金所を出たのが、8時40分でした。
 自宅には子供らに連絡したとおり、9時5分前に無事到着。

 娘はイチゴを見て「これ大きいね。トマトじゃない?美味しそう・・・。」
 隣の母も「大きいね。仏壇にお供えしてからにしよう・・・」と、うれしいお土産への反応でした。

 山に入るためになんという手間をかけるんだろうと・・・驚く方もいると思います。今回は山だけでなく、一般道の面白さを知った日帰りレジャーでもありました。一般道を経験して、巨大店舗の盛況ぶりと、昔は我が世の春を謳歌していたであろう中途半端な規模店舗のうらぶれぶりを実感しました。「栄枯盛衰」です。そして確実に日本は車社会になっていることを痛感しました。貧乏人ほど車に乗る・・・って感じでしょうか?かくいう私達は超下層かも。高速料金も再考してるわけだからね。

 本日、福島は朝いちで『雪舟展』に出かけていきました。『雪舟展』のために月曜の山歩きを日曜にしたのでした。

2002年5月6日 月曜日
 昨夜、渋滞の少しおさまったころ関越に乗って3時間半かけて帰ってきました。日常より1時間増しという渋滞状況でした。でも午前3時まで渋滞は続いたということなので、このGWの人出の規模が分かります。
 苗場では西尾家の4人と久々にゆっくりしました。私以外の7人はテニスも楽しみ、私はもっぱらコゴミの成長を確認にあちこちの沢に分け入りました。昨年の山菜ツアーで涙をのんだ水源地のコゴミは今年は多少開き気味ですが収穫圏内でした。スーパーの袋に3つくらいの収穫量で大満足です。今年の山菜ツアー用に湯がいて冷凍しました。
 
 連休中の報告をひとつ。
 30年ぶりの旧友との再会は大変新鮮でした。私は姫路のミッション系女子中高の出身で、初めての同窓会出席でした。数人をのぞいて30年ぶりの人たちです。向こうは覚えていてくれていても、私がひとめ見て分かる場合は少なく、旧姓を言ってもらって、しばらく話していると、現在の顔の中から、30年前の顔がスッと浮かんでくる繰り返しを体験しました。どの顔どの顔も昔の面影が必ずあるのです。その上に共有していない30年が堆積しているわけで、しばらくその堆積物を透過させる時間が必要なのでした。
 同窓生を見ながら、一番驚いたことは「みんなの若さ」です。同年代の男性と久々にあうと、その無惨な変わり様に「自分もこんなにくたびれているのか・・・」と思ってがっかりすることが多いです。でも、30年ぶりの中高の友人達は本当に若くてチャーミングでした。ひとつひとつ覚えているエピソードが違い、私達の30年前をみんなでモザイクしていく楽しい作業でした。みんなと別れて新幹線で東京に帰るとき、「私はあの同性の集団の中で中高時代を過ごしていたんだなぁ・・・・」と改めて思いました。その同性たちの特徴は「ほどよく裕福で、自分の将来や生き方に根本的な疑問・不安を感じない善良な人たち」でした。当時はその中にいて全然気がつかないことでした。出席者のうち1割が養子さんをもらって名前が変わってないことも、驚きでした。

 振り返ると、私の中高時代はおっとりした友人たちに囲まれて、競争もなく過ごした日々だったようです。イライラ先を急いでいたのは私だけだったようです。

 幸いこのホームページも早速のぞいてくれて、メールをくれた旧友もいます。「今度東京へ行くよ」と無記名のケイタイメールを送ってくれた人もいます。今日、心当たりに返信しておきました。

2002年4月29日 月曜日
 連休が始まりました。日頃たまった家事をやって、連休あけを気持ち良く過ごしたいと思うのですが、そうもいきませんね。
 明日から、法事で田舎に帰ります。父が孫をみてほんの一年でなくなったのは、今から16年前です。57才でした。17回忌という数え方にも慣れました。「ええっ、もうそんなになるの・・・早いね・・・」とよく話をします。○○回忌を話題にして「もうそんなになるの・・」と言わしているのは、亡き人が残された者に悲しみを軽減させている証拠だと言います。早く年月を過ぎさせて忘れさせることが、残された者へ配慮だと、福島の母は言います。

 耐え難い分かれも時が少しずつ、ならしてくれる。その周期が○○回忌の周期なのかはわかりませんが、決められた間隔で家族が集まり、増えた家族で会食し、子どもの成長を話題にし、身体の調子をしゃべり会い・・・・そんな光景が何年も全国の家族でも行われてきたと思います。

 法事に帰ったついでというと、父に叱られますが、生まれて初めての中高時代の同窓会に出席する予定です。

 懐かしい人たちと父のことで集い、多感な時期を共にした友人と約30年ぶりに会い、この連休前半は、私の日常使ってない脳をメッチャ刺激しそうです。

2002年4月23日 火曜日
 日曜日に娘と多摩動物公園へ行って来ました。
 あいにくの雨で、静かな動物園でした。

 一番に私達を迎えてくれたのは孔雀です。オスがメスを求めて、園内をトコトコ歩き回っています。人が近づいても平気。この機会にあの美しい羽をじっくり観察させてもらいました。本当にきれいな模様でした。

 娘に誘われるままライオンバスに乗ったり、キリンやシマウマを見たり、昆虫館ものぞきました。その中で、一番印象に残っているのはチンパンジーの場所です。
 私は全然知らなかったのですが、チンパンジーの住まいの中に自動販売機があるのです。ジュースが3種類とお茶が1種類入れてあります。チンパンジーは10円玉を飼育係にもらって、ポタンを押して飲み物を出すのです。1匹のチンパンジーができるようになって、その他の仲間に広まったようで、最後までできなかったおばさんチンパンジーは特訓の末できるようになったそうです。
 ここで30分ほど親切な解説員の方にチンパンジーの話を聴きました。

 チンパンジーは子どもの時にはお尻の毛が白くて、その毛が白いウチは仲間の中で多めに見られる時期であるといいます。いたずらをしても、まだ子どもだからということで許されるそうです。
 また、チンパンジーの社会では、食べ物を先に手に触れたモノが所有するというルールがあり、確実に守られています。先の自販機の飲み物の場合も10円玉を入れたモノ、ボタンを押したモノに関係なく出てきた現物に一番に触れたモノが先取り特権を主張できるのです。事実、10円玉を入れるときチンパンジーは近くに仲間がいないのを確認して事を行っていました。でも油断して疾走してきた仲間にジュースをさらわれるという不幸も起こっていました。
 もう一つ。獲物を得た仲間の周りに寄ってきたチンパンジーはしきりに「ちょうだい、ちょうだい」というジェスチャーをします。口元を近づけて、うざったいくらいアピールするのです。でも決して獲物には触れません。これもチンパンジーのルールなのです。

 「このルールは人間が教えたモノですか?」と尋ねると、
 「いいえ、チンパンジーの社会でできあがったものです。」という解説員の答え。

 「じゃ、世界のチンパンジーのルールは同じなのですか?」
 「ええ、だいたい同じじゃないでしょうか。リーダーがこのルールを徹底させていくのです。もうなくなりましたが前のここのボスは偉かったですよ。弱いモノをかばいながら、身を挺してルールを徹底させていました。威厳がありました。」という解説員の表情は本当に前のボスを尊敬している感じがありました。
 解説員の方の説明は続きました。
 「チンパンジーの母親は決して、子どもを叱りません。子どもが行って欲しくない所にいこうとすると、叱って呼び戻すことをしないで、ただ移動させて連れてくるだけです。また、一緒に遊んでいる仲間の状態が荒れていて危険がある時は、ただ移動させて自分の元に連れてくるだけです。危険のない仲間の場合はほったらかしています。」

 なんだか、深い話を聴いた感じがして、雨の中考えながら歩いていました。

*集団のルールの起源・・・獲物への権利
*リーダーの質がその集団の質を決定する
*母親の存在・・・・・安全確保のやり方

 娘はあきもせず、私と解説員の話を聞いていました。あまりの面白さに時間を忘れて聞き入っていましたが、これ以上いると解説員を独占してしまって、周りの人にも悪いので引き上げました。

 みなさん、多摩動物園はどれもおもしろいコーナーですが、行ったら是非チンパンジーの住まいへ行ってみて下さい。そして、自販機でジュースを買うチンパンジーたちの姿を見てきてください。

 最後に。私の大好きな猛禽類の住まいでイヌワシにも逢ってきました。雨の中じっと動かず、孤高の存在でした。飛翔しても絵になるし、静止してても絵になるイヌワシでした。

2002年4月16日 火曜日
 丹誠塾は今年度より月曜日のクラスを作っていません。つまりお休みの日です。
 私はこの月曜を身体を動かす日に決めました。日々落ちていく体力に少しでも歯止めを・・・という気持ちからです。できれば、森に。だめでもどこかの運動関係の場所に・・・と。

 さて、初休みの昨日は福島と日の出山に出かけました。
 春合宿では子どもたちは御岳山から日の出山に行きました。きのうは五日市の三ツ沢の方から登りました。御岳からと違ってわりと高度をかせがないといけない、ちょっとしたトレッキングとなりました。

 登り2時間下り1時間余の運動の後、「つるつる温泉」で汗を流し、地ビールを飲んで帰ってきました。酸味のあるバランスのよい地ビールでした。
 山は芽吹きの時期で、薄暗い中に新芽の放つ光にしばし、見とれていました。福島と2人で「本当にきれいな葉っぱだね。ツルツルだよ。若い輝きだね。」と話しました。
 また、たちつぼスミレの時期でした。摘んできて、早速娘とジャムを作りました。薄いムラサキの色が残り、レモンで少しすっぱい感じのジャムになりました。今朝の紅茶に漂わせるとほのかに春の香りがしました。(ちょっと気のせい・・・)すみれジャムは群馬の湯ノ小屋温泉の宿の方に教えてもらいました。その宿はもと小学校の廃校を山荘にした葉留日野山荘といいます。苗場の山荘で行う「山菜ツアー」の時もスミレをねらって収穫している参加者が必ずいます。乱獲に注意して、広い範囲で集めると鮭ビンに一杯くらいのすみれジャムはすぐ収穫できます。作り方は簡単。グラニュー糖にレモン汁でスミレを煮詰めるだけです。私は水分に焼酎を少々入れました。

 あとひとつ。途中の桜は落花盛ん状態でした。道が白くなっていて、桜の存在に気づきます。さくらの雨のなか穏やかな一日を過ごしました。こういうのを贅沢というのかもしれません。
 頂上で2週間前の春合宿の現場(御岳山)を臨み、子どもたちとの3日間をあれこれ話していました。御岳の山も穏やかな春に包まれていました。春合宿では全然咲いてなかった桜も、華やかなつつじと共に咲き誇っていました。

 月曜日は交通もスイスイです。行きは開通した圏央道を使い、家を出発した55分後にはもう日の出インターを降りていました。帰りの五日市街道もスイスイで、平日の移動の素晴らしさを感じました。
 
 さあ、来週はどうしようかな?
 

2002年4月12日 金曜日
 新学期がスタートしました。
 息子の弁当作りも復活し、朝起きて腰に手をあてながら、のそのそやってます。例のぎっくり腰以来、朝どうも腰の調子が悪くて、掃除機をかけるのも面倒になっています。随所に油切れの箇所がある感じです。

 さて、ホームページを新しく作り直して、丸一年と3ヶ月がたちます。もともとコラムの数は3つでスタートしましたが、早々に福島がお休みしました。キーボード操作ができない彼は生原稿の状態で私に渡して、私がそれを打って更新していました。その手間と本の吟味に追われ、とうとう根をあげたのです。また、子ども図書室が充実したら、別の形で登場するかもしれません。(書き貯めた分はそのまま残しています。)

 私のコラムの「山森話」は山や森に出かけていって、見たり感じたりしたことを中心しようと思って名付けたものです。だから、日常の生活からネタを探すつもりではありませんでした。あわよくば、コラムにかこつけて毎週どこかの森に出かけられたら・・・とも思いっていました。だけど実際いろいろ雑事に追われ、自然に出かけていくチャンスが激減し、コラムの内容も家族ネタ・食ネタ・その他雑多なものに移ってきました。看板にちょっと偽りありですね。でも、コラム名を変えないでいきます。ここまま・・・。そして週に一度は森に行き、新しい空気と共に週を始められる生活を夢見て・・。

2002年4月4日 木曜日
 春合宿が無事終わりました。
 御岳の上も春が早く、例年になく暖かい4月はじめでした。
 今年の選択授業で目を引くのが、高校生企画運営の「昔遊び」です。テーマは「御岳で遊べ!」です。下は小学1年生から、高校生までがいろんな遊びで混ざる企画です。
 
 @だるまさんがころんだ
 Aビー玉(輪の中のビー玉を当てて外にはじき自分のモノにする)
 B八の字(ロープで引っ張りあって、動くと負け)
 Cことわざカルタ

 @〜Bを見ていて思うことは、多様な局面に対して取り決めがたくさん必要で、その都度「ズルをしない正直さ」が問われる、ということです。人の動き・ビー玉の転がり方・ロープの動きなどは予測をこえた部分が多いです。それを「遊びのルール」の中で「調和」させていく子どもたちの知恵が働きます。
 幼なじみを懐かしく、気心がしれている関係として大切にするのは、こういう遊びを共にして「ズルしないやつ」という信頼を長く与え、与えられ、つきあいを続けてきた関係だからではないでしょうか。逆に「ズルばかりしていやなヤツ」と大きくなっても、評価が上がらない例もあるでしょう。

 この企画を高校生が考えたというのも面白いと思います。高校生にとっても「最近の子どもは・・・」という視点があるという事です。自分らの小さい頃やったものを紹介して、家の中でゲームばっかりしているヤツに変化をおこそうという気持ちでしょう。

 最終日に体育館でフット・サルの試合と完成した飛行機の見事な飛翔パフォーマンスで春合宿は終わりとなりました。
 フット・サルの試合は白熱して、最大に盛り上がりました。選手入場はFIFAの公式入場曲です。審判もきびきび動き、試合の流れが良く分かります。こういうゲームは「昔遊び」の子どもたちの調和の知恵がなくても、成立する遊びです。ルールが整然と存在し、コーチなど大人が必ず介在する世界です。ひたすら、個人は自分のプレーを磨いて、指導者の手でチームプレーとして完成させられる世界です。

 試合を観戦しながら、深く、思い当たりました。
 「今の子どもたちが身につけることなく成長していくもの・・・。問題を自分で解決していく力。他人といい感じにつき合っていく力。こういうものは@だるまさんがころんだAビー玉B八の字・・・・・・・数多くの「調和の知恵」を必要とする「昔遊び」の中で培ってきたんだなぁ。」「大人がしくんだ電子ゲームの世界や、指導者のもとでのサッカーや野球などの運動の世界では培われない力なんだなぁ。」

 そしてココに気づいたか否かは不明ですが、「御岳で遊べ!」を企画した高校生の感覚に頼もしさを感じます。

 再び腰に赤信号が点灯しそうになっている私は「だるまさんがころんだ・・・。」に混ざりたくて仕方がありませんでした。敵の裏をかく行動ばかり考える「昔のゆみちゃん」に戻りそうになっていました。
 
 参考までに関西では「ぼんさんがへをこいた」といって数えます。

2002年3月31日 日曜日
 2001年度も今日が最後です。
 塾の新学期は26日からの春期講習で一足早くスタートしてます。全学年にとってのスタートは明日からの春合宿です。今年も昨年以上の規模で御岳山の「嶺雲荘」で行います。

 先日の春期講習で私は小学4年の算数を担当していました。単元は「大きな数」。最終日に無量大数から始まる壁の大きな数を早読みするレースをしました。すらすら記録を更新する子、どきどきしてつっかえてしまう子、緊張のあまり読み違えて繰り返しをする子・・・・。いろいろです。
 そんな時、事件が起こりました。一人の子が緊張のあまり、どんどんスピードが落ちていくのです。「なんで普段うまくいくのに・・・。」と思わず、後ろで吹き出してしまいました。他の生徒も何人か、笑っていました。
 当人はその声を聞いてパニックになり、笑っている子の一人に背負い投げをしようと、かかっていきました。私はもちろん必死こいて止めました。とにかく暴力的にでようとする力を止め、言葉で表現させようと、言葉の限りで伝えます。
 これが「集中力」を要するのです。説得15分で彼は興奮を静めて、みんなに向き直り、「笑い声が聞こえてから、途中で下手になった。」と訴えます。あまりの真剣さに「私も思わず笑っちゃった。普段とあまりにも違うからびっくりして思わず、笑ってた。ごめんね。」と私がまず伝えます。そして、他も子どもたちも3人「自分も笑ったから悪かった」と謝りました。顔だけて笑った女の子はじゃまにならなかったということで、謝る必要がないという「被害を受けた子」の意見だったので、そのままでした。
 この決着まで合計20分。いつもの悪ガキも神妙に成り行きを見つめ、無駄口ひとつない時間でした。回転するモノがひとつの中心を探し出し、安定して落ち着くプロセスに似ています。「被害を受けた子」の真剣な叫びは暴力的行為からスタートしました。そしてみんなに背をむけていじけた姿勢が、みんなに向き直り、「自分の主張」を言葉で伝える・・・。これに凄い集中力を必要としました。これは全員の集中力です。

 これが私達の仕事です。「算数」という教科を教えながら、予想もしない局面で、その都度「子どもの成長する心」とつき合っている仕事です。
 実はこの時、私の腰がもう一度悲鳴をあげ始めていた時だったので、15分の集中が限度でした。2002年度の授業のスタートがこういう象徴的事件を伴って、幕を開けたので、内心「お手柔らかに・・・。」と願う山下でした。

 明日から、春合宿です。あまり、腰がウイークになっている山下の集中力を駆使しなくてもよい「平穏な3日間」であることを願って、出発します。まあ、それはないんだけどね・・・。

2002年3月24日 日曜日
 人の森のメンバーと「早春ツアー」へ行ってきました。昨年もこの時期卒業生との記念に・・・と四万温泉に行きました。今年は苗場の宿泊を加えて1泊で四万・苗場の「早春ツアー」を呼びかけましたが、あいにく卒業生たちはみんな都合が悪く、人の森のメンバーが誘いに応えてくれました。
 「早春ツアー」のはずが標高800mを越えるとまだ、冬でした。
 東京を出るときはさくら満開→さくら蕾→桃→梅→芽吹き前の枝→冬枯れの森とタイムマシーンに乗っているみたいでした。もちろん苗場スキー場はシーズン中です。帰る日は吹雪でした。

 今回のツアーは引率する存在がいないことと少人数ということもあり、気楽気楽な気分でした。
 私は久々に痛飲しました。最近は酒量も落ち、次の日に残らないことを一番に飲んでいましたが、今回は頭がカラッポになるほど飲みました。
 もちろん、二日酔いです。状態は辛いのですが、時間がたてば回復します。回復とともにやって来る感じがあります。「あ〜、この感じ・・。」アルコールの占拠から開放された身体は「頭カラッポになった分」軽量になっているのです。昔感じたあの感覚です。頭にあったいろいろなことを一度全部出して、もう一度針をゼロにした感じです。
 一緒につきあってくれた若い人には申し訳ない。

 せっかくの爽快感のまま、昨夜は早々に休みました。
 今日、福島は元気に城ヶ島のフィールドに出かけました。「やっ、まずいよ。品川駅でイベントがあって、混むみたいだよ。集合場所なのに・・・。」とテレビをみて叫んでいました。

2002年3月18日 月曜日
 きのう群馬の中里村へDIGのフィールドの下見に行ってきました。
 2000年度は福島県のいわき市アンモナイトセンターで化石発掘体験をしました。来年度は当初五日市で化石発掘を計画していたのですが、どうも工事でフィールドがなくなってしまったようなのです。
 そこで昨年、アケボノゾウの足跡化石や琥珀の化石発掘でお世話になった福嶋徹さんから、群馬の中里村の話をききました。昨日は福嶋ご一家と塾からは福島・山下と高校生スタッフ2名が下見に行きました。

 中里村へは299号をずっと北上しました。最終の志賀峠ではカーブの連続で「これはマイクロではきついかな・・・」と思いながら、梅の香りの中、早春のドライブを楽しみました。

 中里村は恐竜の骨と恐竜の足跡が発見された場所で有名です。その名も「恐竜センター」では、その骨やモンゴルの恐竜の骨が迫力で展示されています。モンゴルと姉妹提携していると言う話で、いわきの石炭化石館をこじんまりしたような充実した博物館でした。
 中里村がすごいのはアンモナイトが出る地層もあるのです。私達はまず、それに挑戦しましたが、石が硬いのと、発掘場所が川沿いの崖付近だということもあり、安全を考えて、他の場所に移動しました。そこは貝の化石のたくさん出る現場でした。有り難いことに体験用に区画が整理してあって、石も簡単に取り出せます。近くに恐竜の足跡の残る岩もあり、フィールドにするなら、コッチのほうだねといって帰ってきました。

 その現場で福嶋ファミリーの6才の長男がすごい発見をしました。その場所では初めて発見された「魚の化石」です。小さいながら、まさしく魚です。頭の一部分がかけたのか、とけたのか、全く完全ではありませんが、ほとんど残っている魚です。センターの学芸員の方も喜んで「センターの展示物にしますので、預かります。」と丁寧に掌にのせて、それ以上の風化を、防止しようと必死でした。発見者の6歳児は不満で自分のものとして持って帰りたいといいます。お父さんはお父さんで息子に珍しいモノを見つけられてしまった悔しさを懸命に隠しています。言葉少なにカメラに収めて、息子を説得していました。
 福島でさえ、「うううっ、自分になぜ見つけられなかったのか・・・」と悔しがります。「そうしたら、あのセンターにずっと福島一宏発見というプレートが残るのに・・・」・・・あ〜、男って結局、○○なんですね・・。

 このフィールドは気候の良い5月を考えています。今考えているテーマは「恐竜王国へいって発掘体験」かな?日本テレビのダッシュ村の恐竜発掘はアンモナイトセンターでおなじみの福島県です。あの辺には琥珀のでる川もありましたから・・・。丹誠塾の恐竜体験は群馬の中里村です。やはり遠いですが、工夫して実現したいと思います。

 もしかしたら、丹誠塾の7〜8歳児がセンターに保存されるくらいの「新発見」をしたりして・・・。

2002年3月12日 火曜日
 田無と武蔵境の間に「柳橋」という交差点があります。五日市街道と境新道の交差地点です。
 そこの柳が芽をふいています。柳の芽吹きは一見の価値有り。
 柳は芽吹く前に全体がムラサキになって、エネルギーを貯めています。そして一気に芽吹くのです。
 近所を歩くと、こぶしの白さが青空に映えて見事ですね。本当に白い・・・。でも真っ白じゃない。あの輝きは春の輝きです。
 また、先日五日市に行って、梅・桃を堪能して帰ってきました。梅・桃・こぶし・柳の芽吹き・・・・・。春の始動です。

 塾の玄関には薄いピンクの八重のチューリップがあります。
 春の盛りに5才で逝ってしまった西尾家の末娘「ももちゃん」の色です。毎年、ピンクのチューリップを育てて、彼女を偲んでいますが、今年はプランターのチュールップの成長を待ちきれず、店で買ってしまいました。
 元気だと、今年小学4年生になります。

 不思議なモノですが、寒いと暖かさを望んでいるのに、ちょっと春めくと「寒い寒い・・」と耐えていた頃にもどりたくなります。出番にシリゴミする芸人みたいなものでしょうか?

 お陰様でぎっくり腰は完治しました。

2002年3月6日 水曜日
 分かりました。7777番の方が素通りしてしまった原因が・・・。
 ここに来てすべての画面が表示されるまで時間がかかります。カウンターの表示が最後になるんですね。
 さっき、パソコンを立ち上げて『丹誠塾』のHPを開いていたら、なかなかカウンターが表示されないので、「人の森掲示板」に飛んだじゃいました。その瞬間・・・、分かりました。
 だれも『7777』を目撃した人はいなかったのですね・・・。
 
 このページを覗いてくれていて人は基本的にはほとんど、「うちわ」と承知してます。 
 だから、『7777』の申告がないことに不可解さを感じていました。
 みんな、短期な人間だったのですね。カウンターの表示を見ずに次に行ってしまったんですね。もしかしたら、トップのページ→カウンター待たず→どこかのページ。   
  
  残念。例のクレーの一筆箋は、会計仕事でお世話になった「好青年」に送られました。
 

2002年3月4日 月曜日
 前にも書きましたが、一年間でどんな夕食をたべているか記録しています。
 昨年の1月1日から始めたので、2年目に入っています。昨年の出来事や夕食を読み返しながら、今年の分を書いています。面倒くさいときはまとめて思い出して書いていますが、楽しい作業です。
 昨年の3月3日は土曜日で、四万温泉の「たむら」に日帰り入浴をしているのです。早朝出かけて、夕方に帰り、隣の母のちらし寿司+娘作成の蛤のお汁だった記録があります。今年はいうと、やはり母のちらし寿司が登場しています。毎年同じ日に同じモノを食べる習慣が日本にはあります。いい習慣だと思います。
 記録をみると当たり前なのですが、冬は冬、夏は夏の料理が登場していることです。その中で際だって季節を感じさせるのは隣の母のメニューです。(母は木曜日に食事を担当してくれています。)
 冬・・・ブリ大根・白子・里芋の煮物・イカの塩から・氷頭なます・クリームシチュー 
 春・・・おすし各種・グリーンピースのごはん・かつお
 夏・・・焼きなす・イカときゅうりのマリネ
 秋・・・中華おこわ(黒豆入り)・きのこ汁・けんちん汁・白和え
 同じ味は出せないなぁと思いつつ食べています。子どもたちにとって、母の味は当たり前の日本の家庭料理です。私の作るモノも質は落ちますが家庭料理です。二つの要素の中から自分の味をつくって成長している過程です。
 ちょうど参議院の議席のようです。3年ごとに改選して任期は6年。急に全部のメンバーが変わってしまうことはないけど、6年たつといちおう全員が改選されているという制度です。
 「食」は受け継がれますが、かならず「変化」していきます。一番の原因は近代化・国際化です。同じモノを食べ続けることができないほど、社会が変化しているのです。主に食材が変化します。
 世界中のほとんどのエビを日本人が食べているということで、エビ消費の観点から経済を論じた本を興味深く読んだことがあります。いつからこんなにエビを消費するようになったのでしょう?バブルの時期の話でしょうか?
 「食」は「保守的」に変わっていくのが、正常だと私は考えます。
 今の日本ではこの「食の変化」が激しすぎます。私が気になるのは参議院の改選議席のように何かを残しつつ、「変化」の部分を受け入れるのではなく、衆議院の解散後のように、「食」の「変化」が全部とっかえ的になってしまっていることです。
 おばあちゃんの残す味、お母さんが創り出す味、そして社会に出て仲間と食べ歩く世界の味、・・・・結婚して相手と作っていく我が家の味。保守的に変化しつつ、食べることの幸せを感じます。

 ・・・・・中3の社会を担当しているのでたとえが、公民の授業になってしまいました。わかりにくいですか?

 2002年度は土曜に「食」に関する何かを始めようかと考えています。
 人の森の企画になるか、山下の個人企画になるか、分かりませんが、たくさんの人と美味しい体験を共有することを中心に考えています。テーマは「食いしん坊集まれ!」かな?

2002年2月25日 月曜日
 ぎっくり腰になりました。都立入試の日でした。
 
 確かあの日は中高生たちがポスティングをしてくれている間に、掃除して、昼食の買い出しをして作って、食べさせて、その間に「子どもゆめ基金」の最終FAXを作成して送って、問い合わせに応えて資料を郵送して・・・・・。と思い出すだけでも、すごい一日でした。
 朝8時に家を出て、午後2時前後に、小さく「ぎくり・・・・」。「あれ?痛いなぁ。」
 操体法で「かかとの突き出し」「ひざたおし」に1時間くらい専念。あとは福島に足の指をひっぱってもらったり、マッサージをしてもらって、やっと歩けるようになりました。昼食やポスティングの片づけをロボットのような格好でスローでやり終え、夕方帰宅しました。
 そこでも通常の家事が待っていました。硬直した身体でやってると、今度は本格的に「ぎっくり・・・ツッ、痛、痛・・・・」。「あっちゃ・・・、これは初めて・・・、痛、痛・・・」。
 やれることは「背骨の呼吸」。背骨に集中して、ゆっくり腹式呼吸。「あっ、痛。」と凍ったよつんば状態のままでその呼吸を行うこと5分。ゆっくり四つ足で移動し、横になって、また深く呼吸。この「背骨の呼吸」を約40分していました。とにかく痛みの発進地を確かめつつ、痛くない動きを呼吸とともに探って、3時間操体法をやっていました。
 その間、娘・息子の不思議なモノを見る目にサラされて、「お母さん、どうしたの。はってトイレいくの?ハッハッハ・・・。」「はって出てきたよ。もう、最高!はっはっはっ・・」。なんてヤツらじゃ・・。
 でも、頼んで背中を押してもらった時は「さすが福島の子ども!」も思うくらい2人とも上手です。背中が軽くなると動きも軽くなりました。その後お風呂に入ると激回復しました。でも調子に乗って通常の動きをすると、また、あの「ぎくり・・痛」という小発作が起こりそうな感じになるのです。

 翌々日、予約が取れたので福島の行きつけの鍼灸の先生に診てもらいました。
 ハリ初体験はミラクルでした。ピストルの入った口と出た口が残るように、ハリの力の入力・出力というのがあって、身体の中を粒子が動く感じで、不思議でした。
 結論「ぎっくり腰にハリはきく」です。
 今は恐る恐る身体を使っています。ハリのおかげで小発作を起こす感じは遠のいていっています。
 パソコンはまる一日打てませんでしたが、昨日あたりから復帰しています。明日もハリ灸に行きます。

 操体法は若い頃からの健康法です。これでいろいろなトラブルを回避してきましたが、今回もとりあえず、操体法をして、動きを探れたので楽でした。でも、はじめは「もう、一生歩けないのじゃないか・・・」と思ったくらいです。腰痛の経験のない私に、「腰の大切さ」を教えてくれた今回のぎっくり体験でした。

 腰痛ベテランの福島は「寝ているとき痛い?」とききます。「全然、よく眠れるよ」と応えると、
 「まだ、まだ、初歩だよ。本当に辛いのは腰が痛くて眠れない時だよ。」と言います。

 よつんば状態から2足歩行になって初めて腰痛が出現する意味がよく分かりました。

 トップのカウンターが7777の方には粗品進呈とあったのですが、どうも昨日達した模様なのに誰も申し出がありません。おくゆかしい御仁だったのか、丹誠塾の粗品なんてと思ったのか・・・。
 予定の粗品は「パウル・クレーの一筆箋」でした。

2002年2月18日 月曜日
 鎌倉へ行って来ました。
 会計の仕事で11時間、伝票・領収書を並べ、エクセルをたたき続けた土曜日でした。そんな肩こり・背中凝りの私に、福島が熱心に「鎌倉の梅」の雑誌を見せて誘うのです。「今日これだけ頑張ったし、もう資料が揃わないから、明日は仕事ができないし・・・」と思い、その話に乗ることにしました。その夜のうちに話はトントンとまとまり、娘も行きたいというので、3人で行くことになりました。
 鎌倉へは平成7年7月7日にトライ☆アングルで行ったきりです。江ノ電のフリーチケットでいろいろな場所を乗り降りしました。自由時間になって、私が選んだのは北鎌倉でした。円覚寺・明月院など歩いて回りました。でも、重要なところを封鎖して、公開している部分が少ない状況に落胆した記憶があります。目当てにしていた仏像や庭がほとんど見れなかったのです。そうです。当時の山下は「ちょっとした仏像ファン」だったのです。

 福島は15年ぶりの鎌倉です。「建長寺の門前の店に行こうよ。あの店はうまかったよ。」というので、思い出しました。そういえば、神戸の妹夫婦と鎌倉に行ったとき、選んだ店でした。鯛の刺身がすごく美味しくて、細かい料理の工夫に「さすが鎌倉・・」と納得した店でした。15年たっても覚えている味です。名前も「花ごころ」としっかり出てきます。

 新宿につくと小田急の窓口で往復のロマンスカー・チケットをさっそく購入しました。やっぱり鎌倉はロマンスカーでなくっちゃ。
 そのあこがれのロマンスカーは行きも帰りもガラガラ。行きは一車両10名ぐらい。帰りは4号車には私達3人だけでした。社内販売もなく家族貸し切り状態のロマンスカーでしたが、超くつろいで楽しみました。もちろんイスを回転させて4人テーブルにして行楽しました。

 行きは藤沢で降りて江ノ電に乗りました。江ノ電、初めての娘は「こんな所を通っていく電車があるのか・・」と驚いています。「シャワー浴びてるのを覗かれないのかな・・」と娘は軒さきギリギリに進む江ノ電脇の住宅の人を心配します。「そんなわざと覗かれるようなことはしないよ・・」と私。海が見えるところにくると3人揃って見えやすい山側に移動しました。三井のリハウスのコマーシャルの話をすると娘は「私達もココにリハウスしようよ」と簡単にいいます。海の持ってる力に改めて脱帽。私もちょっと心が動きました。毎日この海を見て暮らしたら、心がずいぶん丈夫になるだろうなぁ・・・。

 福島は藤沢で、目的の「花ごころ」を地元発行のガイドで確認。「まだ、あった、あった。」意気揚々と建長寺を目指す親子3人です。途中の梅はしっかりカメラに納め、香りはしっかり身体の中へ。
 ところがあらあら。
 店があったとおぼしき場所に個人の民家あり。どう考えてもそこに店はあったのです。
 うろちょろしている私達にお向かいの店の主人が声をかけてくれました。「あの、花ごころはここでしたよね。」という福島。「はい、2年前まではやってらしたんですけど、個人の方に売られました。」という返事。
 本当にがっかりした私達はその精進料理「H」で食事することになりました。店はよく混んで、接客も丁寧なんですが、味は可もなく不可もなく・・・というところ。ちょっと甘めの味つけで、とても15年たって訪れようと思うような感じではありませんでした。味を覚えているってすごいことなんですね。

 残念さで口数の少ない私達の前に現れたのが、「パウル・クレー展」のポスター。
 建長寺から鎌倉駅までの途中に「神奈川近代美術館」があります。鶴岡八幡宮内にあり、平家池の横に「イサム・ノグチ」などの数々のアートがおもしろく配置された美術館です。
 その時の企画が偶然、クレー展でした。
 クレーというと西武の宣伝ポスターに使われたりして、人気のある画家です。実は福島が大好きな画家なのです。どこかでクレー展をやっていれば、都内なら出かけてみたいとかねがね言っていたのです。それと絵の好きな娘に美術館に連れて行く約束をしていたのです。その約束もかねがねの希望も一挙に実現した感じです。

 実にパウル・クレーははじけていました。とくに横長モノで長々と思いをタイトルにしている作品には、びっくり。絵の中に記号がびっしりです。普通そんなもの書かないよ、というタイミングなのです。以前造形教室で見た自閉症児のT君の絵そっくりでした。それは「そして私の苦悩をさらに深めるのは君が私の心のうちをついぞ察してくれないことだ」というタイトルでした。その他に鉛筆の線で「なかなか上陸できない」・「不退転」という作品も面白かったです。
 福島は「日光は平原を縞柄にする」のネーミングに笑っていました。「俺より行っちゃってるヤツがいる」と喜んでいるのです。娘が気に入ったのは「昔日の庭に成長するもの」「つくりものの岩」「たそがれてゆく」でした。この「たそがれてゆく」は自分でも描けると豪語するので、「じゃ、描いてみたら」と福島に言われていました。

 鎌倉に行って、昔の味にはふられたけど、パウル・クレーのシャワーをたっぷり浴びて帰ってきた一日でした。息子には小町通りで約束の革製財布を買いました。クレーの絵の後に選んだ革サイフです。めちゃめちゃ渋いお土産です。

2002年2月12日 火曜日
 久々に休日をして、「真っ白の世界」を過ごしてきました。
 泊まるのも滑る場所もお正月のスキーツアーと同じなのですが、私の中では確実に「仕事と休日」の差があるのです。メンバーは福島と娘と娘の友達のたった4人です。山荘に4人だけだと、最後に寝る順番になるのが、なんとなく寂しいので、私は早々に引き上げて床につきました。本当に休日だと実感できるのは「明日の朝のシュミレーション」なしで眠りに落ちる快感です。「仕切らない」「手順を考えない」幸せ・・・です。
 
 私達は学生時代から10年続けて蔵王に滑りにいっていました。宿は毎年同じでした。19才でスキーを始めた私は蔵王しか知りませんでした。たくさんの友人達を誘って、15人前後のツアーを仕立てて5〜6泊していました。塾を21才で開いてからも2月に連休を作って出かけていました。1週間近く「真っ白の世界」にいて、新しい気分で仕事にかえってくるという繰り返しでした。蔵王は仕事をもった私達にとって、気分を切り替えてリフレッシュする大切な場所だったのです。だから、夏にはお金のかかる遊びは一切せず、年に一度の蔵王での豪遊に備えていました。
 
 蔵王ツアーが最後になったのは、たぶん出産です。お腹が大きくなっても滑るという気持ちは私にはなく、子どもを授かってからは「世界」がすべて子ども中心に一変したので、スキーをしたいと感じることはありませんでした。
 そして、4年後。そろそろ雪の世界を・・・・と思い出したのは群馬の「葉留日野山荘」へ行くようになってからです。子ども同士を遊ばせながら、複数の家族でスキー場へ行って、親たちは子ども当番と自由時間を交互に分け合うようなツアーでした。
 保育園の仲間を30名ほど集めて、バスを貸り切ってツアーを企画したこともありました。子どもたちはみんなソリで、大人は順番にソリ当番をしました。かまくら当番になったお父さんは汗だくでスコップをふるっていた光景を思い出します。楽しい楽しい、子育て時代です。自由時間になった私はたった3本のリフトを、背中に羽が生えたようにかっとんで滑っていました。

 そして苗場の山荘建設。どこのゲレンデにも、いける最高の立地です。
 山荘と共にやって来たのは「仕事」としてのスキーでした。楽しいのですが、「子どもの生活を預かる」スキーです。私達は自分たちのスキーのスキルをあげるために、友人を招いてスキー指導を受けたり、本やビデオで指導法を研究しました。
 塾のスキーに初心者で参加した子どもは絶対スキーを好きにさせてみせる・・・という意気込みでやっていました。「誉めて」「励まして」「無理をさせない」スキーです。でも、次第に板が揃って、子どもたちは不思議に上達していきました。山荘でのアフタースキーも楽しく、リピーターが増えてツアーを支えていきました。中には私達の技術を越える参加者も出てきました。今のスキーツアーを支えてくれているのは「人の森」を中心に、そういうグループです。仕事を持ちながら、何とか都合をつけて支えてくれています。
 でもそれと反対に、2〜3年前から、年が追いかけてきました。上級斜面に誘われて、「もう勘弁〜、でも一緒に行かないと危ないから・・・」としぶしぶ38度を滑っていた(落ちていた?)一昨年の福島でした。若い指導体制の必要性をひしひしと感じています。

 この連休、休日としてのスキーを楽しんで、リフレッシュして帰ってきました。
 頭の中から、普段考えていることを追い出して、斜面だけを見て、足裏に伝わる雪の状態だけを感じる時間・・・。目に映るものは「白」だけ・・・。こんな時間を過ごすことで、どこか何かリセットされて、東京の生活に戻ってきたみたいです。

 先週で塾の来年度の在塾確認が終わりました。今週より本格的に新規の出会いが始まります。リセットした頭で2002年をスタートです。

 ふくしまと最近、話しています。
 「蔵王は変わったかな}
 「三吾郎小屋に泊まって、若い時代、滑ったところを滑ってみたいね」
 「我々みたいに6時に起きて滑りにいくスキーヤーはいるのかな」 
 「あの醤油味の玉コンニャクはまだ、あるのだろうか・・・」 

2002年2月5日 火曜日
 思えば、寒いときに生まれたんだなぁと思います。
 幼いとき、「ゆみちゃん(私のこと)と同じ日に生まれた赤ちゃんがおったんやで。同じ村で同じ日に生まれたんやけんど、寒い時期でなぁ。湯たんぽがひとつしかないから、2〜3日で死んでもたんや。」
 「ええっ〜、ほな、私は湯たんぽがなんぼ、あったん?」と聞くと、「ウチは2つあったんや・・・。」と母の答え。
 子ども心に「あ〜あ、湯たんぽで命が決まるのか・・・。」泣けて泣けて仕方がありませんでした。湯たんぽが2つあった我が身の幸運への涙なのか、2〜3日ほどしか寿命をもらわなかった赤ちゃんへの同情か、どちらかはわかりませんでした。(へんな話ですが実話です)

 これも実話ですが、多感な中学3年生の時の話です。
 その当時は70年安保の前年の年でした。世の中が理屈っぽく熱を帯びていたような時代です。中学生の私がビンビン感じる材料はたくさんありました。
 私はその時「30才になったら、死のう」と本気で考えていました。本気です。理由は「大人の作る世界は汚い。みんな年をとると汚い社会を作るだけ。みんな30才で死ねば、きれいな世の中ができる」
 単純明快でしょう?

 そして、その15年後に30才を迎えました。それまでに、塾の生徒に「多感な時感じた30才バイバイ説」を語っていたようで、すごく記憶のいい生徒に、その翌々年に問いつめられた私です。
 私の答は「今も大人が世の中を汚くしているのは事実だけど、死なないよ。一番の理由は30才で子どもが生まれたからね。責任があるから。」でした。
 生徒は「なんだ・・・。」といったような顔をしていたと覚えています。あれは誰だったのかな?

 今日、30+17を数えました。どんどん世の中を汚しているのでしょうか?もう、その自覚もなく、救いようもない大人になっているのでしょうか?

 湯たんぽが2つあった幸運を胸に、美しく年を重ねたいと望みます。 

2002年2月1日 金曜日
 やっと、塾通信が発行できました。大慌てでやっていたのか、マスターの入れ方を間違えて印刷機が動かず、一時は真っ青になりました。でも、簡単なミスに気づき、ぎりぎりに間に合いました。今ホームページも更新しておきましたので、よろしかったら、お読み下さい。をクリックしてください。
 今年の丹誠塾の宣伝方法は今までのとちょっと違います。配りやすい小さなハガキサイズを西東京市中心にポスティングし、興味を引いた人に詳しい案内書を送る・・・という方法です。広範囲にB4版の説明パンフを配ったり、経費をかけてDMで郵送することを見直し、徹底的に「口コミ」シフトにしたのです。基本には経済的な問題がありますが、結局広げてくれているのは今の塾生とその家庭だという事実は動かせないからです。
 来週には遅れていたリニューアル「丹誠塾案内書」ができあがります。デザイン・レイアウトは渡辺のりと担当です。講師の写真も撮り直しました。巻頭の文も彼が書きました。「やってることをきっちり、伝えて、それでも丹誠塾が必要ないと、地域がいうのなら、それでも仕方ない・・。」という気持ちの表れた強気の文章です。たくましくなったなぁ・・、と感じます。強気では今の私は負けています。こういう負け方なら、若いモンにしてもいいかなぁっと思います。

 厳しい状況は3年前から全然変わりません。やはり、前にコラムに書いた吉祥寺「モカ」のように、私たちも「必要な最低限」を求めて、中心を探している作業の途中にあるようです。「モカ」の手本通りにいくかどうか、新規募集作業に集中したいと思います。
 次年度出会う人が次の丹誠塾を作っていく人のような気がします。そしてその人につなげてくれる人は、今現在の丹誠塾を支えてくれている人だと思います。運動会の「大玉送り」のように、丹誠塾は大勢の人たちの手から手へ渡されて、25年つなげられてきたようです。

 もし、お知り合いに手渡ししてくださるなら、「詳しい案内書が必要」と、声をかけてください。でき次第お届けします。 

2002年1月27日 日曜日
 今日は視力の話。
 我が家の4人はみんな視力が低いです。福島と私はメガネで、息子はコンタクトレンズです。娘は家だけメガネで学校では裸眼で生活していました。
 でも、黒板もよく見えてないらしいので、かねがね気にはしていました。どうしても学校へメガネを持っていくのに抵抗があるらしいのです。なんでかなぁ・・・。私には全然わかりませんでした。

 娘は生まれた時、斜傾が激しく、だっこするたびにボキッ、ボキッと音がしていました。福島と「凝りがあるね。これじゃ身体がまっすぐにならないね。毎日マッサージをやってみようか。」という話になり、親はせっせとマッサージをしました。娘はマッサージをされて気持ちよさそうにしています。気のせいか身体の凝りも少なくなっていくようです。
 3ヶ月検診の時、生まれた病院で若い先生に言われました。「これはひどい斜視だ。すぐ手術しないといけない。紹介状を書きますから、大学病院へ言ってください。」実際、目が内側に寄ってる事に気はついていましたが、まだ3ヶ月くらいだと、視力が出てる段階だから、自然とまっすぐになる・・、と思っていたのです。
 もう、私はショックでショックで・・・。しばらくは泣いてくらしていたと思います。めそめそしている私に福島は「僕が東洋医学、君が西洋医学の情報を集めよう。そして二人で今後の事を決めよう。」といいました。
 そして私が知り合いのお医者さんや、その他の医療機関の情報を、福島は針灸・整体などの情報を・・、ガンガン集めました。その時出会った人で「君たちの赤ちゃんの斜視を直す自信はないけど、君たち親の身体の凝りをとって、あげるからおいでよ・・。」といってくれた人がいました。すっとポイントを変えてくれて、気が楽になった覚えがあります。「私達も凝ってんだ!」と気がついたのです。
 そうこうして、最初のショックも吸収して、毎日マッサージの日々が続きました。その間に、紹介された大学病院にも定期的に見せに行っていました。大学病院の先生は「様子を見よう」でした。
 そして誕生を迎える頃になって、大学病院の先生から、「間歇性内斜視という状態ですが、前よりずっと改善されている、今日なんてまっすぐだね。はっきり言えるのは手術の必要はないということと、もう観察もいらないよ。」いわれました。もう、大学病院に見せに来なくてもよいというのです。私と福島は診察室で小躍りして喜びました。自分たちがマッサージをするたびに目がまっすぐになっていく実感があったのですが、医者にハッキリ言ってもらって心底安心でした。

 あれから10年余、娘は寒くなると内側に目が寄り、私達がマッサージをしたり、娘自身にも動眼筋を動かす体操をさせ、「Mちゃん、お母さん2つにみえてるね。ひとつにしてね・・。」と両方で見る訓練をさせてきました。保育園の視力検査の時も、看護婦さんに「Mちゃんだけ、視力の出方が遅い」と言われていました。

 小学5年生で、視力の差があるので専門のお医者さんに相談してメガネをつくりました。でも、娘はいやがって人前ではかけなかったのです。ずっと、まともに見えてなかったじゃないかな。

 息子は高校生になって、さっさとコンタクトレンズを作って生活していました。
 娘は・・。中学1年にコンタクトレンズはどうかな・・と思っていると、偶然あるテレビを見ました。日頃は見ることのない時間帯の番組なんです。「目の健康・・」とかのコーナーで、あの娘の赤ん坊のころ観察し続けてくれた大学の先生が話しているのです。テーマは忘れましたが、「こんな人はコンタクトレンズに・・」というくだりでした。「視力の左右差のある人は、コンタクトレンズを。年齢は自分で洗浄などの世話ができると考えられる年齢から、成長期でもかまいません・・・。」というのです。いろんな人に相談しましたが、こんなにはっきりと方針を出してくれた人がいなかったので、すっきりしました。

 そしてきのう、コンタクトレンズを作りに親子で出かけたのです。その日にレンズができ、着脱の練習をして(私はこ一時間待たされましたが)娘はコンタクト生活が始まりました。
 娘「エエッ〜、みんなズルイ。こんなに見えてんだ。」
 私「メガネかけても、そんなに見えなかった?」
 娘「うん、全然違う。なんとか加工してないんだって。私の前のメガネ。だから、2つに像が見えるんだって。」
 私「エエッ〜、お医者さんに相談して作ったメガネなのにね。じゃ、今度のメガネはその加工してるのね。」
   (コンタクトレンズと一緒にメガネも作ったので・・・)
 娘「あ〜あ、光が違うのよね。今までの私の光は線の束なのよ。でも、光がこんなにキレイだとは知らなかったよ。『めまい・イライラ・どうき・・・・・○○医院・・・』、なんでも、読みたい気分。見えるモノがこんなに多いと、口にだして読んじゃうよ。」
 私「ふ〜ん、そんなもん?」
 娘「田舎のおばあちゃんがテレビの文字を全部、声に出して読むじゃん。あれ、分かるわ。」

 この話を福島にしました。
 彼は「どんな風に光が見えていたんだろう・・・。ちょっと切ないね。何でも、見えるようになったら、今までのような絵は描けないのじゃないかな?」と言っていました。私達は親ばかで、娘の描く絵を素晴らしいと感じているので、こういう言葉が出てきたのです。

 見え方って、人それぞれですよね。同じモノをみても、同じ言葉で確認し合っても、本当は全然別の感じを持っているかも知れませんね。 

2002年1月25日 金曜日
 今日の話はお弁当。
 毎日息子のお弁当を作って朝がスタートします。水曜や木曜は私も帰宅が10時30分ごろになり、それからなんやかんやと12時1時に寝ることになります。翌朝7時前に起き、弁当を作るのは一仕事です。練馬区は中学校も給食なので、高校でやっと弁当仕事に遭遇している母親です。
 息子はでかい2段重ねの弁当箱を愛用しています。下の段にご飯、上におかずです。
 ある時パッとしたおかずがないので、下のご飯に「ひとくふう」と思って、ご飯を2重構造にしました。薄くご飯を敷いてそのうえに「とろろ昆布」や「じゃこ」をのせて、とっておきの醤油をごくごく少々、また薄くご飯を敷いて・・・。よくお母さんのやることです。このときのマッチングが好評で、その後、いろいろなものを仕込んでいます。
 3mm角の海苔に明太子をつぶしたもの、しそのちぎったものに鶏肉ローストの超薄切り、どんとウナギ、ほぐした鮭(刻み皮付き)、すりごまとかつおぶし・・・。たくさんのバリエーションを試しました。見た目は真っ白のご飯です。中になにが仕込んであるのか・・・、お楽しみ。
 息子はヒット作があると、「今日のは良かった。」と言います。何も言わないときは普通です。
 今までのヒットはやはり、「とろろ昆布にじゃこ」かな?「海苔もの」も好評。話は飛びますが、最近海苔がおいしくないですね。値段のせいかと思いますが、海苔は香りが命です。お弁当用にカットしていて、「あ〜、海苔の香り〜、幸せ〜。」という感じがしません。もっと上等の海苔を買わないといけないのでしょうか?値段的には下から2番目くらいを買っているのですが。

 皆さんの家では、どんなお弁当ですか?それともお弁当でしたか?
 私の母は白いご飯に黒ゴマで「山下」とか「おあがり」とか字を書いていました。昼ご飯の時間になって、その文字を見て驚く私を想像して、やめられなかったようです。でも、2学期にもなると飽きたのか、字を書くこともなくなって、普通のごはんになりました。そして同じおかずの繰り返に文句をいうお決まりのセリフが私の口からでていました。「そんなら、つくったらへんから、パンでも買いいな。」とまたお決まりのセリフを返す母でした。母は今ではそんな字を書いていたことも忘れているかもしれません。 

2002年1月21日 月曜日
 毎年のことですが、この時期とてもナーバスです。来年度のクラス編成を決めて各家庭に「来年度も継続して塾に通いますか?」と尋ねる時期だからです。政治家であれば「選挙」、テレビ関係者であれば「視聴率」とでも表すのでしょうか?でも、ちょっと違うかな?塾の場合。
 一年間つきあってみて、もう一年・・とお互いに思えば、つきあいが続くだろうし、何かの事情で、卒業しようと思えば、思い出を残してバイバイとなります。書くとドライに聞こえますが、これが割とじんわりと神経に来るのです。
 来年度の経営規模を決めるという側面もあるけれど、やっぱり、情がわくというのか、離れがたい気分になります。だから、子どもが「来年もよろしく」と継続書類をいち早く持ってきてくれるとやっぱり、うれしいです。
 なかには保護者の方と一年間、十分理解しあってなくて、ただ託児している感じが残り、継続希望を出されても、もう一度同じすれ違いを続ける自信がないときは、「私たちの限界です」ということを伝える場合もありますが、ほんとにレアケースです。

 そして継続書類が出終わると新規募集です。
 明日宣伝用の印刷物の原稿をを業者に持って行きます。今回はポスティング用のハガキを外注します。デザインは渡辺のりとのオリジナルで、「これ以上のものは出来ない!!」と決定した自信作(?)です。

 ご家庭へは継続書類は1月末までに・・。ハガキは2月早々に塾通信とともにお届けします。周りの方に手渡し下さったら、うれしいです。このコラムをお読みになっている方で、ハガキサイズの丹誠塾の案内をおいていただけるお店などをご存じの方は、山下まで声をおかけ下さい。喜んでお渡しします。

 親の掲示板で話題になっていた土曜の活用ですが、福島の発案で「子ども図書室」を開くことになりました。少子化の流れで子ども向けの本(児童図書はもちろん問題集・参考書さえも)が激減です。子どもに残したい良い本を意識的に集め、意識的に子どもに仕掛ける時代になっていると彼は言います。塾の文庫で太刀打ちできるとはおもいませんが、毎週そこへ行けば、誰かいて好きなだけ本が読める・・という空間を作っていこうと言うことになりました。詳しくはご家庭へお届けする大きな茶色の封筒をご覧下さい。
 ホームページでは2月中旬には「子ども図書室」のお誘いを公開します。スタートは2002年4月です。

2002年1月12日 土曜日
 きのう年末年始を東京で過ごした田舎の母が新幹線で帰っていきました。69歳の母は、2年ほど前から高田馬場の変わり様に恐れをなし、単独で東京駅から上石神井までを移動する自信がなくなってしまいました。そこで仕方なく、家の者が迎え送りをすることになり、きのうは私が送っていくことになったのです。
 久しぶりにJR中央線に乗り、運良く座れたのでほっとしていると、右隣の人がパンを取り出して食べだしたのです。左隣の人は前からずっと本を読んでいます。パンを取り出した人は細い指先でパンをつまみ、少しずつ口に放り込んでむしゃむしゃします。それがなんだか心地が悪く、気になってしかたありません。「隣で人に本を読まれても平気なのに、なぜパンを食べられたら、居心地が悪いのか・・・。」中野からお茶の水くらいまでずっと考えていました。
 @そんな至近距離で他人の食事(超個人情報)を感じる事へのとまどい・・。
 A私も食べたいのか・・・。
 B食べかすを私の服に落とされる心配。

 ばかみたいにずっと考えていると、その人は食べ終わってパッパッとかべかすを周りにはらい、今度はメールを打ち始めました。私はその傍若無人さにあきれ、自分のコートについたパンかすを払い返して、その人を観察しました。20代前半の茶髪。黒のスーツにスケルトンの書類入れ。中には不思議なことに体温計が入っています。基礎体温でもつけているのかな、と思っていると、お茶の水でその人はおりました。その時、もっと驚いたことに、細い指から女性だとばかり思っていた人は男性だったのです。いままでの車中の食事など、ぶっ飛んでしまいました。
 ほんとうに都会の電車はミステリアスです。

 塾に帰ってのりとにその話をすると、「他人が車中で食事することへの居心地悪さは自分の行動の中にそれがないからだよ。」とこともなげに言われてしまい、「大正解!」と思い当たりました。私は車中で本を読むことはあっても、食事をすることがないからです。(旅行は除く)
 彼曰く、「今の若い子は自分も車中で食事をするから、全然居心地悪くないと思うよ・・。ぼくはせいぜい飲み物ぐらい、でもその場合は座らない・・」。

 いつから、始まった習慣なんでしょう?この車中食?忙しい生活からなのか、食事のおやつ化なのか?

2002年1月9日 水曜日
 3学期が始まりました。DIGの喧噪の隣でこれを更新しています。やっぱり、塾は子どもの声が響いているのがいいですね。
 年賀状や電話・便りで「ホームページ見てるよ」と言ってくださる方が多く、本当に驚きと共に、嬉しい限りです。こんなつぶやきのような、中途半端なものをたまに覗いてくれてるのかと、よそ行きの気分になってしまいます。

 さて、NPO遊学会と丹誠塾の共催の「雪の教室」は大雪の中で無事終わりました。子どもゆめ基金(独立行政法人国立オリンピック記念青少年綜合センター)の助成を受けているお陰で参加費が22000円と安く、その上、雪道に慣れている伊藤さんのマイクロバスで移動できて、去年よりずっといい条件で行うことができました。去年のように乗用車の乗り合いでツアーを実施していたら、きっとこの雪で身動きのとれない状況に陥っていたのでは、と思っています。

 私は4日間、初心者をずっと担当しました。スキー板にスキーブーツをつける段階から、見せて教えます。ストックの持ち方、そして歩き方・登り方です。初心者がカニ歩きの段階でばててしまいそうな時は人間リフトになって私が斜面を押してあげます。この段階でスキーをあきらめて欲しくないからです。本当は初日は団体レッスンを予約していたのですが、大雪のため私たちの到着が2時間遅れてしまい、キャンセルになってしまったので、私がこの部分からやりました。
 例年、小学4〜5年までの初心者は半日で滑れるようになります。中1くらいになっていても部活でカラダを使っている子ならやはり一日でリフトに乗ってしまうのですが、可哀相なのは日常運動をしてなくて、もう体重が充分ある初心者です。自分の筋力が自分の体重を支えきれないのです。転ぶと起きあがって再出発するのに長時間を要します。そんな時、私の役目は飛んでいった板を取ってきてあげて、再び板を付ける間、励ますことぐらいです。あめ玉を口に放り込んであげることもあります。本当に、斜面で転んで、片足で自分の体重を支えながら、ブーツの底の雪をはらい、スキー板に装着することは至難のわざなのです。
 ある程度制動がきくようになったら、体重の軽い小学生の初心者の場合、一度は私の腕力でリフトに乗せ、今度は私の脚力で斜面を滑らせます。私のスキー板の中に子どものスキー板をはさんで体重を受け止めながら、斜面を滑らせてあげるのです。これを一度やれば、子どもは「今度はひとりで滑る!」と張り切るのです。

 今回のN君の場合、私と一緒にリフトに乗って、斜面を滑ったあとはひとりでやりたくてしかたありません。後ろになり、横になりながら、私は彼の「ひとり初滑り」を見守りますが、最後の斜面で制動がきかず、スピードに乗って滑り降りていきます。後ろから追いかけるのが精一杯です。後ろから見ると彼は糸の切れた凧のように飛んでいきます。私が後ろから「転べ〜、転べ〜。」と叫んでいるのも聞えず、まっすぐに降りていきました。やっと追いついて私が「よく、一度も転ばずに降りてきたね。スゴイね。怖かったら、転べば、止まったのに。」と言うと、彼は「超、速くておもしろかった。ああなったら、もうコレのいうことをきいて乗っていくしかないよ・・・。」と言って、スキー板を指すのです。大正解!そう。ああなったら、むだなことはしないで、もうスキー板の言うとおりに滑り降りるのが一番。初心者の英明な一言にゲレンデで大きな納得をしたヤマシタでした。

 そのあと、私の担当した初心者のN君とO君は西尾氏の指導のもと中級者の斜面に挑戦。こわごわ大きな弧を描いて滑り降りてくるシルエットからは「どんなに急な斜面に立っても自分を信じて、泣き言を言わないで降りるしかない・・・」という言葉が聞えてくるようでした。みごと降りきった2人はいままでの斜面が「超ゆるいよ〜。あそこ滑っちゃったからね。」と自信マンマンでした。

 かくして私の腕から肩にかけてはムキムキの筋肉が出現し、他人のカラダかと思うくらいです。休憩のレストランでこのことに気づいた私はだれかれなく、腕を触らせていますと、中2の男子に「すげ〜、俺の3倍くらいの腕だ〜。」と言われ、内心ショックでした。こんな身体に誰がした!
 

2002年1月2日
 新しい年が明けました。
 早速新年からホームページを開いて下さり、ありがとうございます。今年もよろしくお願いします。
 昨年のお正月には想像もできないほど、ホームページの仕事が増えて、毎日何かの形でパソコンを触っている一年でした。「便利なものは時間を食う・・・。」これを実感した一年でした。今年はあまり時間を食われないで、便利さだけを拝借したいです。

 さて、明日からNPO遊学会と丹誠塾の共催のスキーツアーが始まります。腰痛の福島に替わって、私がゲレンデのスタッフもやることになるので、今日から料理を準備しています。明日の夕食のカレーです。お正月2日からこんなに仕事をしてると、今年が猛烈に忙しい年になりそうですが、そうもいってられないです。カレーを30人分仕込んで12リットルの容器にいれて明日出発します。
 幸い、人の森のメンバーがスタッフを申し出てくれて山荘を守ってくれます。彼女に料理の下準備を任せて、46才華麗に滑ってまいります。

コラムは1月24日からスタートしています。以前のものをお読みになりたい方は最新版巻末に戻って下さい。クリックして下さい。