山下由美子の山森(やまもり)ばなし
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2008年12月29日
 暮れの大掃除もせずに1日読んだ本がありました。一昨日、「あなたも読みたいだろうから」と2冊福島が買ってきた吉祥寺もかの標(しめぎ)さんの本です。さっき同時に読み終わりました。(「コーヒーの鬼がゆく」嶋中労著:中央公論新社)
 吉祥寺もかの店主標さんはこのコラムにたびたび書かせていただいた人物で、昨年のクリスマスイブに急逝されたコーヒーの求道者とも言える人でした。私たちは若い時から、その味に魅了され、店にも行き、豆売りに徹してからはずっと豆を買い続けていました。「上石神井の福島」というとすぐ分かってくれて、一応常連の端くれにはいれてもらっていたこと、そして、彼の生き様を長く、近くで見させてもらえたことを誇りに感じている2人です。
 途中、もかが休業したときは他のいろいろな店の味を試しましたが思うような味に出会わなかったので、コーヒーをやめようと思っていた矢先、店が再開してホッと胸をなで下ろしたこともありました。熱烈な吉祥寺もかのファンでした。
 今年の5月に東北旅行の帰りに鶴岡のお弟子さんの店「コフィア」に寄り、師匠の話やコーヒーの話に花が咲き、お弟子さんの門脇さんの入れて下さるコーヒーをつるつると飲んで、「あ〜あ、コーヒーってやっぱり美味しい・・」と感じて帰ってきました。一杯目はマンデリン、2杯目はしめぎモカを味わわせてもらいました。その後、私たちは専ら門脇さんの「コファア」へ豆の注文をお願いしています。

 本の話。標さんは「日本の99パーセントがうまいコーヒーがどんなもんか、関心がない。喉がかわけば、缶コーヒーだってインスタントだって飲んじゃう・・。結局彼らにとって、たかがコーヒーなんだよ」と世間の無理解に苦しみ、1人孤独な隠遁の人になってしまった感があると著者は記します。著者は魯山人の話を引き合いに出し、「絶対音感」のごとく、「うまい料理とまずい料理」を識別する能力がある人、いいかえるなら、絶対的にうまいと感じる味覚のポイントを長期にわたる記憶として保持できる人がいること、標氏もその1人である。」と説明します。

 話はコーヒーの産地、、焙煎、抽出方法、今のスペシャルティーコーヒーブームの話に広がっていきます。そしていろんな人物を通して標さんの生き様そのものを浮かび上がらせていきます。読み進みながら、そのコーヒーへの姿勢に震えがくるほど驚き、生涯をかけて「感動するコーヒー」を追い求めた彼の生き様と同時代を生きてきたというだけで、私たちにとってはそれが大きな誇りであり、深い感動だと知りました。
 奥様は未だにコーヒーが飲めない・・・彼がいなくなってしまった今、飲もうと思えない。かなうことなら彼のいれたコーヒーを飲みたいとおっしゃっているそうです。

 今月に入って、息子が1月からの本格的な仕事がスタートする前にと、隣のボロ屋の大整理を率先してやってくれました。その時、思いがけず台所の収納から出てきたのが標さんの豆です。密封瓶に入っていたものの焙煎して既に2年以上は経っている豆です。引っ越しのどさくさに紛れてそのままになっていました。二度と手に入らない貴重な遺品です。当時は当たり前に存在し、電話さえかければ、何時でも手には入ったものでした。ずっとそんなことが続くと思っていました。でも、それが今となっては奇跡的なことになってしまいました。福島と大切にしようと話しました。

 昨年の今頃はもかの休業を気にしながら過ごした年末でした。本という形で、自分たちのコーヒーの師匠であり、人生の指標となる先達の記録が残ることを嬉しく思い、ここに紹介させて頂きました。
←「コーヒーの鬼がゆく」 ←となりのボロ屋から出てきた標さんの作品。今も綺麗な豆です。

2008年12月23日
 「研修旅行」
 先日、フェローや行事スタッフと苗場へ研修・慰安旅行に行ってきました。これは今年から始まった企画で、主に来年の春合宿とサマースクールのアイデアをふくらませる話し合いを持ち、かつ今年の貢献に感謝していろんな場所で楽しんでもらおうという企画でした。呼びかけた人は十数人いましたが、日程調整が付かない人もいて、参加したのは7名でした。それに私たち大人スタッフ5名を加えて、12名の若者・大人が1泊2日のツアーを楽しみました。(参加できなかったスタッフの人はごめんなさいね)
 話し合い以外の時間は、ゆっくり美味しいものを食べ、ホンモノの温泉に入ることが目的でした。お店と温泉はフクセンと私が選びました。
 
 まず初日の昼食は駒寄スマートを下りて「食の駅」という地元食材を売る大きな直売所の片隅にあるジンギスカン。注文してからカットして出てくるラムチョップが美味しい。ほどよいラムの香りのついた野菜たっぷりの食事です。平日しかランチをやってないのにもかかわらず、交渉してランチセットにしてもらいました。ドームの鉄板でラムを食べるのはほとんどの若者が初めて。「君らは幸せよ。ラムとの出会いがこんなに美味しいもので。輸入の冷凍ラムから出会うと、あの臭みがイヤだ・・・、と敬遠する人がたくさんいるから・・・。」とは私のちょっとよけいな説明。
 
 ジンギスカンの後は群馬大学近くのクアイテルメ(0272330202)という温泉です。整形外科の病院が経営する温泉は食事施設はないものの、ホンモノの温泉。掛け流し、循環なし、塩素消毒なしの優良温泉です。ここの特徴は油臭。色は濃い緑色で、源泉投入付近は強烈な油臭にフラフラになります。歩行浴の浴槽があり、患者さんのためのようです。みんなぽかぽかになって山荘へ向かいました。山荘ではボイラー室の片づけと研修旅行メインの話し合いが待っていました。東京と比べて温度が半端なく低いので、若者も完全防備で作業していました。
 日が落ちてからは夕食です。メニューは山下作、牛スネ肉の20時間ビーフシチューと食の駅で買ったほうれん草の3部作です。ゴマよごし、天然わさび和え、梅じゃこあえの三つの味のほうれん草を用意しました。前日作ったきんぴらもあります。それから、食の駅にあったベビーホタテのバジルオイル蒸しも色を添えました。たまたま山荘の冷蔵庫に我が家のバジルオイルが忘れ物であったので、一般的な酒蒸しじゃなく、目先を変えました。

 翌日はわざとご飯とみそ汁というシンプルな朝食をとり、9時には山荘を後にしました。行く先は六日町です。高い建物のない平坦な景色の向こうに山並みが現れます。八海山です。実際には八海山という山はなく六日町の八つの山の連なりを言います。その景色を背景にトミオカホワイト美術館はありました。富岡惣一郎さんの作品が静かに私たちを待っていてくれました。若者も大人もアートの世界にしばし浸りました。ラウンジでいろいろな美術本を読んだりして日だまりの中ゆっくりお昼を待ちました。

 次は八海山泉ビレッジ(0257753939)という場所です。まず、到着すると売店で石窯焼きのパンを予約します。若者も負けずに予約していました。もっちりハードなイギリス型のトーストで、分厚く7つにカットして食べるのが最高です。560円が決して高いとは思わない絶品のハードトーストなのです。お土産ものなどを見て、レストランに11時30分に入り、パスタやピザを地ビールと楽しんでいるとカンツォーネが始まりました。激しくギターをかき鳴らしながら、歌いあげる男性歌手は、不思議な雰囲気のある人でした。一番拍手の大きい私たちのテーブルに向かって、曲の紹介をしてくれました。

 デザートまで充分満足した私たちは最後の温泉、五十沢(いかざわ)温泉ゆもと館(0257742876)へ向かいました。泉ビレッジから10分程度です。そこは女湯男湯の他に開放的な露天の混浴がある旅館です。ここもアルカリ単純泉ながらすこし玉子臭のある、循環、消毒なしの優良温泉です。もちろん源泉掛け流しをうたってあります。そこで若者たちは混浴という新しい体験をすることになります。混浴から出てきた若者の1人が腰に手を当てて牛乳を飲んでいた姿が印象的でした。

 福島と帰りに「今度は自分たちが企画してこのコースで回りの人を楽しませてあげる若者がいると嬉しいね・・・」と話しました。なぜ、逐一ツアーの報告をしたかというと、コラムをご覧の方にも群馬、新潟方面に行かれる場合はちょっと気にとめておいて欲しいお店や温泉を紹介したかったからです。私の携帯にある電話番号を( )でご紹介しました。 
食の駅でジンギスカン 前橋温泉クアイテルメ 会議。これがメイン トミオカホワイト美術館 カンツォーネ歌手 五十温泉ゆもと館で

2008年12月16日
 「食べること」
 我が家は少し世間の皆さんと「食べること」では変わっているようです。
 
 そのひとつ、電子レンジがありません。過去に1年ほど使ったことがありますが、便利だけど、レンジで温めるとなんだか、美味しくないことに気が付いたから・・・・。使いながら、不自然だなと感じていたから・・・。ラップの張り付く感じが苦手だから・・・。もしかしたら、害があるかもと指摘した知人がいたから・・・。などの理由です。
  
 ふたつめに、ファーストフードを食べたことがほとんどありません。家族でマックに言ったのは1回、行事でモスバーガーを利用したのが1回。その他のバーガー屋さんも2〜3度いったくらいです。コンビニの食事も今まであまり利用したことがありません。これは味がイマイチなのに、とても割高な感じがするから・・・。特にフクセンがコンビニ弁当が苦手です。せいぜいお赤飯のおにぎりを利用するくらいです。(ちょっとモスバーガーは別かと思いますが、リピーターにはなりませんでした)
 
 みっつめに、外食は家でつくれないものしか利用しません。家でできるものや、バイトの高校生が厨房でチンして出してくるような家の水準にも及ばないものはお金を出す価値がないと思っています。これは福島家の家訓のようなもので、田舎育ちの私以上にフクセンは食に厳しい「家ごはん」派のお母さんに育てられて、「外で食べるのは家で作れないもの・・・」と決めていたようです。だから、外で食事をするときは手を抜かずに店を選びます。決してグルメを気取るわけではありません。若い時に便利で安いだけの外食を経験して、家庭の食に優るものは「職人の料理」だけ、「職人の料理」が安いわけがない・・・、という結論に達したのです。だから、店を選んで、そばの最後の一本まで、大葉の一枚まで、味わって食べます。お店から出て、「せーのー3・・・・」「せーのー2.5・・・」と店を評価をしています。回転寿司に3回行くより、対面の寿司に1回行く方を選びます。
 
 よっつめ、「残食」をしないことです。子どもが小さいころは、田無にいたので、有機野菜のグループに入れてもらって、1週間分の無農薬野菜を仲間で分けて食べていました。みんな私より年配の方々ばかりでしたので、そこで料理方法をたくさん教わりました。大量に新しょうががやって来たときは「甘酢に漬けなさい」とか、大量のソラマメが来たときはゆでつぶしてサンドイッチにして、その旨さにひっくり返ったこともありました。大量の野菜を捨てたりしないで、最後まで使い切る工夫はとにかく料理を考えることでした。
 その流れで塾の合宿も「残食」をさせません。私の説明は「この食材はいろんな人の努力でここまでやって来ました。この食材たちはゴミになって捨てられるために育ってきたのではありません。あなたの身体に入ってあなたの命に生まれ変わるためにここまで育ってきたのです。残して捨てることは絶対ありません。食べられる分だけ取って下さい。そしてお代わりをたくさんして下さい。」です。

 今、娘がパン作りに懸命です。なかなか思うように焼けなくて苦労しています。だから、たまには息抜きにパウンドケーキを焼きます。かぼちゃやバナナのパウンドケーキは絶品でパンの腕前より数段上等です。昨夜も遅くから焼いていました。今朝、一階から兄もパウンドケーキ目指して「おはよう」とやってきました。先週はのりとくんのジュニアにあげるんだと焼いていましたが、今朝のはその改良編。これこそ店でも売ってない我が家の味です。画像だけでも紹介します。 
ベルフルールのキルシュを目標して焼いているが・・・・。 今朝のバナナパウンドケーキ。

2008年12月6日
 「再会」
 ある少年と再会しました。
 3年前は彼は小学6年生、なかなか学校に適応しないという相談で塾にやってきました。そして、夏休みの山荘の企画に参加しました。私と接点があったのはその山荘企画のみで、学習部門ではお付き合いがありませんでした。私は彼によって、いろいろなことを教わりました。一つは弱い者に共振する心を彼が持っていること。私が山荘でゴンタな子どもを叱っていました。彼は体調がすぐれず、スタッフと一緒に山荘内で静かに過ごしていました。そこで私が子どもを叱っている光景に出くわします。叱られている子は当然として受け止めているのですが、遠くでトラブルを感じている彼が敏感に反応して、急に騒ぎ出したのです。私はあとでスタッフに「彼はヤマシタ先生の叱っている言葉に反応してパニックになったみたい」と教えられて、「ええっ」とびっくりした覚えがあります。
 もう一つは、4泊5日の最終日に温泉で汗を流し、貸し切った大広間で参加者全員で、そばやうどんの昼食を取っていた時の光景です。大広間には50名近い人間が座っています。彼は入り口付近で立ち止まっているのです。早く入って席につき、みんなで昼食をいただくタイミングでしたが、彼が広間に入るのを拒否しているのです。スタッフがすぐ彼のもとへ走って、彼に事情を尋ねてから、「みんな、こっちを見るな・・・!」と叫びました。なりゆきで全員よそをむくと、彼はそのすきにすんなり、席につくことができました。ここで私が学習したことは、彼はみんなの視線を「攻撃」として感じていたということです。視線も一つの暴力ということに気付いたのはこのときです。
 そんな3年前のことを、すっかり忘れていたヤマシタのもとに、縁あって、彼はやってきました。一緒に英語の勉強をすることになりました。3年たった彼は背も伸び、立派な中学3年生になって現れました。勉強を始めるにあたって、あまり雑談をしないで、今後のやり方を淡々と打ち合わせてスタートしました。・・・・彼も私という人間を探っています。私もそれ以上に探っています。そんな時間が30分ほど過ぎた頃、私が「私はあなたが小学6年生のとき勉強は一緒にしなかったけど、山荘に行ったときだけ、一緒になったね。覚えてますか?」と話しかけました。(なぜ、最初にフリートークをしなかったかというと、彼が勉強というフォームを作ってから、人間関係をスタートした方が楽そうにみえたからです。)
 彼は言います。「はい、山荘の合宿の時の先生でしたね。あの時はお世話をかけました。熱を出してしまって、いろんな方に面倒かけました。」というのです。その言葉を聞いてびっくり!。覚えていたんだ、そして、当時回りの人への興味がほとんどなかった様に見えていた彼が、3年経って、あのときはお世話になりました・・・といって時間を超えて感謝を表している・・・。彼の成長を目の当たりにして、心からびっくりし、そして嬉しかったです。
 彼の適応の難しさはまだまだ、残っているとは思います。彼の特徴として今言えることは、「不安」を取り除いてあげると、彼本来の姿が現れやすいということです。当時、(といってもたった山荘での5日間の付き合いですが、)なんとなく感じていただけで、言葉にならなかった彼の特徴を、成長した彼を見て、思い当たりました。
 
 あとで、塾から卒業した後の、彼の家庭との関わりを福島から聞きました。ことある毎にお母さんは福島にいろいろ彼のことを報告してくれていたようです。福島曰く、彼の成長は、「この子はきっと成長する」「でもかりに成長しなくても、そのままでも私はこの子が愛おしい」という親ごさんのまなざしの中で育った賜物だということです。

2008年11月26日
「辛口人間ウォッチング」
 新しい言葉を一つ。〜成人式の前撮り〜
 成人式は1月の大寒前、雪も降り、晴れ着には不向きなシーズン。そこで気候の良いときに一度振り袖を着て、まずは記念撮影をしておくというイベント。わが娘が二十歳の記念に振り袖を着たいと言い出してから、いろいろ考えた結果、いとこの新調の振り袖を借り受け、式の前のコンディションの良い時期に写真を撮っておこうと二人で結論を出したのが、今年の春。どうもこのやり方が一般に行われているらしく、成人式の前撮りというらしい。
 そのイベントをこの前の日曜日に実行しました。朝10時に予約した美容院へ娘と二人で出かけました。私の役目は荷物持ちと支払い。イスが3つしかない小さな美容室は娘が日常利用している店で、ごく近所にあります。すでに2人の年配の方がパーマやセットをしていました。娘はすぐ大きな鏡の前に座って、メイクと髪結いがスタートしました。それに1時間、後半の振り袖の着付けにたっぷり1時間・・・・。合計2時間を隅っこのイスで私は待っていました。その間は持参した文庫本を読みながら、次々と入店するお客さんを見て、窮屈な格好で美容室の空気を感じていました。私にとって美容室は異空間です。中学2年生からずっと自分の髪の毛をカットしている私は、今までに4〜5回しか経験がありません。美容室にいってカットしてもすぐ家で自分でやり直すので、2度続けて通った店はありません。
 だから、美容室という空間がとても興味津々で文庫本より面白かったのです。
 お客さんにはいろんなタイプがあるようです。人生の先輩としていろいろお節介に訓辞をたれるタイプ、日常のあることを馴染みの担当スタッフに愚痴をはき出すタイプ、露悪的に自分のだらしない努力しないことを話すタイプ・・・。と、その時、年配の婦人が入ってきて、「予約してないけど、やってくれる?」と顧客カードを差し出します。受付のスタッフは「ええ、すみません。成人式の前撮りがあって、あいにく午前中は・・・・・。お昼ではいけませんか?」その婦人は「じゃいいわ、もうこのカード返すから・・・・」と怒って出て行ってしまいました。そのとたん美容室の空気がピーンと張りました。私もガラス張りの店内からぷりぷり帰るご婦人を目で追っていました。『何もそんなに急に沸点に達しなくても・・・・・』というのが私の感想。
 2時間いて分かったこと。ここはおしゃべりでなりたっている空間であること。お客さんが上位で担当スタッフは下位の存在。お客さんはそれぞれ自分の希望するようなやり方で扱われていることが当たり前になっている。他では普通のおばちゃんもここでは必要以上のべんちゃらに横柄になり、上から目線で人をみること。また、自分の情報を限りなく野放図に発表するということ・・・。

 娘の振り袖の装いが完成したころ、私の人間ウォッチングも終了しました。初めは面白かったですが、ちょっとばかり疲れました。この感想は娘も同じだったようです。その後撮影を終えたあとは、家族4人で息子の就職決定祝いと娘の振り袖記念を兼ねてソーセージと地ビールの店に繰り出し、帰りに初めてジョイフルホンダで買い物をして、夜には25キロの小麦粉を小分けしました。小麦粉は娘がパン焼きに夢中になって、タイプ55という小麦粉を大量に購入したので保存用に小分けする必要があったからです。

 そして二日後、静かな休日を裏磐梯で過ごしていた火曜日の朝、久々にやってきました。あのぎっくり腰が・・・。それは音もなく現れ、その朝の明るい楽しげな高揚感を一気に下げてくれました。あ〜あ、なんで・・・・。

 1日経った今はなんで・・・・の答えが絞れます。日曜日のいろいろなやり付けないことへの疲れに+小麦粉を小分けする時の中腰スタイルです。それに温泉の後に裏磐梯の寒さによる冷えが急激に加わったことに起因すると思います。
 今はとにかく、静かに暖かく過ごしています。

2008年11月17日
 「完全料理アイテム」
 最近、めっきり聞かない若い人の貧乏自慢。
 私たちは21〜22歳で塾を初め、最初の給料が月額1万円、次の年が3万円、、3万円が3年続いて5年目が6万円・・・・・・。あとは人並み低空飛行・・・。32年前の話なので物価変動を差し引いても、やはり貧乏。同級生が就職していく中で、そんな貧乏生活を続けたのは、塾が面白かったからです。当時は持ち出しをしながら、キャンプをやっていました。行事をやるたびに足が出る。ある時の会議で決めたことがありました。「行事をやって、赤字を出すことはしない。でないと行事が続かないから・・・・・」事業を運営しているものとしては、スキルは最低だったと思います。30年前はアウトドアという流行もなく、キャンプをするのは子どもたちにとって、すごく貴重なイベントでした。ただ、そんなことにお金を出すという発想が親にはまだなく、参加費は最低限の実費ということになっていました。2泊で2000〜3000円くらいだったように記憶しています。これでは、運搬にかかる費用やテントを買う費用が捻出できません。もちろんスタッフは全員ボランティアです。でも、そんなキャンプが本当に面白かったのです。
 本題です。貧乏自慢。
 当時から私たちの家財道具はほとんど、人からのもらい物または街角の粗大ごみから・・・・。いろんなものが集積所にありました。家具はそこから運んでいました。新品を買うということがめったにありませんでした。53になって、ふと考えると「私は料理道具を買ったことがないな・・・・」という事実です。唯一ペティナイフは大学時代に買っています。鷺宮のOKストアの店頭販売でどうしても欲しくなって20歳のころ「木屋」のペティナイフを買って25年間使いました。大変気に入って、とうとう柄がはずれたものを処分するときは残念でした
 そして、このたび、包丁とまな板を買いました。まな板は魚専用のガラス製とハンディな小型と本格派の3つ。包丁は「木屋」の牛刀です。53にして新婚のような新品でスタートしている私の料理ライフです。
 山や森に全然関係ありませんが、そこからの収穫物を料理する大事なアイテムをご紹介します。右は今朝、完全アイテムで作ったカワハギの煮付け。
後ろのカラフルなのが魚用のまな板。手前がハンディなまな板。新品の包丁で、ゆずのきざみをつくった所。 完全アイテムで早朝から料理しています

2008年11月11日
 「子どものころの基地遊び」
 一昨日、吉見の丘陵地で「沸石」という石を取りにいってきました。「沸石」は水晶ほどの豪華な感じはありませんが、ルーペで覗くと独特の世界が広がっています。内部に水が含まれているため加熱すると沸騰しているように見えることから「沸石」と呼ばれているようです。今回観察したのは「菱沸石」と呼ばれる白く輝いているものです。子どもたちはルーペを片手に思い思いの場所で美しい世界に魅入っていました。
 そのフィールドは以前に福島と下見した場所で、吉見百穴の近くです。秋が深まって、どんぐりもたくさん落ちていて、色づいたカラスウリがいたるところで彩りを添えている、のどかな田舎風景でした。あいにく、お天気はくもりっぱなし。太陽が顔を出すチャンスはありませんでしたが、寒さ対策も万全で子どもたちはよく遊びました。
 小高い丘になっている「角閃岩」の露頭の回りに低木の松が植わっています。その低い松に二つほど、近所の子どもたちが作ったのか、遊びの基地がありました。今風に言えばツリーハウスです。松の枝に板切れを渡し、見晴らしのよい場所をつくってあります。きっと、そこで敵の襲来を警戒していたのでしょう?屋根はないので正式にはハウスとは呼べませんが、雰囲気は「隠れ家」です。太い枝には縄を結びつけてあります。小さなブランコです。参加した子どもたちはすぐ見つけて、その出来上がった基地で遊び始めました。偶然、落ちている刀のようなものを拾って、異常にハイテンションになっていた子どももいます。子どもは同じように空想して遊ぶもんだな・・・とほっとしたひとときでした。私は小学校時代に作った裏山の基地を思い出しました。竹林に隣接したそのやぶは熊笹が茂っていて、大木も倒れていて、なんだかジャングルみたいで、よく妹をつれて遊びにいきました。熊笹を刈って、スペースを増やし、「私たちの基地にしよう、秘密だよ・・・・」と姉妹3人で盛り上がっていました。
 
 「岩の間から今にもショッカーが出てきそうだね」という私の感想に福島から返ってきた言葉は「古いよ、ショッカーなんて、子どもは知らないよ」でした。

 松の根本にハナイグチがたくさん出ていたので、私はそっちの方に夢中になってしまいました。良い形のハナイグチを20個ほど収穫しました。調理しやすいポルチーニのような美味しいきのこです。土曜日届いたカニと一緒に翌日、いただきました。
 曇り空ながら、楽しい日曜日でした。デジカメを忘れたので、ツリーハウスがお見せできないのが残念です。

2008年10月28日
 「水晶の山へ行きました」
 東京を出て中央高速を走りはじめたらパラパラが雨が落ちてきて、八王子あたりでいよいよ本格的に雨になってしまいました。ただ、甲府の晴天率の高さを実感していた私は西の空も明るいし、楽観していました。予想通り、笹子トンネルを抜けたら、青空。やった〜!予定より早く竹森に到着。タナベエンジニアリングの方が駐車場に張り紙をして、私たちのマイクロの場所を確保しておいてくれました。昨年同様細かい心配りにほっとした感じがします。
 水晶神社までの道のりは年毎に、体力の低下を感じます。2001年頃は坂道を走ってみんなを追い越してビデオを回していた山下も、昨年あたりから山道で遅れます。福島からは「下の子ども担当」を言い渡され、「もう山下は上のガレ場の坂道は上れないよ」と烙印を押されてしまいました。下でもちゃんと取れるので別に不満はありません。
 参加の子どもたちはほとんどが難関コースを希望。2名の下のガレ場を希望した子どもと、帰りのマイクロ運転の体力を温存するのりとくんの4人で緩やかな坂道を歩き、下のガレ場に向かいました。
 落葉前の斜面は、沢筋がはっきり分かり、そこの土のあるところがキラキラ輝いています。結晶したのも小さいながら、混じっています。上のガレ場に上った子どもたちの声がしばらく聞こえていましたが、いつのまにが聞こえなくなりました。かわりに密かにキノコを取る人の熊よけの鈴が聞こえていました。その人たちは農道いっぱい自動車を駐車し、子どもたちの通り道をふさいで通行に難儀しているのに一言もなく、横を向いて私たちをとおり過ごしました。私はわざと「こんにちは!」と声をかけましたが、「後ろめたそうな」男性二人で、きっと野生キノコの業者だったのでしょう。山やキノコが好きで、楽しみで山に入る三村さんとは全然、違う雰囲気の人たちでした。
 子どもたちは思い思いの保存ケースを持ってきて収穫物をしまい、品評会にはとっておきを出しました。審査は若手のスタッフたちです。結果クリスタルキングは昨年のチャンピオンが連続制覇を達成しました。小学2年生のチャンピオンはルビーのように赤茶色に結晶した水晶で他の水晶を圧倒しました。
 現地を予定より20分早く出発したおかげで、渋滞は上の原で1キロ、小仏トンネルで3キロだけで、予定の5時より早く西東京に帰り着きました。後で渋滞している中央高速の情報をゆったり気分で聞いていた福島と山下でした。来年もこの作戦で行こうと話しました。
←光る石を拾って2時間近くがあっという間に過ぎてしまいます ←画像から活動場所は斜面だということがわかるでしょう? ←みごとクリスタルキングの座を守ることになった水晶

2008年10月23日
 今年のきのこは最高です。先日、三村さんが呼んで下さったので、小谷へ行ってきました。これで4年目を迎えます。今回は今までの中で一番の収穫でした。ナメコ、ブナハリタケ、キナメツムタケ、ムキタケ、ナラタケがたくさん待っていてくれました。それも藪の中ではなくて歩いている登山道の近くです。ナラタケのシロを見た時は思わず、声がでていた三村さんでした。私たち女性を登山道に残し、男性陣は藪の中を直下しました。だいたい同時間に車に到着して、収穫物を整理しました。初心者の参加者は全部のきのこを三村さんの鑑定をうけて保冷庫にしまいました。
 帰りついたのが10時を過ぎていたので、きのこの下処理は翌日の早朝に回しました。
 きのこは探して取るのも楽しいですが、料理を考えながら下処理をするのも楽しいです。下のリストは今年のきのこ料理です。

 *きのこ三昧のお汁、チキンのカリカリ焼きクリームきのこソースかけ・・・・・・これはキノコツアーで
 *自宅にて・・・・マイタケとハナイグチの春巻き、ナラタケ、ムキタケ、ブナハリタケと里芋の煮物、里芋をこんにゃく、牛蒡に代えた野生キノコ三昧の煮物。ダシはナラタケのスープでした。
天然のなめこ ナラタケのシロ ナラタケを洗った所 貴重なナラタケ汁 各種野生きのこ

2008年10月16日
「井上陽水登場の時代」
 塾の「きのこツアー」は無事終わりました。
 いろんな事情で参加者は例年より少なかったですが、きのこの先生の三村さんのお連れ合いも来荘して下さり、楽しいツアーになりました。熱い三村さんにクールな奥方の名コンビでした。

 その行き帰りに我が車は二人だけだったこともあり、福島が用意したCDをかけながら、ドライブして行きました。その中に1つ「井上陽水のベスト」が入っていました。久々に聞く曲の数々でした。本当に久々だったので、すごく新鮮で曲が変わるたびに歌詞を取り上げて「懐かしい」、「あり得ない」とか「いい加減・・」とか、二人で盛り上がって、言いたい放題の車中でした。

       ♪都会には自殺する若者が増えている
       今朝きた新聞の片隅に書いている
       それより問題は今日の雨、傘がない・・・・・♪♪♪

               ♪窓の外ではリンゴ売り
               声をからしてリンゴ売り
               きっと誰かがふざけて
               リンゴ売りのまねをしているだけなんだろ・・・・・・・♪♪♪

 これは懐かしい!
 陽水が私の記憶の中で登場してきたのは1972年。反戦フォークが70年安保、72年の沖縄返還と歴史が進み、世間に向かって若者が絞り出すように歌っていたフォークがいつのまにか、「楽しければいい。」という我が内なる魂へのメッセージソングになっていった時代でした。「そんなフォークは現状肯定のへなちょこの唄だ」と批判した大人も大勢いました。今もよく覚えています。

 1972年といえば、高校2年。当時姫路の私立高校に通っていた私は御幸通りが通学路でした。その道でよく見かけた光景。不思議とはっきり思い出す光景です。市内の某女子校と某男子校の生徒らが楽しげに闊歩する姿。女の子はマッシュルームカットにチェックのミニスカート。数人の男の子を従え、小脇に吉田拓郎のLPレコードを抱えています。何度会っても同じLPを抱えていたので、それが彼女のファッションだったみたいです。とりまきの男子のメンツは変わってもアイテムのLPはかわりませんでした。
 私はその当時、なんとなく吉田拓郎の歌詞が苦手で、「けっ、かっこ悪!」と思って、1人で本屋回りを楽しんでいました。当時、通りに3つあった本屋に寄るのが日課でした。何の用もないのに、本屋に寄って本の背表紙を眺めるのが、とても好きな時間でした。そのころには、ずっぽり松本清張の世界にはまり、文庫は全部読んでいました。かなりの言葉や常識を彼の世界から吸収し、気分は大人になっていた生意気盛りの時代でした。その時代の本屋には独特のにおいがあり、そのにおいを嗅ぐと「知らないことを知る」わくわく感が湧いてくる空間でした。

 車の中で陽水の唄を聞きながら、1972年にしばしタイムトリップしていた、やましたゆみこでした。 

2008年10月9日
 手の指紋って、年をとるとすり減るのでしょうか?
 昨日、立て続けに物を落としました。最初は高いところにある書類のファイル。次は丸い茶筒。最後は冷蔵庫のヨーグルトです。奥にあるのを無理矢理、片手で取り出そうとして、途中で手が滑り、身体をすり抜けて台所の床へガッチャーン〜。冷蔵庫の扉、近くのラップ、ホイル類、私の服、ソックス、もちろん床2m程を白いドットが広がっていました。一瞬何が起こったか?唖然としていた私も「やっちまったな、歴史的な失敗だ!」と驚きました。反射も鈍く、身体をすり抜ける前にキャッチするタイミングを逃したこと、まき散らすように蓋が開いて、落下したこと・・・。どれも運悪く運んだことに「ええっ!」と驚いたのです。
 まず、ヨーグルトを拾って中身がほとんど無いのを確認し、流しに保管。次は通常ボロ布を小さく切って油ふきに使っているものが手の届く距離にあったので、冷蔵庫、ラップ類、床とヨーグルトをぬぐっていきました。湿った布より乾いた物の方がよく拭き取れました。その場で服もソックスも脱いで、洗面所でヨーグルトを水で流し洗いします。このあたりで疲労がピーク「あ〜あ、何でこうなるの!」と独り言を言っています。娘は最初のガッチャーン〜で「どうしたの?」と声をかけてきましたが、私が「ちょっと手が滑って今片づけてるから大丈夫」の返事に、助っ人する気配はありません。わかりやすい関係で、助けを呼ばないと来ないのです。
 服も着替え、残ったヨーグルトを食べ終えて思ったこと。「これから片手で仕事はできない・・・・・・」何でも身体の中心でものを捕らえ、全力で向かわないと失敗するという教訓でした。子どもが小さいとき、牛乳をこぼしたり、ものをぶちまけたりして、よく床掃除をさせられました。そんなとき「両方のおててで持っていたの?」と聞いて「そうだ」と答えたら、「じゃ仕方ないね」と許し、片方でうかうか失敗してたら、「だめでしょ、今度から両方のおててで持ってね」と叱っていました。
 そうだ!この段階がやって来たんだ。子どもらは成人し、筋肉、バランスも完成をむかえ、どんな無理な格好でも片手でクリアします。今度は私が子どもから「両方のおててでやってね」と釘を刺される段階になってきたのです。!

 経年で筋肉が減少し反射も鈍り、前クリアしたことができなくなるということ。ヨーグルト騒動はこの事実を私に教えてくれました。

おまけが一つ。その時加熱していたカレーが、騒動で忘れられて焦げ付き、底面1cmはおだぶつになりました・・・。 

2008年10月2日
 日曜日のアサギマダラのマーキングに続き、昨日都民の日、化石発掘体験も「晴れ女」の私の功績か、雨にたたられず無事、活動を終えることができました。
 日曜日は多少気温が低いものの、雨もなく曇りの1日でした。フィールドの赤城自然園では、11時を過ぎた頃からチラホラ、アサギマダラが飛来してきました。マーキングはみんな初めでした。網で捕獲し、マークがあるかないかを確かめ、マーク済みのものはリリースし、未記入のものは大切に寝かせて「AP ○○」「9.28」と記入用紙に指定された番号を書き込んでいました。小さな子どもはマークも容易でなく、スタッフがマークしやすいように手助けをしていました。

 そして昨日の鏑川の化石発掘体験。東京は曇り空でしたが関越道は激しい雨となりました。これで「晴れ女」の顔が立たないなと思っていると、現地吉井では小降りになっていました。昨年もそうでしたから、いつか上がるだろうと判断して、活動を開始することにしました。(その後、どんどんお天気は良くなって行きました。)
 雨の装備をして河原に下り、福嶋徹さんのお話が始まりました。大昔ここは海の底だったのが出てくる化石で分かること、サメの歯を探して根気よく石を割りましょうという話でした。みんな思い思いの場所でコンコン石を叩き始めました。やり始めていくらも立たないうちに小学5年生がサメの歯を見つけました。たぶんこれまでの中で一番大きいサイズで3p近い歯です。福嶋さんも興奮して記録していました。もちろん子どもたちも集まって益々、闘志を燃やして発掘に力が入りました。
 
 午前11時から午後2時30分までの発掘体験はあっという間に過ぎました。サメの歯が出るエリアがだいたい分かってくると、みんなそこに固まって来ます。密度の高い場所になるとゴーグルを必ず付けるように声をかけるようにしました。実際私の目に破片がとんでくることがありました。その破片はサメの歯がとれなくて、何気なくハンマーでその辺の岩を叩いたものが飛んできたものです。参加した子どものほとんどが根気よく最後までやりぬきました。たまに飽きたのか、石を川の水にぶん投げている子どもがいたので「今、投げた石の中にサメの歯が入っているかも・・・・・」と私が声をかけると、石を投げる子どもはいなくなりました。
 
 子どもの真剣さを間近に見た1日でした。根気よく最後までやり抜いた子はほとんどサメの歯を手に入れていましたが、小学3年生でタガネの当て方が上手になり、本当に石が割れるようになった子どもがいて、その姿をみて「きっとこの子は掘り当てるな」と私が感じていました。しかし運悪くサメの歯に当たることがなく体験を終わることになりました。私は「あなたはタガネやハンマーの使い方が上手になったから、次のチャンスはきっと掘り当てるよ」と声をかけました。その子はほめられて嬉しい反面、サメの歯を手に入れられない残念さがそれ以上に顔に現れていました。来年も企画しますので、充分リベンジは果たせると思います。
左からナンバー1のサメの歯、中はその次に大きいもの、右はタガネとハンマーで石を割っているところ、慣れると石の目が読める

2008年9月25日
 「ますます、美味しくなってます」
 暑さ寒さも彼岸まで・・・・とはよくいったものです。あんなに暑かった日々が遠くなりました。
 福島が「台風のあと2〜3日がいいと、しおさい博物館の池田先生が書いている」と興奮していうので、この23日、近くの人を誘って、館山に台風後タカラガイツアーに出かけました。結果、珍しいタカラガイがたくさん浜にあがっているのを発見。鋸南、布良、根本と3ヶ所の浜を回って、吉祥という旅館で温泉に浸かり、満足一杯で帰ってきました。森も良いけど浜もいい・・・。

 家に帰り着いたのが8時過ぎ。その後、オドヤで買ってきた鰺を南蛮漬けにして、2人で新鮮さを楽しみました。また、マトウ鯛の塩焼きもとても美味しかったです。
 翌日は前々日に買ってあった、新しょうがの甘酢漬けをチャッチャッと作って、仕事に出かけました。よく遊ぶと翌日のエネルギーが違います。どうしても早く起きてしまうのです。
 出来上がったこのしょうがも夕方食べると、また美味いうまい!暑さが去って、食べ物がどんどんおいしくなります。
→手前が南蛮漬け、右向こうがしょうが、あとはスモークした鶏もつ、ザワークラフトとマスタード。こんな感じで1人の夕食でした。けっこう酸っぱいものが多いな・・・・。 朝が来るのが楽しくなる、ジュノエスクベーグル。パンは堅いタイプが好き。→

2008年9月19日
 「秋が深まってます」
 先日長野へアサギマダラの南下状況などを調査に行きました。カヤノ平というブナの原生林が残る高原がすばらしいフィールドでした。ヒヨドリが至る所に群生し、広々とした自然林や牧場が広がっていました。もちろんアサギマダラは数頭ですが飛んでました。関係者の方、曰く「9月の第一週がピークかな、ヒヨドリが赤茶けてるから・・・。もう、南下したかな?」遅かったようです。
 その後、ブナの原生林を2時間ほど歩き、たくさんのキノコが顔をだしているのを確認し、福島と満足して帰ってきました。今回のアサギマダラはやはり赤城自然園が適当という結論に達しましたが、来年時期を早めることも面白いかな、と話しました。
下の写真はブナの倒木に生えたシロタモギタケ。今までブナシメジと呼んでいたが、大理石模様のないものを区別してシロタモギタケと呼ぶことになったと、三村さんに3年ほど前教えていただきました。独特の芳香のある美味しいきのこです。
右は森の中のカタツムリ
 ジャガイモをいただいたので息子のリクエストに応えて作ったコロッケ。料理の意欲が出てきました。ここにも秋深まる徴候が・・・・。昨日、30個揚げ、今朝50個揚げました。

2008年9月11日
 蔦温泉が私に残してくれたものがもう一つ。

  練馬の名木 「とちのき」 関公園

 快く歩くことです。旅館の敷地の裏手に広大なブナ林が広がっていました。早朝4時30分に起きて、溢れかえる源泉の流れの上でトドになること1時間。雨も上がっていたので5時30分より福島とブナ林を歩きました。旅館の人が1時間で回れるというので、長靴を借りて出かけました。ふかふかの地面はやさしくて、舗装道路とは感触が違います。あちこちにキノコが顔を出し、至る所に沼がありました。最初の蔦沼は鏡のように回りの景色を写していました。その美しいこと。清流もあり、木漏れ日の差すブナ林は朝が最高でした。気がつくと7時が過ぎようとしていました。2時間近く歩いたことになります。道草ばかりしているせいで、朝食は7時30分になってしまいました。

 そして東京に帰って駅の階段を下りるときに気がつきました。「あ、、ヒザが痛くない!」右のヒザが降りるとき、ヒヤッと痛んでいたので、気をつけてカバーしながら階段を下りていたのです。春のスノーシュートレッキングの際、雪上で子どもにスノーシューを装着する手伝いをした姿勢がいけなかったのでしょうか、春合宿が終わってから、ずっとヒザを庇って生活していたのです。蔦温泉から帰ってから、ヒザのことを忘れている私がいたのです。昨日なんか全速力で階段を下りて、電車に飛び乗ったくらいです。試しに空中でヒザを曲げてみると、ぎりぎりという音もしません。やったー!。
 有り難い、有り難い・・・・。もう私のヒザは元に戻らないな、とあきらめていたのです。

 温泉効果なのか、ブナ林効果なのか、その両方なのか・・・。とにかく、快く歩くことができるようになりました。
 介助事務所へ出勤するときは、たいてい関公園を経由して隣の駅から電車に乗ることにしています。毎朝土の上を歩くことで筋力の低下をおさえようと努力しているのです。写真は朝の関公園のとちのきです。電車を一本遅らせて、トチの実やどんぐりを拾ったりしています。

 次の休日を楽しみに生活する日常が戻っています。休日に向かう場所はもちろん緑の深い所。そこに清流があり、歩ける道があれば、2〜3時間は歩きたいです。その後は汗を流す温泉。塩素投入のない循環なしの源泉なら、なおけっこう。

2008年9月3日
 「休むということ」
 明日から2学期がスタートします。たった今、東北から帰還し、遅い夕食をとって、久しぶりにパソコンを開きました。

 八甲田の麓のその宿は今年の5月連休で通り過ぎた所です。ずっと気になっていて、今回の東北の宿に選んだのが6月末でした。それから今までこの遠出を楽しみに1学期を乗り切りました。
 
 旅館の名前は蔦温泉旅館。
 ブナ材で作った浴槽の底面から24時間、温泉が湧出しています。気泡がポコポコ上がってくるのです。浴槽の3辺は縁があり、残りの1辺が低くなっていて、湧いてきた源泉がその1辺に向かって、常時掛け流されているのです。それも相当な量です。
 私は宿泊滞在した期間、お湯に入ると、ずっとこの流れを見て、過ごしていました。源泉が1つの辺に向かって、どんどん流れてくると勢いよく線を描いて、2メートル先の壁側の排水溝目指して流れます。そこに私という障害物がいると、私からもう一つの線が発生して、お湯の織機が出来上がります。上手く伝えられないのですが、縦糸と横糸です。とにかく、次から次へとお湯がつくる文様が不思議な感覚をもたらすのです。じっと見ていると、その織機のような文様に揺らぎが生じます。どなたかが湯船に浸かった波紋の揺らぎです。それがまた面白く、美しいのです。毎回、流れる源泉を見つめて小一時間過ごしていました。夕方、夕食後、深夜、早朝・・・。
 いつも、お湯に浸かっているとゆだってしまうので、浴槽の縁に寝そべって、あふれかえる源泉の文様を見ていました。
 「これが休むということだな」と気がつきました。私の脳のステージにはいつも何かがのっかっています。塾の会計や授業のこと、介助事務所の会計のこと、助成金の書類のこと、娘のこと、息子のこと、健康のこと、隣の家の整理のこと・・・・。いつも何かを考えている脳です。
 ある時は異常に一つの事が気になり、そのことしか考えられないことがあります。若いときは恋愛だったり、子どもの健康や成長だったり、最近は自分の検診の結果だったり・・・・。他のことを考えられないくらい、一つのことに脳が占領されることを「悩む」といいます。そういう風に「悩ん」でも、いい考えや方針は立たないのが常で、考え疲れて、あきらめた方が、物事が整理されたり、進路が開けることがあります。特に、いつも何かに脳を占領されて考え続けているのが私のようです。まだトラブッてないのに、来るべきトラブルを見越して構えたりもしています。ただ救いは職場が複数あるので、ある事を考えているときは他の事は考えてないわけて、使っている脳と休んでいる脳があるということです。これも程度によりますが・・・・。
 
 昔、もう30年以上も前になりますが、身体の授業(今でいうと操体法、気功、野口体操、身体ほぐしのワークショップなど)を塾でやり始めのころ、指導の星野氏が「次に動ける筋肉は今、休んでいる筋肉です」「力をいれることばかりを考えてはいけません。力を抜くことが大切なのです」「勉強に頑張りすぎはいけません、頑張らない勉強が大切です」・・・・とよくおっしゃっていました。その言葉は当時とても新鮮で、彼らの身体論でよく登場するパラドキシカルな表現に私などはメロメロに参っていました。「モモ」の作品中に出てくる「ゆっくり動くものが、目的地に早く到着する。逃げるなら、うんとゆっくり動くこと。」これも同時期の出会いです。

 昨今の不可解でかつ残忍な事件を見聞きすると、よく「早く終わらせたかった」みたいなことを犯人が表現しています。「今の苦しい状況を早く終わらせたい」という意味だと思いますが、目の前の気に入らない状況をゲームをリセットするように「早く終わらせたい」という動機で他人を殺傷していたとしたら、ぞっとする話です。
 昔フリースクールを開いていた時代、相談の若者の多くの言葉に「今じゃなければ、何でも良い」というのがありました。具体的には高校に通っているが、次の身の振り方を決めないで高校を辞めようとしている時、親は次はどうするんだ?と詰め寄ります。もちろん次の展望などありません。親は次のことも決めないで今の高校を辞める無謀さを力説します。そんなときです。10年まえの若者は「今じゃなければ、何でも良い」と身をよじって叫んでいました。
 10年後、早く今を終わらせるため、忌まわしい今から逃れるため、他人の命も巻き込んでリセットならぬジ・エンドに状況をもっていっているのでしょうか?人生のリセットって?ゼロ歳から繋がっている自分の歴史はゲームみたいに最初からやり直しができないでしょうに?

 話がまた、拡散してしまいました。
 早い話が「ゆっくり休養をとって、山下は日常に帰ってきた」ということです。今、働いている筋肉ではなく、今休んでいる筋肉こそ、未来を開く場所。フリースクール時代私は悩める若者に「たくさん今、眠っておきなよ。どうせ、いつか大人になって、そんな生活できなくなるから、昼夜逆転したら、参加したい企画に寝ないでやって来なよ。一度しんどいけど、その夜はきっとよく眠れるよ。参加したい企画がないなら、何がやりたいか考えようよ。」と声をかけていました。
 人間にとって、「力を抜いて休むこと」がいかに重要かを伝えること・・・、その当時の私の一番の課題でした。
←蔦沼 朝の散歩 ←宿の裏に広がるブナ林 きのこがもう始まっていた ←奥入瀬渓流 その美しさに 
I LOVE 青森
とさらになる

2008年8月20日
 渋滞が続くラジオを聞きながら、お盆の間は隣の家の片づけをしていました。福島は1階、私と娘は2階を担当しました。やり始めのころは猛暑で1時間30分が限度。立ちくらみが始まる頃、仕事を辞めていました。最後の方はすこし暑さも和らいで2時間やっても余力がある感じになっていました。あとはゴミ出し。昨日可燃ゴミの集積所を夕方見てきた福島が「全部なくなっている!」と興奮して戻ってきました。
 2階の片づけの中心はタンスの不要衣類の処分でした。福島の母の手作り洋服はなかなか捨てられません。裏付きのジャケットをたくさん作ってもらっています。これも保存、あれも保存・・・・・と隣の小さい収納には入りきらない洋服が出てきます。部屋の端に並べて考えます。そこで処分組に入ったのが、昔影響を受けたある女性の形見・・・・。「形見分け」の会で、友人から半ば強引に押しつけられた形で持ち帰った洋服でした。サイズは私しか会わない・・・という理由で友人が「あなたがもらってあげなさいよ・・・」と口々にいうので持ち帰り、18年間ずっとタンスにあったのです。
 その女性は山崎達さんといいます。60半ばで突然逝ってしまいました。戦前戦中は小学校の教師を務め、敗戦とともに教壇に立てなくなり、退職しました。教え子を戦場にやったことを、一生悔いて生活した教師でした。高知出身、戦争体験が彼女の思想の中心を占めており、反戦の人でした。息子たちが義務教育以後の教育を拒否して独立したことが大変なショックだったらしく、その後の彼女の社会活動の原動力となりました。
 彼女は最初弁護士を目指して勉強したそうですが、ある市民運動のリーダーから「議員になりなさい」と示唆を受け、当時田無市の市会議員に当選します。市川房枝さんの流れをくむ理想選挙を実践し、政治的には、とても清廉な「一匹オオカミ」のような人でした。地方財政に強く、多摩の議員の中で一番予算書が読めた人でした。
 私は田無に引っ越してきてすぐ、太郎次郎社の「ひと」を読む会で彼女と出会います。20代の私と50代の彼女との出会いでした。たった10年しか一緒に過ごせなかったわけですが、たくさんの話を彼女としました。教育のこと、戦争のこと、ジェンダーのこと、地方自治のこと、社会のこと、差別のこと、核兵器のこと・・・・。福島と結婚する時も彼女に一番に相談しました。当時はずっとこのまま影響を受けて一緒に生きていくものと考えていました。別れは突然やって来て、もっといろいろ話したかった、もっとたくさん一緒に行動したかった・・・・と悔やんだ18年前でした。倒れる前日、電話での「水俣のみかん、来てるよ、あなたの分一箱、とってあるよ」という言葉が最後となりました。

 そんな尊敬する彼女のお気に入りの洋服を捨てることができず、ずっと2階のタンスにしまってありました。なんどかチャンスはあったのですが、その都度、保存組に入っていました。彼女との想い出を処分できなかったのでしょう。
 今回、思い切って処分組に入りました。それくらい現在の収納は限度があるのです。処分してゴミとなってしまうのは・・・・・・、と考え、下の写真のように、小物に生まれ変わりました。小さな袋をいくつか作ったので、友人にもあげました。柄を見て「あっ、たつさんの着てた藍染めの服!!!」といった友人もいました。欲しい人には分けるつもりで数個作りました。
18年前の藍染めのスリーピースからのリフォーム→

2008年8月10日
 涼しい苗場から帰還しています。我が家の猛暑はエアコンなしの限界の所まで来ています。今日も私は居間で扇風機のみで書類仕事をしていました。とはいっては今日は先日より、しのぎやすかったですが。
 
 サマースクール自然体験の四日間は、子どもたちにたくさんの思い出を残していきました。二日目の夜は激しい雷雨で、眠れなかったと起きてきた子がたくさんいました。その実、よく寝ているですが、自分の心証として、一睡もしてないと思っているのでした。1人の小学生が夕方になって「今日は雷が来ないようにしてくれませんか?」と本気で言ってきたので、なぜ雷が発生するのか、山の天気が変わるのはなぜか・・・・など説明しました。私の力で限界と思われる精一杯の平易な説明だったので、聞き手は???で興味が他に移るのかな?と思いました。「この説明、もっと続ける?もっと聞きたい?」と尋ねると、「うん、もっと聞きたい!」という答なので、私もうれしくなって山があるから、お天気ができることなども話しました。彼はとてもお天気に興味を持ったらしく、毎日、お天気のことを聞いてきました。

 子どもたちが松之山のキョロロに出かけた後、私は1人で山荘に残りました。帰って来るまでの時間を逆算して、何時間掃除にさけるかを考えて、午前中の3時間をかけて、山荘の掃除をしました。FF暖房機のまわり、暖炉のカマチの付近の大掃除をして、浴室のマットの洗濯、玄関と風よけ室の掃除・・・・。あとはいつも気になっていたカメムシの汁の掃除です。木材の角角にえんじ色の点々が目立つのです。スキーの時も拭き掃除をしましたが、増える一方で、今回は異常に目立っていました。そして90パーセント点々を消し終わって、お昼になりました。その後は夕食の準備に入りました。
 その日、スタッフとのミーティングの時に「クイズ!クイズ!、今日山荘に帰ってきて、出発した時と変わっていることは何でしょう???」とみんなに聞いてみました。私は半数以上の人が「カメムシの汁の跡がなくなっている」と答えると思っていました。ところが、みんな見当違いのことばかりに目がいって、正解がでません。埒があかないので少々のヒントでのりとくんが正解を出しました。彼は唯一、カメムシ汁掃除をした経験があったからでしょうか・・・・。
 これは、みんなカメムシの汁跡を見ながら、何も思わずにいたという事実を物語っています。もちろん福島はカメムシの汁掃除なんて、気にもしていませんでした。掃除したよ、といっても、へえ、というだけです。どこか別の世界に住んでいたみたいです。
 私にとっては、ストレスの一つであったカメムシの汁跡も他の人は気付かずにいたなんて、びっくりでした。そっちの方が幸せだなと思ったりしました。

 我が家では、プライベートスペースは各自が、共有スペースは気がついた人が綺麗にするということになっています。いつも気がついた人は私なので私が掃除することになります。ときどき娘や福島に「掃除機かけておいて」と頼むと、きちんと掃除機はかけてくれますが、それ以上のことは一切気がつかず、そのままです。

 カメムシの汁跡の話から変な方向に話がそれました。子どもたちはクワガタ、雷雨、ドロダンゴ、水質検査、花火、天体観察、押し花、食卓卓球、将棋、植物採集・・・・。それぞれの興味で4日間を楽しんでいました。私は私で日頃できない料理をゆっくり楽しむことができました。「食べたいものを食べたい分だけ取りなさい。私はゴミとして捨てられるために一生懸命料理したわけじゃないから、あなたのお皿に盛ったものは全部食べて下さいね」というメッセージは強烈だったらしく、初めは子どもたちは少なめによそっていました。おいしいものは何度も何度もお代わりに立っていました。子どもたちのお代わりをする姿を背中に感じている山下の表情を想像してみて下さい。子どもたちがモリモリ食べる姿がうれしくて、次の料理へのアイデアが湧いてくるのです。茄子もツルムラサキも食卓に出しました。1人でもこのおいしい食材と出会ってくれればと思っていました。結果、残りますが、その後大人がブルトーザーのように食べていましたので、残食はありませんでした。

 福島と自宅に帰る時、「こんな面白いこと辞められないね・・・」と話して帰りました。
←見たことのない色の夕暮れ。もやったピンク色。この夜、雷となる。 ←スタッフの背中に登る小学生。(スタッフの彼も10年前は面倒をかけたワンパク小僧だった) ←いつもバイキング。野菜がたくさん並ぶ。お肉は極上クラス。(塾生家庭の協力)

2008年8月3日
 お暑うございます。
 明日から20度の世界に行ってきます。今度のサマースクール自然体験はヤマシタも参加です。今、超猛暑の中、明日のカレーの仕込みの真っ最中です。山荘に行って煮込むのでは時間が足りないから・・・・と気楽に前日から仕込もうと考えましたが、この猛暑・・・・・。「やっちまったな、来年はもうやめよう・・・」と後悔しきり。我が家は娘と父親が冷房を入れて生活していますが、共通スペース(居間や台所)はまだエアコンを我慢しています。でもよっぽどエアコンを入れようかと思いましたが、空気を止めて煮込むのもな・・・と考え、風を通して煮込んでいます。
 このノートパソコンも発熱しています。キーボードに置く手も熱くなります。
 これから、明日の買い出しリストを作成して、荷物の準備をします。早く涼しい苗場でクリアな頭になりたいです。 
暑さを増すカレーの仕込み 隣の家からもってきた20年前のかき氷の機械。まだ使えたので今日氷宇治を作った。

2008年7月20日
 梅雨があけました。そして、激しい日照の中、きのうビーチコーミングが無事終了しました。マイクロバスに子どもスタッフ総勢20数名を載せて、連休初日の館山道を軽快に走って、最初のスポット「鋸南」の浜に着いたのは10時過ぎでした。
 「鋸南」の浜はブラックなサメやシボリが超新鮮な状態であがっている浜です。残念なことにそれは冬限定だったようで、この時期は海水浴客のいるただの浜でした。大潮の激しい干潮の磯は生き物の宝庫で、子どもたちはそちらの方に夢中でした。
 次に目指すのは白浜フラワーパーク下の磯です。車中では「やましたゆみこのタカラガイ講座」を開き、まだタカラガイと他の貝の見分けのつかない初心者にTフォー(一番よくみられるタカラガイの見本4つを紐で結わえ、マジックでネームをいれたもの)を配り、識別のコツを指南しました。Tフォーは山下の自作です。そもそも4つに絞ったのも山下のやり方で、初心者の目を肥やす一番の近道と思っています。
 フラワーパークに着く前に涼しい木陰のある運動公園でお弁当を食べました。日よけのない場所でお昼をとる勇気がなかったのです。運動公園は芝生やちょっとした遊具、ベンチがあり、トイレもあって、有り難かったです。もちろん木陰は生き返ります。そこで、こども達は蝶などの昆虫を追いかけたり、走り回ったり、鋭気を養ってから浜に向かいました。

 浜ではタカラガイ探し派と生物派に当然別れます。帰りの運転に備えてのりとくんはバスで休憩です。秩父の鉱山のときのように一緒に興奮してたら、帰りがつらくなるからです。
 初心者の上達はすごいものがありました。私と一緒に歩いていた小学校2年生のCちゃんはメダカラ、オミナエシ、チャイロキヌタ、ナシジダカラを完全に識別できるようになりました。私が「これは超むずかしい応用問題だよ、分かるかな?」と差し出したタカラガイを「う〜うん・・・○○ダカラ」とぴったり正解を言っていました。数回試みましたが、全部正答。子どもの吸収の速さに脱帽でした。

 帰り間近にI君が海鳥が弱っているのを見つけました。去りがたく一度は助けたくて水槽に収めましたが、再び元気になり、沖の方に飛び立ったことを確認して、浜をあとにしました。磯はいろんな生き物がいます。タイドプール一つあれば、3時間ほどあっという間に過ぎてしまいます。後に残ったものは、腕に残った日焼けの跡と、いろんなものを発散して軽くなった心があります。汗と一緒に何かが体内から蒸発していった爽快感があります。

 来年はもうちょっと暑さが来る前に企画を組みたいねと福島と話しました。もちろん来年も連れて行きます。
左から○鋸南の浜で○運動公園の恐竜の内部○タカラガイをフクセンに見せてるところ○貝殻の浜でタカラガイを探す 

2008年7月10日
 塾の通常授業もこの土曜日で一区切りとなります。はやいものです。2008年も半分を過ぎました。
 これからは苗場の3つのサマースクール、夏期最終のサマースクール田無がやって来ます。山下は苗場の自然体験サマースクールのスタッフとして4日間を過ごす予定です。中高生のサマスクールは食事も自分たちで担当するのですが、小学生の自然体験は食当が必要なのです。
 いつも山荘に着いた時、 鍵をあけるのも、帰路に着くとき鍵を閉めるのも私の担当です。ほとんどの山荘企画の場合、私はその2回のみ山荘を外から眺めますが、いつも二階のリビングでエプロンをかけて、食事担当をしています。みんなより1時間早く起きて朝食を作ったり、みんなが食べている時に隣の4畳半で休息をとらせてもらったりしています。食事三昧の生活が私にはとても楽しいのです。前々から用意して持ち込むものもあります。現地の野菜などをみてメニューを決める場合もあります。お肉は塾生のお父さんが上等のものを格安で調達してくれるので、タンパク源は豊富です。昨年より、バイキング方式を取り入れ、朝から、こども達は自分のお皿に好きなおかずをとって席につくスタイルになりました。様子を見ていて、人気のあるメニューがよくわかります。昨年は新潟県の端っこの糸魚川まで翡翠を拾いにいったので、絶対身体に熱が入って帰ってくる!と思い、茄子の煮浸しをたくさん作って待っていました。さすがに小学生に茄子はそう売れませんでしたが、スタッフの高校生が「茄子ヤバイ、茄子ヤバイ!」と食べていたのを今も思い出します。そんな時私はとても幸せな気持ちになります。私の作品が喜ばれて、人の健康に貢献している・・・・って感じで。
 今年のメニューを考えています。春巻きの新バージョンをやってみようか、いつものキーマカレーに変えて、スパイスから作る本格インドカレーをつくってみようか・・・とか、「牛丼」「マリネ」「きんぴら」は外せない・・・・とか考えています。
 今、ちょっと検査の関係で食事が制限されている中、地味な食事をしています。ただ、医院の待ち時間で見たレシピが刺激になり、サマースクールのメニューを考えることは楽しみの一つになっています。
→バイキング風景です。左はお皿に顔をつくっているところ。 昨年の自然体験

2008年7月3日
 「娘の年金の話」
 我が娘も成人となりました。二十歳の誕生日はたいした感慨もなく、淡々と過ぎていきました。夜はバイトで夕食を共にする回数がめっきり減ったからです。
 さて、先日娘が「年金の手続きって、児童館の隣に行けばいいの?」と聞いてきました。児童館???ははあ、出張所のことかなと思っていると、「超わかんない・・・・、どこにいけばいいのか、わかんない・・・・・」と嘆いているのです。

 私は練馬区役所の年金課から来ているのか、社会保険庁からきている書類なのかを尋ねます。娘はその違いもわかりません。役所との初めてのつきあいスタートかもしれません。児童館の隣は練馬区の出張所で住民票やいろんなサービスが区役所へ行かなくても受けられる場所だよと説明しました。ただ、どんどんできるサービスの種類が減っていることも付け加えて・・・。
 娘は始めての事に戸惑い、いらいらした感もあります。
 
 私が娘に言った言葉・・・・・「明らかにあなたが年金をもらう時は私はこの世にいません(推定98歳)。だから、受給のとき手伝ってあげることはできない。最初からきちんと年金のしくみや制度を理解して、全部自分で手続きや納付をしなさい。学生の間は猶予してもらっても就職したら支払いが始まる。そんな時も職場の担当者に任せっぱなしにしないで、自分で納付額や将来の報酬額の計算ができるようになっておきなさい。今、国民年金だけじゃなく、厚生年金も標準月額が年金記録上、本人が知らないうちに引き下げられて、低い額が支給されるような不正が行われている。だから、人任せにしないで、年金は特に・・・・」

 娘は「何?その厚生年金って」と聞いてきます。私は就職の仕方で年金の種類が異なること、厚生年金は半分職場が負担してくれること、今回の不正は社会保険庁と職場が本人の利益を損なうような操作をしたこと、などをわかりやすく説明しました。

 娘はちょっと自覚的になったのか、私に頼らず書類を一生懸命読んでいました。性根を入れて読んだせいか、「わかった、学生証を持って、社会保険庁の事務所に行って、加入と猶予の手続き二つをやるんだ・・・。」と言っていました。
 
←左は毎朝、回りの虫たちに「私の可愛い子に手を出さないでよ!」と威嚇しつつ、青虫を取り除いたり、食べる分だけ摘み取っているシソ。



→右は久々に拾ったアジロダカラ。館山根本海岸にて。もちろん次回のビーチコーミングのフィールドです。

2008年6月26日
 先日、所用で栃木県民の森へ行きました。そこの昆虫館でいい文章に出会ったので、ここで紹介します。

 『知る』ことは『感じる』ことの半分も重要ではないと固く信じています。子どもたちが出会う事実のひとつひとつが、やがて知識や知恵を生み出す種子だとしたなら、さまざまな情緒やゆたかな感受性は、この種子をはぐくむ肥沃な土壌です。幼い子ども時代はこの土壌を耕すときです。美しいものを美しいと感じる感覚、新しいものや未知なものにふれたときの感激・思いやり・憐れみ・賛嘆や愛情などのさまざまな形の感情がひとたび呼び覚まされると、次のその対象となるものについて、もっとよく知りたいと思うようになります。そのようにして見つけ出した知識は、しっかりと身につきます。消化する能力がまだ備わっていない子どもに、事実を鵜呑みにさせるよりも、むしろ子どもが知りたがるような道を切り拓いてやることのほうがどんなに大切であるか分かりません。
                      レイチェル・カーソン『センス・オブ・ワンダー』より


 私たちが30年余、塾をやってきたなかで一番中心においていることをズバリ言ってくれている文章でした。思わずデジカメで撮って文章を打ち出しました。
 幸せの基準があるとすれば、世界の美しさを感じているかということだと思います。その瞬間がたくさんある人が幸せな人なんだろうと思います。
 福島は最近よく危機感を持ってこういいます。「ほとんど絶望的に子どもは虫から離れている。ほんの一部のマニアを除いて・・・」事実、科学体験を企画しても、鉱物系(採取するもの)は申込みが殺到し、生物系はボチボチです。塾の科学教室のメンバーは稀少な生物好きもいて、彼らの存在が福島の唯一の希望となっているようです。多くのこども達は虫に触れる機会が極端に少なく、また多くの母親たちは虫嫌いです。生育環境も変化し、遊びの形態も変わりました。昔は随所にあった虫との接触も限られるようになりました。カミキリを見てゴキブリと騒いだり、チョウチョを死ぬほど毛嫌いしたりする光景が普通にあります。
昔の子どもは虫たちに残酷なことも仕掛けましたが、虫とともに育っていました。

 私はギンヤンマが好きです。あのグリーンを見ると幸せな感じになります。軍艦が進むような飛び方にもしびれます。昆虫が美しいなと思い出したのは小さいころからで山でブイブイ(正式の名前は知りません、そう呼んでました)を取って、ブイブイの節に糸をつけて凧みたいに飛ばして遊んでいた頃からです。大人になってルリボシカミキリを見てから、昆虫の色に魅了させるようになりました。そして、色だけでなく、光沢や動きなどにも引きつけられるようになりました。私は虫好きではありませんが、自然界の色、それも昆虫の中の色に畏敬の念を感じる人間です。神が宿っていると思われる自然界の七色です。

 ここで最近のデジカメ作品を披露。那須の殺生石付近で偶然みつけたエサキモンキツノカメムシです。背中のハートがカメムシながら素敵です。山荘で子どもたちを悩ますカメムシの仲間です。1pの距離に近づいても平気な、図太いヤツでした。


2008年6月22日
 「正倉院ブルー」
 土曜日のパーソナルクラスの空き時間にリビンに壊れたサンダルを買い換えに行きました。買い物をゆっくりする暇もないので、急いで帰ろうとしてふと見ると、薩摩切子のフェアーをしていました。切子ガラスは前からイマイチ興味がなく、ただ毎年夏になると今年こそ「しっくりする自分のグラス見つけたい」と探しているのも事実です。この5年間ほどずっと探していました。でも、切子ガラスは候補ではありませんでした。
 まず、目に飛び込んで来たのは「正倉院ブルー」という言葉でした。いい響きで古い時代の御物を連想させます。またその色が控え目でそのくせ強烈な主張のある魅惑的ブルーなのです。見たのは小ぶりの鉢です。これにポテトサラダをいれたり、イチゴを入れたら、良いだろうな・・・・。でもこの値段だと気をつけて扱うな・・・。一つ1万円です。この器を食器棚のメンバーに加えるとさしずめえ、他のあれらは手の届かない遠隔地に左遷だな・・・。娘はこのスタッキングできにくい器を歓迎するかな・・・。これってあきないかな・・・。などなど・・・。器を買うときはありとあらゆる角度から、検討します。これが本当に楽しいひとときです。
 やっぱ、一つ1万円の鉢は日常にはね・・・・という結論でその場を去ろうとしました。そのとき、ロックグラスのコーナーに目がいきました。やはり正倉院ブルーが目を引きます。みんなで使う器じゃなくて、自分のグラスでもいいな・・・・、と考えが湧いてきました。ロックグラスは田舎の妹からもらったブルーの江戸切子様のものがあり、切子様ながら、シンプルなカットが気に入って、それでウイスキーのロックを楽しんでいます。専用の置き場もあり、そのグラスに氷をいれる時が私の一番リラックスの瞬間です。「あのグラスを遠隔地に左遷させるような強者があるのかな・・・」と見ていると、それは7万円弱の値札を付けられて鎮座していました。非常に高額のコーナーです。果たしてその金額に見合う値打ちのあるグラスなのか?
 係の女性に「他のロックグラスは4,200円からあるのに、なぜあのグラスはあんなに値段が高いのか」と尋ねました。答は「20年以内の修行中の職人の物は安くて、年期を積んだ職人のものは、仕事が違うのでそうなっている」という話でした。う〜ん、20年もかかっているのか・・・。骨董市で並ぶ年代物のグラスではありませんが、復古ものといえども、なかなか魅力的なグラスです。
 そこからは値段交渉でした。リビンで骨董市のように半額以下に値段交渉をすることがあるとはゆめゆめ思っていなかったので、おかしな気分でした。そして買いました。早く帰ろうとしていた私の足を止め、アレコレ考えさせる何かを薩摩切子の正倉院ブルーは持っていたようです。私はそのブルーを見た時から「迷ったら買え!」とどこかから言われていたような気がします。
 「迷ったら買え!」これは骨董市での私の教訓です。苦い思い出を一つ。常連の新井薬師ではなく、始めていった石神井公園の氷川神社の骨董市でその浮世絵と出会いました。女性があんどんの横にだらりと座っているだけの絵なのですが、薄緑の布がなまめかしく、浮き上がる女性の身体の線がえもいわれぬ世界を作り出していました。たくさんある絵の中で欲しいと思うのはそれ一枚でした。でも結局買わずに帰ってきてしまいました。店のおじさんが提示したのは8,000円でした。その値なら買えます。でも手は財布にかかっていたのに買わなかったのです。なぜ迷ったかというと怖かったのです。あまりのリアルな艶っぽさに「ここには何か宿っているのでは・・・家に持ち帰ったら・・・ちょっと怖いな・・・」と気持ちが引いてしまったのです。その後、骨董市で同じような絵に出会うと「またあの絵を見たいな、あれほどゾッとするものはないな。」と思い、いつも買わなかったことを後悔していました。迷ったら買っておくべきだったとその都度痛感させられています。
 話は戻ります。
 家での正倉院ブルーはなかなか良いです。自然光、蛍光灯など光源により、色が変化し、中の液体によっても微妙に様子が変わります。今迷っています。これを毎晩のグラスにするか、特別ゆっくりした時のグラスにするか・・・。楽しい迷いです。もちろん娘や福島には洗わせません。骨董ものを壊された時に「いいよ。覚悟して普段に使っているから、形のある物はいつか壊れるものだから・・・」と平気を装って、泣いている自分の心があるので、大切な器は自分で扱っています。
 最後に画像を紹介します。どうです?なかなかのブルーでしょう?
中央が正倉院ブルー、奥は妹からもらった切子様のグラス、手前は100円ながら気に入っている冷酒用

2008年6月20日
 「自分の一面」
 昨日、ガン検診を受けました。一般検診もあったので、午前中を使ってアチコチ病院内を往来していました。
 8年ほど前に喉が詰まるので「すわっ!!食道ガン!!」と自己判断をして病院に行きました。そのときの内視鏡の経験は今もよく覚えています。メガネを外してお医者さんの説明を聞いても、苦しくて何も見えず、彼が「おおっ」と驚く反応にこっちは肝を冷やしていました。結果、なにも異常はなく、喉が詰まるのは他の原因でしょうとのことで一件落着しました。
 そして今回は初めてバリウムの検査を体験しました。2種の液体を流し込んだあとは、技師の言葉通りにアチコチを向いて体位を変化させる自分がいました。ぐるりと回るとき、「ああ、液が胃の内膜で拡がるように回るんだな・・・」と理解したり、「首だけでなく身体ごとあちらを向くのか・・・・」とコツを確認したり。本当に初めてのことに言われたとおり、真面目に取り組む自分の姿がありました。飲みにくいと言われていた液もごくんと飲み、ゲップもせずに、求められた角度に身体を持って行く作業に没頭していました。
 検査が終わって思いました。自分の真面目な一面を。特に初めてのことに慎重で、先人の言葉を集中して聞くのです。小学校に入った時の話ですが、先生が「自分の顔を穴のあくほど見なさい」と言われ、私は本当に穴があくのかと懸命に凝視していた記憶があります。しばらく経ってから、見ても穴はあかないと分かりました。中学校で電車通学する時も、東京で交通機関の乗り換えを始めて経験したときも、第一子の出産の時も、やたらと情報を集めました。事前に本を読みまくり、全部頭に入れて取り組もうという自分の姿がありました。
 これらのことから分かることは、私は非常な小心者だということです。塾を一緒にやってきた仲間は「当たって砕けろ」や「どうにかなるさ」というタイプの人間が多かったので、自分のそんな面も目立たなかったかもしれません。一緒にいると回りのキャラと溶け合うみたいなので・・・。
 検査が終わって、ゆっくり買い物でもして帰ろうと思っていると、なにやら私のお腹がピーピーしだしたので急いで帰宅しました。私の腸も小心者でバリウムという初めての訪問者を一分でも早く追い出そうと作業を開始していたようです。

2008年6月9日
 「暗闇の話」
 きのう、秩父の大滝村奥の鉱山にトレジャーハンティングで行ってきました。二つのズリ場に行って、鉱物をたくさん観察しました。参加者はみんなズリ場は初めてでしたが、注意して拾ったり、タガネとハンマーで割ったりと、全員珍しい鉱物に挑戦していました。方解石や黄鉄鋼はたくさんありますが、赤鉄鋼やざくろ石などと珍しいものを発見する子もいました。その時の話・・・。
 一つめのズリ場を終えて空き地でお弁当を食べていたとき、小学4年生の男子が「ここのトイレ行くとき、超オモローなんだよ」と友達にいっているのです。何のことかと聞いていたら、トイレまでの道が暗くてとてもおもしろい・・・・という話でした。お弁当を終えてわたしもそのトイレに行きました。郵便局と隣家の間の細い道も暗いですが、その角を曲がったところが真っ暗なのです。ほんとに足下が何も見えないので、恐る恐る歩く感じで、わくわくどきどき感があります。これのことを「超オモロー」って言っていたんだなと思いました。帰りは目が慣れたのか、薄ぼんやりと土間のような土の感じが見えましたが、最初は本当に何も見えなかったのです。
 大滝村の奥の鉱山は昭和初期に栄えた場所で、今も縮小して稼働しています。当時の小学校や遊興場跡が廃墟のように存在していますが、郵便局は今も健在です。鉱山跡までいくのにほとんど光のないトンネルも越えます。暗闇があったころ、人の力の限界を知って、自然を畏敬する姿勢を日本人が持っていたころ・・・・、そんな当時にタイムスリップして帰ってきました。
 本当に超オモローな一日でした。

2008年5月27日
 「手をつないで歩くこと」
 のりとくんのKくんを見ていると昔の自分の子育てが蘇ってきます。22歳の息子とは別ものの幼ない存在が今も私の記憶にあり、思い出すとほほえんできます。その時代、時代、子どもは別ものなのかもしれません。
 
 最近ヒヤッとすることが二つありました。両方ともあわや交通事故というケースでした。
 一つ目、私が駅へ歩いていると可愛い幼稚園の兄妹が走って私を追い越していきました。妹さんのひらひら舞うように走るのにしばし見とれていました。すると前から車がやって来て、お兄ちゃんは止まりましたが、妹はまだひらひら走って車道と民家の玄関を行ったり来たりする勢いです。私が危ないなと思って近づいて行くと、後ろから自転車が私を追い抜いて行きました。彼らのお母さんです。妹を保護するのかと思うとブレーキをかけずにお兄ちゃんも追い越して行きました。つまり、配置はこうです。自転車のお母さんが一番前、お兄ちゃん、妹と私という順です。そこへ自動車がちょうど私たちの所にさしかかりました。お母さんは追い越しながら、妹に「止まりなさい、止まりなさい」と声をかけ続けています。しかし妹はまだひらひら意味もなく走っています。民家の駐車場に入ったり、車道に出たり、ジクザクの軌道です。そして自動車と最接近。とっさに私は手を広げて妹の行く手を阻みます。妹は素早く私をすり抜けてあろう事か自動車に突進。しかし運転者がさきほどからの私のパフォーマンスなどでスピードをゆるめ、子どもの手前で停止していたので、事なきをえました。わたしはその妹の無軌道な行動にびっくりでした。自動車より手を広げて止める私の方がこわかったのかな?ショック!と思っていると、前の方からお母さんが「止まりなさいと言ったでしょ」といって、自転車に乗ったまま、妹をにらんでいるのです。妹はお母さんのところに走っていきます。そしてお母さんが妹の頭をバシリッ。「もう、止まりなさいと言ったでしょ!」妹は大泣き。容赦のない、すごいたたき方で、それにも私はショックで。
 駅への道々、「自転車で我が子を追い越しておいて、我が子の死の危険を招いたのは自分じゃないのか・・・・」とショックの原因を分析していました。さっと、手を引いて保護しない母親の行動に一番の疑問を感じたのです。その後、いつものように言うことを聞かない娘の頭をたたくのもショックですが。
 
 二つ目は山菜ツアーの帰り道、横断歩道で赤信号を待っている二人の婦人の影から幼児が飛び出して、信号無視をして、私たちの車の前を横切りました。タイミング的には非常に危険なタイミングでした。ただ、運転していたのりとくんも言っていましたが「いやな予感」がして、青の信号手前を徐行していたのです。そのおかげでとっさの飛び出しにも対応できたのです。幼児が飛び出した後方をみると比較的年配の男女(両親と思われる)が、二人の婦人の後ろで信号を待っていました。「幼児の手を引く大人が1人もいなかったのか?」とびっくりしました。向こう側に無事ついて幼児のその後も心配じゃないのか?私にはその両親の気持ちの在り方が解せませんでした。

 これらのことから、『手をつないで父親や母親のテリトリーに入れて歩く』ということが家庭でまちまちなのがわかります。自分たちのテリトリーなんて、すでにないのかも知れません。塾では以前よく身体空間という言葉が流行っていました。「あの人は身体空間の広い人だ」と、いう風に使います。その空間に居る人の気持ちや物事の在り方を無意識に感じ、配慮できることを指していました。懐かしい言葉です。もう一つ「自己こだわりの激しい人」という言葉もよく使いました。自分に対する評価を気にするあまり、フランクな接し方のできない、相手に興味を見いだせない人をいいます。つまり、あの人は『自己こだわりの激しい、身体空間の狭い人だ』というのが、最低に低い人物評になる時期でした。おっと、脱線、脱線。
 そんな『自己こだわりの激しい身体空間の狭い』親に育てられた子どもは、痛い目をしてから、自動車の恐ろしさを知ることになるのでしょうか。そんなとき、親は「止まりなさいって言ってのに、言うことを聞かないから、自業自得・・・」と言い捨てるのでしょうか?
 なんだか、小言のようなコラムなってしまいました。子育ては振り返ってみれば何とでもいえます。現在進行中のころは必死で、とにかく睡眠、一息いれることを望んでいた生活です。私もきっと子どもからみれば無理解で支配的な部分もあっただろうとは思います。ただ、手だけはつないでいたな・・・・と述懐しています。

2008年5月22日
「7年影響説」
 塾ブログをのぞいたら、のりとくんが懐かしい話題を載せていたので、コラムに詳しい、説明を書こうと思い、パソコンを立ち上げました。2001年の5月4日付けの山森ばなしに登場してきた25年間の塾生写真の整理の時に発見した説です。
 一言でいえば、成長期には7年ほどの間隔でお互いに影響しあって育っているということ。7年上くらいの先輩が一番モデルにしやすいということ。モデルは大切な存在で、「ああなりたい・・・」と思った時に子どもの心には成長のチャンスが芽生えているからです。

 塾生の行事の写真を整理して、卒業生が来たときに、「はい、この巻だよ。あなたの学年は。」と出してあげるにはどうしたらよいかと考えました。そこで横軸を西暦、縦軸を学年(年齢)として交わるスペースに特徴的な生徒の名前を3人〜4人書き込んでみました。同じ内容のスペースが右肩下がりに並びます。2002年に23歳の人は何年のアルバムをみれば、中学生時代になるかを早見表に仕立てたわけです。(かれこれ7年たつので文庫に置いてあったその早見表もいつしか姿を消しています。)

 早見表を再現するとこんな感じ・・・・。「のり」とあるのはその学年がのりとくんの学年という意味。
3月末の学年と年齢・西暦 ・・・・・・・・ 1991 1992 1993 1994 1995 1996 1997 1998 1999 2000
・・・・ N.T.
中学1年生(13歳) N.T.
中学2年生(14歳) N.T.
中学3年生 N.T.
高校1年生 N.T.
高校2年生 N.T.
高校3年生 N.T.
大学1年など(19歳) のり N.T.
大学2年など(20歳) のり N.T.
大学3年など(21歳) のり N.T.
大学4年など(22歳) のり
23歳 のり
24歳 のり
25歳 のり
26歳 のり
27歳 のり
28歳 のり
29歳
30歳

 こんな表をつくって、卒業生に「あなたは2002年現在23歳だから、中学3年生の時は1992年だよ、アルバムは○○番をみてね。」と伝えていたのです。そうしないと、顔や名前を覚えていても、在塾時代の、それも子どもたちの学年の順序が山下の記憶では限界があったのです。
 そんなとき、いろいろな学年の特徴のある子どもたちを思い浮かべていました。右肩下がりに並ぶラインの中で、7年前後のラインがよくウマがあって、影響し合っているな・・・・と気がついたのです。荒唐無稽な発見ですが、確かに顔ぶれを見るとそうだったのです。
 理由をあとで考えました。それはすぐ近くの学年だと先輩後輩のめんどくさい力関係やメンツの問題があったりして、本当の自分が出しにくい、また7年以上離れてしまうと、時代のギャップがもう生じていて、話題が遠くなる・・・・・・のではと、塾内での結論になりました。当時は大変、面白く思えて、いろいろ理由を考えて過ごしました。
 当時のコラムで、他にも写真を整理して発見したことなどが、残っています。機会があれば、巻末のきのこをクリックして、2001年5月4日のコラムにタイムスリップしてみて下さい。

2008年5月11日
「子どもが決めるということ」 
 連休明け第一弾の体験活動イベントが終わりました。八王子の北浅川でアケボノゾウの足跡化石やメタセコイア、琥珀などの観察です。指導はアケボノゾウ化石発見者の福嶋徹さんでした。あいにくの雨模様でスタートした化石発掘体験ですが、レインコートなどの装備で覚悟して現地に着きました。ちょっと増水した川は雨水に簡単に滑ります。本格的なぬかるみを体験しながら、足跡化石を観察しました。はっきりした鹿の足跡もありました。小雨の止まぬ中、琥珀を求めてこども達は午後2時前までコンコンやっていました。途中から雨も上がり、活動がやりやすくなる時間もありましたが、寒さの中、よく頑張ったと思います。
 私は午後からは、川に入ってしまって長靴の中が冷えてつらいと訴える子、もう化石とりはいいと言う子らとバスで待機していました。初めての局面です。今まで活動からリタイヤして待機するということはありませんでした。寒さのせいもあるとは思いますが。そこで感じたこと。

 昨年の水晶のイベントのことを思い出しました。一年のうち一番人気のあるイベントで、申込みの初日でほぼ満員御礼の状態になってしまう体験活動なのです。昨年はイベント中、早くから水晶とりに飽きて、山中で持参したコミックを読み始めた子どもがいました。その子はその前の化石発掘も飽きてしまい、河原で石を投げて遊んでいた子どもです。私は思わず、「来年は申し込まないでね。本当に参加したい子どもがたくさん断られてきたのに、たいしても行きたくもない子が山の中でコミックを読むなんて・・・・。見てて残念でしかたない。今度から家でコミックを読んでね。他の本当に行きたい子どもを連れて行きたいから・・・。」と伝えた覚えがあります。彼らは「なかなか参加できないイベントだから・・・」と、家族の協力のもと、早々に申し込んだものの、水晶にそんなに関心もなく、山を歩くことを考えてなかったので、あまりの山歩きの苦しさ(たいした山ではありませんが)に早々にリタイヤした子どもたちだったのです。
 
 今日のイベントでリタイヤした子どもによく尋ねると正直に「化石にそんなに関心はないけど、家の人に勧められたから・・・」と告白した子どもがいました。はは、人気のイベントはどうしてもこうなるな・・・と内心思いました。申込み2日〜3日で一杯になる活動は家庭の人も積極的に勧めるのかもしれません。昨年のアサギマダラのようなマイナーな活動は本当に興味のある子どもだけが集まってきて、それなりに面白い空間ができます。今回のような人気の活動は家庭の人が「いい体験をさせたい、いけば必ず良い体験ができる・・・」という考えに基づき、大人主導で申込みが行われるケースがあるのかもしれません。
 
 子どもに良い体験をさせたいという親の姿勢は大事だと思います。それは家庭での出発点です。ただ、どういう活動に参加したいかは子どもが決めるものだと思います。鉱物好きもいれば、虫好きもいます。すべての体験活動に共通して参加を希望するというのは実際ありえないのではないかと思います。子どもが選んだものを家庭が応援する。子どもが選ぶことを尊重してほしいと思います。実際は今までは、そんな風に子どもたちが集まって来ていました。待ち受ける側も疑うこともありませんでした。昨年あたりから、いろいろな事情で「預けられる」子どもが混じってきたことが残念な実感です。
 フィールドで他の遊びを持ち込むことをいちいち禁止することは本意ではないので、途中でリタイヤする子どもには「子どもの本心をきく・・・」という作業をしていきたいと思います。そして制裁的な意味ではなく、家庭のノリで参加を決めた子どもには、「本当にやりたいことに参加してね」と次からの申込みを再考してくれるようにしたいと思います。

2008年5月5日
 東北は猛暑で私たちを迎えてくれました。写真は田沢湖高原休暇村のブナ林前での記念写真です。これで5度目になる乳頭温泉です。全国の休暇村の中でも人気で予約がなかなか取れない宿です。私たちは1月初旬に5泊分の全宿を予約しました。休暇村は福島が電話で予約し、その他の宿は私がネットで予約しました。予約を入れてから1ヶ月後に「あの金額は間違いでした。本当は3800円割り増しの料金になります。」と電話があった時は「あの時点で他とは違った安い料金設定だとは知っていて申し込みました。今更、割り増しを求めるのはあまりにもお粗末。間違いでしたではすみませんよ。」といって交渉して契約料金で泊まった宿もありました。どこのネット業者かは申しませんが・・・。
 これは田沢湖から十和田に抜ける途中の峠付近の沢の水芭蕉です。昨年9月に行った後生掛温泉の泥湯が忘れられず、再訪しました。噴煙の上がる後生掛一帯はやはり神の領域です。よくここまでやって来て先人が湯治場にしてくれたと感謝します。私は泥湯に3回も挑戦して、肌がツルツルっになり、前回秋田弁が飛び交う湯気の光景を思い出していました。硫黄泉独特の匂いに包まれて、まさしく極楽とはこのことをいうのだな・・・・と思っていました。もちろん昨晩の休暇村の硫黄泉も大好きですが、後生掛はまた格別でした。
 リンゴの花咲く津軽平野の広さを実感しながら青森に向かい、三内丸山遺跡に行きました。長年行きたいと思っていた願いが叶いました。広い空き地のような空間を歩くと汗ばんでくるほどの快晴です。入場も無料、館内撮影もオーケー。なんて太っ腹なのかと感心して回りました。野外の遺物もさることながら、館内の埋蔵品も素晴らしく、翡翠の装飾品に釘付けになってしまいました。縄文の人もこれをみて「美しいな」と思ったのでしょう。
 ウニとホタテのおいしかった浅虫温泉の「柳の湯」という日本旅館を宿にしました。翌日、むつ湾を左に見ながら下北半島を北上する途中に、活気のある道の駅に出会いました。ドーナツなんて苦手で、もう10数年食べてなかった山下ですが、これはおいしかったです。「菜の花ドーナツ」です。地元の人が30ヶほどまとめ買いしていったくらいの評判のドーナツのようです。福島は残りの4ヶをあっという間に食べていました。
 恐山です。この日山開きを迎えた恐山は大変な猛暑です。本当に合掌してアイスをいただく勢いで、賽の河原を歩くときもあまりのあっけらかんとした明るさに驚きました。もっと驚いたのは入場した人に無料で開放されている温泉のすばらしさです。山開き当日の一番乗りになった私はゆっくり、少々熱い(43度〜44度くらい)硫黄泉に浸かりながら、また「極楽、極楽」とつぶやいていました。あとからやって来たご婦人がザーと水をうめていたので、「あ〜先に入浴してよかった〜」と密かに満足しました。
 八甲田山の南麓の酸ヶ湯温泉の夕食です。湯治、旅館棟合わせて300人以上の人を収容する山奥の名湯です。8時からは婦人用専用になって千人風呂にも入りました。混浴を守るキャンペーンを行っていました。泊まり客が多いのにもかかわらず合理的なシステムで従業員の人たちが世話をしてくれます。みそ汁用にコンロを持ってきて、温めて召し上がって下さいと置いていきます。具はまさしく貯蔵した野生のナラタケです。翌日、知ることになるここのブナ林の広さなのですが、ナラタケのみそ汁を飲みながら、福島と「ここはキノコもすごそうだね・・・」と話していました。チェックアウトの時、フロントの男性が「こんな暑さは初めてです。尋常じゃない。季節がどうかなっているんじゃないでしょうか」と嘆いていたのが印象的でした。とにかく人の多い、人気の温泉宿でした。
 ブナ林と清流の奥入瀬渓流を経て、青森から遠ざかり「久慈」に寄り道しました。「久慈」は琥珀の産地でここも前から行ってみたかった場所でした。琥珀博物館は三内丸山とは違い撮影禁止でしたので屋外のかたくりの花を取ってみました。琥珀の展示はすごいものがありますが、貴重なもの扱いで「○○しないでください」の類のタブーの多い従来の博物館でした。最後のショップも外国製にしてもゼロが一つ多いものばかりで「ここには子ども達をつれてきても面白くないな」と思いました。八王子の化石発掘も琥珀を発掘予定なので、子ども達に見せようと、一番安い「虫入り琥珀」を二つ買いました。15年前のミネラルフェアで買った10倍の値段で大きさは10分の1でした。
 4つ目の宿、鳴子温泉とは相性が悪いようです。イメージ違いの宿を早々にたって、日本海側に進路をとり酒田の土門拳記念館に行きました。売店の係り員がスナップ写真ならどうぞ記念に・・・と言ってくれたので、土門拳の作品の前で撮ったものです。購入したポスターやカレンダーを手にした福島です。こどもたちを撮ったのもよかったですが、私は五重の塔と石段の写真が一番気に入りました。どうしたらこんなバランスに写るのか不思議な作品でした。他にピエロのような仏像も面白かったです。
 次に鶴岡の「コフィア」というコーヒー店に行きました。よくこのコラムに登場する吉祥寺もかの標さんのお弟子さんの店です。店の雰囲気がどことなく「もか」で、私たちはそれぞれ2杯ずつコーヒーをいただきました。久々に飲んだマンデリンは初期によく注文した豆で、当時「ストレートはとにかくマンデリン」と決めていました。その後、標さんのいろんなブレンドを試していきました。今回いただいたマンデリンはとても新鮮な感じがしました。やっぱりコーヒーっておいしいなと思いました。続いて注文したのは「しめぎモカ」と師匠の名前の付いたモカでした。これは宅配で送って頂いているので、なじみの味でした。小一時間ほどコーヒー談義をして「コフィア」をあとにしました。師匠ゆずりのガンコそうな、でも感じの良いコーヒー店主でした。
 最後の宿は休暇村羽黒。出羽三山の一つです。旅の間に習慣になったのか、福島は夜は8時には寝て朝5時前に起きるようになっていました。そして朝ご飯を待ちわびて席につくことになります。羽黒でも同じで朝食バイキングは7時30分からなのに二人とも 7時とかん違いして、食堂前で待っていた位でした。ここでも従業員の方が「急に暑くなって支度が追いつかない・・・。」とこぼしていました。
 写真は米沢に向かった途中の山中でコゴミです。山桜、ふきのとう、コゴミ、ツクシが一斉に日を浴びて輝いていました。米沢から白布温泉を経て裏磐梯に抜けました。期せずして春合宿のルートをたどって東京に舞い戻ったのは8時を過ぎていました。

2008年4月28日
 やっと明日から連休です。年末から次から次からに押し寄せる仕事の波を乗り切るのに必死で、季節の移り変わりも上の空の状態でした。毎年のことではありますが、今年はひさびさにスキーを企画したことや、春合宿の場所を東北へと新しいチャレンジをしたことも影響していると思います。明日からはその東北、それも未踏の地、青森へ行ってきます。帰りには「もか」の標さんのお弟子さんのお店(鶴岡)に寄って、おいしいコーヒーをいただくことも楽しみの一つです。もちろん東北は白濁硫黄泉の宝庫。あちこちの温泉を巡ってきます。
 4月から「塾ブロク」がスタートしています。塾通信でお知らせしましたが、まだのぞいてない方は是非どうぞ。http://tansei-juku.cocolog-nifty.com/  へ。更新の担当はのりとくんです。「コメントを書くタイミングが難しい」という声にのりとくんは「気軽に思ったことを書いて下さい」と答えてました。丹誠塾の授業や行事などを広く紹介する場になれば・・・と願っています。
 山下はこのコラムをこれからもコツコツと更新していくつもりです。塾生や卒業生の方に塾の今を発信する目的の他に、実は他にも目的があります。一つは自分の来し方を振り返るチャンスとなること。もう一つは成長して親になった息子や娘にむけて、等身大の母親を残すものとなるように・・・。後者は実現するか定かではありませんが・・・。
 では、明日早朝より、年に一度の長旅に出かけてきます。新調したデジカメでいろんな画像をお土産に帰ってきます。

2008年4月11日
 猪苗代の春合宿も無事終わり、通常の塾クラスが始まっています。
 東京を出発する時は満開の桜が見送ってくれました。もちろん晴天でした。ところが、磐越道に入ってトンネルをいつくか超えたら、急に猛吹雪が襲ってきました。バスの子どもたちは大興奮で「雪だ!吹雪だ!冬に舞い戻った!」と口々に叫びます。宿に着いたときも、どんどん雪は降り続き、薪割り体験は屋根のある車庫で行いました。丸太を切って、斧でマキにしていく作業は見ていてハラハラするほど、ワイルドな仕事でした。小学生の限界ギリギリまで挑戦して、あとは大人に任せました。学校なら絶対やらせない体験かと思いました。(刃物を使う作業はスタッフがたくさん必要です)
 翌日には初めてスノーシュートレッキングに挑戦しました。もくもく自然塾のインストラクターの方が指導してくださって、みんな楽しくかつハードに裏磐梯の山を走り降りました。ビデオを見ると、相当の坂を「降りろ!走れ!」と号令をかけられて、走り降りるみんなの姿があります。転んで雪まみれになり、体中で雪と遊んだ小学生がたくさんいました。宿では乾燥室を用意してくれていて、ウエアーや小物を乾かして、翌日荷物に詰めて帰りました。
 また、最終日の「なめこの菌打ち」では、宿の所有の桜の木を一本切って、植え付けの木にしてくれました。運搬作業から始まった菌打ちは大学生がドリルで穴をあけてくれから、みんなが一列ずつ「なめこ菌」を打ち込みました。思っていたより、軽く打ち込めたのには驚きでした。最後の土産物屋さんでは「ヒョウ」が降り、めまぐるしい天候の変化を前にして冬や春を入ったり来たりしていることを知りました。

 新学期の授業を終えた福島曰く、「春合宿でいい具合に人間関係が暖まっていてやりやすい」、だそうです。
2008年3月17日
 やきものの話。
 私にはやきものの師匠がいます。大学時代出入りさせてもらっていた友人の母上さまです。大学のクラスには下宿組と自宅組に別れていました。私は下宿組で彼女は自宅組でした。二人とも西武新宿線沿線に住み、隣の駅だったので、私はよく自転車で彼女の自宅におじゃましました。初めて出会う東京の家族でした。彼女の母上はほっそりした物静かな女性で、行くといつも食事を作って歓待してくれました。その家族の普段使いの食器が私の感覚をギュッとつかんでしまいました。田舎の母はほとんど白っぽい磁器で食卓を作っていましたので、私は中学校の頃から「土の器」に惹かれていました。私は彼女の家で「唐津焼き」と出会ったのです。初めて見たとき、「こんなに私の好きな食器ばかり置いてある食器棚があるのか・・・・!」「やっぱり、東京だな!」と感動しました。花を表現するのに点や線で構成してある、ちょっと変わった形の「土」の器で夕食をごちそうになったとき、「あ〜、いろいろな世界があるな〜」と思ったわけです。
 塾を初めて、田無に移ってからも、そのお宅にはよくお邪魔しました。
 ちょっと前から、彼女の母上さまは「遅くなったけど、かねがねやろうと思っていたやきものを焼いてみようと思うの・・・」とおっしゃって、最初はカルチャースクールに通い、その後、庭に窯を構えて、気ままに作品を焼くようになりました。私もやきものをやりたいくてやりたくて、仕方がなかったので、勝手にこう提案しました。「私はあなたの一番弟子になります。」と。それからは、毎週ではありませんが、すこしずつ、そこでやきものを学ぶ時間を持つようになりました。ちょうど息子が生まれる前後だったとおもいます。そのときから私は彼女のことを「師匠」と呼んでいます。その陶芸教室はずいぶん続きましたが、師匠の多忙さなどで、終わりとなりました。初歩の初歩、一からやきものの入門編を教わり、釉薬の作り方なども見よう見まねでできるようになっていました。師匠からはこの時期に、のちのフリースクール時代の子ども達との陶芸体験の基盤を作ってもらいました。

 前置きが長くなりました。その師匠からお誘いをうけた美術展に行ってきました。
 
 茨城の陶芸美術館で企画された「のこす・伝える『お宝』考 今昔」というものです。3部で構成され、1部は「伝えて、のこす」。茶道具を保存するための箱や袋までもスポットをあてて、いかに大切に伝えてきたかを展示していました。2部は「掘りおこして、のこす」。発掘ということで大森貝塚のモースも登場するコーナーで、陶片をいかに大切にしてきたかを表現していました。「呼継(よびつぎ)」という同じ窯から出土した破片を継ぎ合わせて一つの器に再生する技法を紹介していました。師匠のお父様が唐津の古窯跡の発掘を行った方だったという関係で、この2部の企画は師匠なくしては実現しなかったものらしく、私たちに説明をして下さった企画担当の学芸員の方も、深く師匠を尊敬している言葉を私たちに伝えてくれました。3部は「わざ」をのこす。「無形文化財」の制度によって大切に伝えられる作り手の「わざ」に注目し、どのようにして「わざ」を残すのか、その行程見本なども含めて展示してありました。
 約1時間半をかけて、見させてもらいましたが、どのコーナーも素晴らしく、特に2部の「陶片」の美しさ、面白さには持って行かれました。「陶片」は完全な形では絶対見ることのできなかったアングルで出来上がっています。断面のもつ面白さ、作成行程の謎解きなどの意味で「割れて初めて現れる美の世界」を感じます。考古学と非常に近い分野であり、コツコツとフィールドを歩かれる師匠のお父様の姿が蘇るようでした。
 帰りにはお土産に企画展の図録をいただき、家に帰って見るのが楽しみになりました。帰りには魯山人の寓居にも寄り、カルチャー一色の1日は過ぎました。常磐道を降りてからはいつもの早稲田めぐみの湯に浸かり帰路に着きましたが、身体の中がほかほかしていたのは、この日ばかりは温泉のせいではないと思います。数々の茶道具、陶片、「人間国宝」のわざ・・・・これらの力に共振してしまった心身がたまらず、発熱したような日曜日でした。

 茨城県立陶芸美術館、 来週の日曜日までやっています。落ち着いた年配の方々がどんどんつめかけていたアートな空間でした。

2008年2月27日
 私には主に3つの仕事があります。
 一つは大学時代からずっと続けている塾の講師です。これはパーソナルクラスというマンツーマンの授業を担当していて、主に発達障害児と呼ばれる子どもたちと算数や読書などを一緒にやっています。このクラスは以前やっていた不登校や引きこもりの子ども達との付き合いがずいぶん、私を後押ししてくれていて、「うまく上手に自分を語れない、でも分かって欲しい・・・」という気持ちが外に出るまで、つまり心をひらくまで、じっと耳をすまして待っています。もちろんいろんな教材や言葉で刺激を投げかけますが、思ったようにヒットするケースばかりではないので、いつも仲間と話し合いながら、「いつか化けるね」と待っています。私が普通にいて、時間が流れると、どんどん子どもが可愛くなって行きます。じっと待っているときに、お母さんの決定などでサッと塾から引き上げられたりすると、大変がっかりすることもあります。思ったような結果がすぐ出ないとダメっていうのは親子で最後にきつくなると心配しています。
 
 もう一つは子どもの体験活動を応援するNPOの仕事です。これは主に企画して書類を作成し、活動に参加して、また報告の書類を作る仕事です。活動に参加する時は大変楽しいのですが、前後の書類づくりがどうもやっかいなのです。毎年2冊くらいの分厚いファイルができ上がってその期の活動は終了します。でもそのころには次の期の活動が始まっているのです。文部科学省などから助成金を頂いて運営しているので、エンドレスな書類作りはずっと続いて行くことになります。

 最後の一つが重度障がい者の介助事務所の会計事務です。週3回の勤務で帳簿をつけたり、お金や預金の管理をしています。事務所には若い人が多いので、また塾の生徒とは違う新鮮な刺激をもらって仕事しています。塾を終えて卒業した彼らと付き合っている感覚です。この事務所は障がい者の自立を目指してスタートした場所なので、本来の目的を失わないようにいろいろな時間を使って、職員の意識を高めようと、確認作業を大切にしています。利益追求を中心におく企業体とは根本的に違うので、介助にはかかわらず、数字の世界のみの付き合いですが、それでも、やり甲斐があります。

 この時期の話になります。
 先日福島の母の確定申告を終え、今は塾の福島の申告書類作りの真っ最中です。週1で帳簿を確認していますが、残された記録は解明するのに困難なものが多いです。ハンバーガーのように膨れた福島の財布からすり切れたレシートが数枚出てきて、塾の帳簿へつけようとする姿に、「自分の財布と塾の会計は一緒にしないのが、原則よ」と、きつい言葉を投げかけます。「分かってるよ、でも、忙しいから・・・・」と彼は答えます。「何の書籍を買ったか、本人しか分からないので、レシートの裏に書名を書いてよ」というリクエストには、やっと3年目にして留意してくれるようになりました。そんな福島のつけた帳簿を申告用に仕立てる作業は大変困難を極めます。最近はパソコン振込という便利なものが登場して、大きなお金の流れは彼の記憶に頼らなくてもよくなりました。ただいま、格闘中です。
 そしてNPOの会計もあります。3月末の活動終了を待って、4月始めには助成金の実績報告の期限が待っています。この作業に約30時間を当てています。毎週日曜日や月曜日をそれにあてて、丸々4〜5日は覚悟しています。役所に出す書類なので、レシートの提出の仕方まで細かく確認してきます。本当に細かいミスを捜し出すので「すごい能力だな!」と感心することがあります。
 そしてこれが、一番大きな山場となります。介助事務所では3月末が決算です。一年間の会計の〆なので、何かとやり残した仕事がないかと確認作業は今から始まっています。

 この3つの仕事のどれも私の選んだ仕事なので、書類仕事のピークが重なっても、前々から準備して、事に当たっていますが、やはり、この時期、タイトなスケジュールは否めません。昨年は娘の受験期も重なって、「よくこの時期乗り切ったな」と今にして驚いています。
 ともあれ、2月は去り、3月はやって来ます。

 介助事務所に元塾生がいます。事務所で再開したわけですが、その彼女が厄年を迎えたというので、「何か身体にまく長いもの」を贈って、厄を祓ってもらおうと、コットンの細マフラーを編んでいます。編んでると別と世界に飛んで行って、良い感じになるのです。編み針を動かしながら、数々の書類を作っている山下の姿を想像してみて下さい。また、かたわらのストーブでは豆と牛すじがグツグツ音を立てて煮られています。これから味付けをして夕方には絶品の豆煮込みが出来上がっています。

←は紫外線に反応するビーズ(ストラップにつけて、時々屋外で反応させてみる)室内だと真っ白

2008年1月26日
 残念なお知らせがあります。
 吉祥寺もかのご主人がなくなりました。昨年より休業していたので、福島と「ご主人が悪いんだろうね、再開できるのかな?」と話していました。奥様に手紙も一度書いたようなことを言っていました。
 時を同じくして田無で30年のやきとんの店「とんたろう」も閉店しました。店のシャッターに張った寄せ書きには多くの方が声を残しました。みんなに惜しまれて「とんたろう」のご主人は奥様の看病のためにお店を閉めました。

 福島はしんみりと言います。「もうあの焙煎のコーヒーは飲めないのか。最後のネルドリップは使わずにとっておこう。標さんにいただいた外国からのハガキも大切にしまっておこう・・・。」
 彼は年末に「なんだか、いやな予感がするな・・」と言って、年が明けて吉祥寺に行った際、休業を知らせる張り紙も無くなっていたと帰ってきました。「コーヒーに憑かれた男たち」の本を探して、その中に登場する鶴岡のお弟子さんの店に電話して訃報を知ることになりました。本当に残念です。福島の胸騒ぎのする年末12月24日に亡くなられていたようなのです。
 本当にコーヒーを極めることに一生をかけた方でした。開店の1分前でもお店に入れてもらえなかったくらい、お客さんにも厳しい方でしたが、その何倍も自分にも厳しい方だったはずです。
 豆を送ってもらいながら、彼の生き様といつも一緒に居られた幸せを話しつつ、2人で冥福を祈りました。
 
 先日、お別れの会のハガキをいただき、福島はすぐ「出席させていただきます」と連絡していました。最後にお会いしたのが、「向こうで飲んでいってよ」と言われてコーヒー展示室で2人で頂いた時でした。あの標さんのコーヒーはもう飲むことはできません。「味や香りは人とある」ことが痛感される1月です。

2008年1月5日
 2008年明けました。今年もよろしくお願いします。
 年末には春合宿の候補地の猪苗代に講師みんなと行って、福島の文化や食べ物に感激して帰ってきました。興奮をコラムに報告しようと思いつつ、年末の喧噪に突入。気がつくともう年始の冬期講習が始まっていました。
 猪苗代との出会いは知り合いが安くホテルに泊まれるよと声をかけてくれて、それを足場に福島の温泉に挑戦したのがきっかけ。裏磐梯のビジターセンターに行って「春先に何ができるかな?」と思いを巡らしていたところ、スノーシューでスノートレッキングや残雪で遊ぶ企画が浮上して、すこしづつ春合宿の輪郭ができてきました。年末にみんなで候補の旅館に出かけていろいろアイデアをふくらまそうと出発していきました。当初のメンバーは8名。ふくせん、のりとくん、DIGの日江井さんとぶーさん。それに2人の大学生と社会人1人が予定でした。しかし大学の試験や急な胃腸炎などで3人がキャンセル。出発のハイエースの中でのりとくんがぼそりと「地味なメンバーになってしまった・・・。」
 旅館「えびすや」は自前の田畑で農作物をつくる旧家。のりとくんが到着してすぐ「ワタナベボシ」の家紋を発見。彼とこの旅館の家族とは繋がっていることが分かりました。不思議な縁を感じて「えびすや」さんとの付き合いが始まりました。
 スキーシーズンが始まったばかりの旅館は大学生が10人程度大人しくアフタースキーを楽しんでいました。私たちもドブロクや馬刺しをいただいて、雪の夜を楽しんでいました。そこへ旅館のご主人が話しに加わってくれて、「子どもたちに○○を体験させるのはどうですか?△△はどうですか?・・・・・・」と次々とアイデアを出して下さるのです。その面白さに思わず引き込まれてしまいました。スキーヤーであるご主人は林業の経験もある方で、きのこの栽培も得意です。
 翌日は若主人の案内で大きな体育館を見学しました。立派な床暖房付きの体育館で、磐梯山を抱えるお国柄、非常時の備えにもなっていることを知りました。そして「大久保」という地元の肉屋さんに案内され、馬肉や豚肉を購入して猪苗代に別れを告げました。
 これで仕事部分は終了。5人が楽しみにしていた会津の福島県立博物館へ向かいました。入り口付近で自由行動になり1時間後に集合を約束して一同散りました。結局私は土器を見ても、仏像をみても、もちろん白虎隊の絵を見ても、ぞぞっと来るものがあり、コーナー、コーナーをのろのろ進んでいたので半分ほどの行程しか味わえなくて、残念な思いで集合場所に向かいました。のりとくんは入り口付近の図書コーナーがあまり面白くて、入り口から中に一歩も入らなかったといいます。5人それぞれの関心が違うので、集合場所へのそれぞれの方向からやって来ていました。
 お昼は喜多方ラーメンを食べに会津から北上しました。旅館の若主人が推薦してくれた店を探して、途中酒蔵や味噌や醤油の蔵にも寄り、おいしいもの買いツアーが続きました。喜多方ラーメンは秀逸でした。ぶーさんは味噌が苦手、のりとくんはトンコツが苦手・・・・となると全員セーフのゾーンは狭くなりますが、喜多方ラーメンはそれを見事クリアしてくれました。満足のお店は「松食堂」と言いながら、メニューは「ラーメン、大盛りラーメン、チャーシューメン、大盛りチャーシュメン」の4種。お客さんをみると全員地元の人ばかり。
 福島の味のレベルの高さを実感して帰路に着いた私たちの車には「えびすや」さんの女将さん特製のたくわんやご主人自慢の白菜の他に、地酒、味噌、醤油、ラーメン、木工品・・・・が満載でした。これらを少しずつ消費して、福島県を味わっていると春合宿がやってくるという段取りになっているのです。
 
 これからの時期、塾は多忙かつナーバスな時期に入ります。センター試験も間近ですし、来年度の契約更新も始まります。のりとくんは新しき年度の生徒募集のチラシの構想中です。今年の舵とりはいかに・・・。
 

このコラムは2001年1月から続いています。過去の保存版を読みたい方は最新版巻末に戻って下さい。クリックして下さい。